落月



 湿気を帯びた風が、庭の木の青葉をさわめかせる。
 季節は夏を迎えていた。とはいえ四季がはっきりしているわけではなく、冬が最も色濃く長期的に居座るこの土地では、体感的には春の延長線のような心地だ。日が伸びたこと、湿った空気のせいで日々天候が不安定であることくらいが私に夏を感じさせる。
 この日、叔父は午前中から往診へ出かけていた。私は夕飯の支度までの間、薬屋の店番をしながら、彼の来訪を待ちわびていた。

「……今日も、来られないかしら」

 最近、彼はこの家を訪れない。今まで毎日ではないとはいえ、週に一度は顔を見せてくれていたのに。彼と最後に会った日から、すでに一ヶ月が経っていた。

「どうしているのかしら、皓くん……」

 私の口からは自然とため息が漏れる。
 およそ十も年の離れた仕事盛りの男性からしてみたら、恋人を必要としない一ヶ月の経過なんて瑣末なことなのかもしれない。むしろ彼の所属する団体を考慮すれば、尚更。
 しかし幼い私は、彼が恋しくてたまらなかった。泰然自若として彼を待ち続けるべきであることはわかる。けれど……。
 ――それとも、大きな怪我を負って動けない状態なのではないか?
 私の脳裏に、鮮血に染まった地面に伏して、微動だにしない恋人の映像が浮かんだ。
 一瞬にして顔から血の気が引く。私は悪夢のような思考を払拭すべく、強く首を横に振った。しかし一度影を差した不安は、私の心をいともたやすく覆い尽くした。
 いてもたってもいられなくなり、店番中であるのに、庭に出た。
 ちょうどそのときだった。

「白桃!」

 門の陰から、しなやかな長身が現れたのは。
 彼は、一ヶ月前に会ったときそのままの姿で、私の前へと歩み寄ってきた。芯の通った声で私の名を呼び、ネコ科動物のようにキリリとした目元をやわらげて。

「一ヶ月も顔を見せなくてすまない。少し立て込んでいて、なかなか暇ができなかったんだ」
「……皓くん、その手……?」

 ふと目についた彼の左手。そこだけが不自然に黒く汚れていた。
 今まで恐ろしい思考に囚われそうになっていたせいか、一瞬血液かと疑った。よくよく目を凝らして見れば、どうやらそれは墨汚れであるようだった。

「え? あっ、ああ、これは何でもないんだ」

 私の指摘ではじめて気がついたらしい墨で染まった左手を、彼は慌てた様子でさっと後ろへやった。

「……白桃? どうかしたのか、なんだか顔色が悪い――わっ」

 心配そうに眉を顰めた顔が近づいてくる。辛抱たまらず、私は彼の胸に飛び込んだ。驚いた声が聞こえたものの、力強い体の重心は揺らぐことなく私をしっかりと抱きとめた。

「ははっ、驚いた。ずいぶん大胆な出迎えだな」
「……皓くんのばか!」

 呑気に軽口を叩く彼に我慢ならず、私は憤慨した。

「私、心配していたのよ。皓くんの身に、何かあったんじゃないかって……」
「白桃……」
「……寂しかったのよ」

 情けなくふるえてしまったその言葉を、一陣の夏風がさらっていった。
 ややあって、大きな掌が私の髪をゆっくりとひと撫でした。
 彼はおもむろに脚を折ってその場に跪き、私と目線を合わせた。青く冴える月の瞳がふたつ、やさしげな光を放ちながら私を見据える。

「ごめんな」

 恭しく、彼が私の片手を汚れていないほうの右手でとった。乾いた肌から伝わるたしかな温もり。私はようやく心の底から安堵した。
 いまこの瞬間、ほんとうは泣いてしまいたかった。人目もはばからず、幼子のように。彼にすがりついて甘えてしまいたかった。
 けれど、精一杯“女性”でありたい気持ちのほうが優った。
 私は、謝罪の言葉を述べた彼に対してかぶりを振る。唇をきゅっと持ち上げて、笑ってみせた。

「おかえりなさい、皓くん」

 刹那、彼は目を見開いた。

「……ああ、ただいま」

 目の前の表情が雪解けのように、みるみるやわらいでいく。
 頬を染め、眉を下げて笑う彼は少し幼くて、何よりもいとおしい。


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