あさきゆめ



 懐かしい光景が広がっている。
 陽だまりの午後。庭の桃の木が立てる葉のささめき。幼い私を後ろから包み込む大きな体、髪をなでるやさしい手。何よりも私を安心させる不思議な香りと温もり。

「コウくん」

 私はいとしい彼の名を呼んだ。しかし、振り返って見た彼の姿は、彼の姿かたちをした燃えさかるような黒い影だった。

「コウくん、ごめんね」

 私はなすすべもなく、みるみる間に影にのまれていく。何も見えない。何も聞こえない。冷たい檻の中は孤独で、けれどひどく懐かしいこの感覚に安堵している私がいる。
 そうだ、ここが私の在るべき場所。世界から断絶された檻の中。やっと、やっと楽になれる――。
 やさしい暗闇に包まれながら、冷たい檻の真ん中で膝を抱えていると、声が聞こえてくる。
 叔父の声だ。

「白桃……」

 叔父が、檻の外から私に呼びかけているのだ。

「白桃、君は“とくべつ”な子だ。君のその力は、この先自分自身を苦しめてしまうものになるかもしれない。けれどね、つらくても、自ら暗闇にのまれることだけは、どうかしないでくれ。約束してくれ、白桃……」

 叔父の言葉がまるで呪詛のように繰り返される。ああ、耳鳴りがする。堪らず私は耳をふさいだ。
 苦しくて、寂しくて、恋しい。
 コウくん、ごめんね。
 ごめんね――。

「白桃ちゃん」

 はっと目が覚めた。
 四方を布で仕切られた狭い天井を視界にうつしたまま、私はしばらく身動きができなかった。
 自分の動悸を感じながらゆっくり視線を泳がせると、薄暗闇のなか見知った顔がそこにあった。色のない肌、淡青色の瞳。乱れた呼吸のままに、ラウ、と彼の名前を口にする。

「白桃ちゃん、大丈夫? うなされてた」

 無邪気な声音で彼が問う。まるで子どもが母親を気にかけるような、そんな口調。
 そっと髪をなでてくる手つきがやさしくて、私は小さく笑いかけた。

「……大丈夫よ」
「また、こわい夢を見た?」
「少し……。でももう平気」
「熱は、下がったみたいだな」

 ラウがおもむろに私の額に手をあてて、そうだった、と思い出した。風邪をひいてしまったのだった、私は。けれど節々が軋む感じや、寒気もない。ラウの言う通り、熱はすっかり下がったのだろう。

「仙さんの薬のおかげね」
「あの爺さん、やぶじゃなかったんだな」
「やぶなんかじゃないわ。彼は私の叔父も尊敬していたほどの名医よ」

 そう、かつて医師をしていた叔父が「仙明陽は、私が医師を志したきっかけとなった人なんだ。それは優れた軍医だったんだよ」と、よく話して聞かせてくれた。
 仙明陽の著書は、私が育った家の本棚の半分近くを埋め尽くしていた。だから私の知りうる医術の半分は、彼からの知識だと言っていいかもしれない。
 熊猫飯店の古参の常連客である彼が、仙明陽本人だと知ったときは驚いたものだ。日本で暮らしているとは風の噂で聞いていたけれど。
 ラウはいまいち納得しきれていないふうに頷いて、おぼえとく、とだけ言った。それにまた笑いかけて、私は体を起こした。ベッドから下りて、丈の長い上着を羽織る。

「どこにいくんだ?」

 背後からかかった声に振り返る。

「喉が渇いたの。下で水を飲んでくるわ。それと、明日の仕込みを済ませてからお風呂で汗を流すわ」
「俺も手伝うよ」
「大丈夫よ。それに、二日も私の看病で疲れたでしょう。ラウはゆっくりしていて」

 ラウの返答も待たずに、私は寝室を後にした。
 階下の厨房で冷たい水を一杯口にする。茶杯を置いて深いため息をつくと、少しばかり気持ちが落ち着いたようだった。
 それでも夢の余韻は、蔓草のように私の足元に絡みついている。
 彼の姿かたちをした影。まるで、憎しみの炎が燃えさかっているようだった。
 夢のなかの私は影から逃げようとも思わなかった。いや、影――憎しみを受け入れることで、私は逃げてしまいたいのだ。何もかもから。
 いっそ暗闇に身をゆだねてしまおうかと、今まで何度思ったかわからない。
 でもその度に、私にとっては実の父よりも父だった叔父の言葉が、私を縛るのだ。

 ――白桃、君は“とくべつ”な子だ。

 ――君のその力は、この先自分自身を苦しめてしまうものになるかもしれない。けれどね、つらくても、自ら暗闇にのまれることだけは、どうかしないでくれ。

 ――約束してくれ、白桃……。

 夢の言葉なんかじゃない、たしかに叔父が私に遺した言葉たちだった。

 《得体の知れないやつら》は、私の罪だ。
 ラウという唯一無二の“とくべつ”なキョンシーをつくってしまったその日から、罪は影となって実体化した。
 私が《やつら》にのまれて、その身を跡形も無く砕かれ罰を受けるまで――罪は永遠に終わることはない。
 私は、生きていることすら罪なのだ。


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