「崎くん、小さい頃、あそこで杏と遊んでくれてなかった?」

 驚いて、反応が鈍る。
 当時の様々な記憶が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。ややあって、俺は頷いた。するとお父さんは、ああやっぱり、と言って表情をほころばせた。

「前に会ったときに崎くんが『透です』って名乗ったから、もしかしてと思ったんだ。まあ、めずらしい名前でもないし、半分はそうだったらいいなあって僕の願望だったんだけど……」
「えっと……杏さんが、僕のことを話したんですか?」

 児童館での楽しかった記憶に勝るくらい、俺の中に鮮烈に残っている記憶。杏ちゃんを泣かせてしまった、傷つけてしまった記憶が、まるで昨日のことのようによみがえる。
 しかしそれについて詰るにしてはやさしすぎる笑顔で、お父さんは頷いたみせた。

「当時のことはよく覚えてるよ。……杏から聞いているかもしれないけれど、家は離婚していてね。ちょうどそのことで揉めていた頃だったから……」

 透くんの家は、お父さんとお母さん仲よし?
 家は、あんまりよくないかも。
 わかれるかもしれないんだって。
 だから、ほとぼりが冷めるまでは、こどもは家にいないほうがいいんだって、お姉ちゃんゆうし。

 俺に当時の家庭事情をクールに話してくれた小学生の杏ちゃんは、けれどどこか寂しげに見えた。
 ほんとうは、大丈夫じゃないのかもしれない、と俺は思ったのだ。

「お姉ちゃんはもう大きかったし、杏だけがほとんど何の説明もなしに親戚の家に預けられてかなり負担をかけてしまったと思う。情けない話だけど……正式に離婚が決まって、杏を迎えに行くのが少し怖かったな。合わせる顔がなかった」

 でも、とお父さんが言葉を切る。

「でもね、迎えに行って、杏に謝ったら開口一番こう言われたんだ。『児童館で透くんと遊んでたから、だいじょうぶ』って」

 透くんはね、体がおおきくて、やさしくていい子なの。花がすきなんだって。あと、ドラゴンボールってまんが。お父さんしってる?
 いっしょに本よんだり、花にお水をやったりして、すごくたのしかった。わたしのこと先生みたいってゆってくれて、うれしかった。
 でも、わたし最後にカッコ悪いところ見せちゃって、だからちゃんとサヨナラできなかったの。
 いつかまた、あえるかな。
 あえるといいな……。

「いつもおとなしいあの子が饒舌に話すもんだから、びっくりしたよ。当時はそれでほんとうに救われたんだ。僕も、そしてきっと杏も。だからもし崎くんがその『透くん』だったら、そのときのお礼も言いたかったんだ。ほんとうに、ありがとう」

 お父さんが頭を下げる。
 俺は、思いがけない話を前にただただ呆然として、いえ、とゆるくかぶりを振るので精一杯だった。

「何の話をしてるの?」

 甘い声音にはっとする。
 三人分のコーヒーカップをのせたお盆を手に、杏ちゃんがソファの傍らに立っていた。
 話の内容はキッチンにまで届いていなかったみたいだった。ぼんやりとする俺を見て、杏ちゃんは不思議そうに目をぱちぱちさせる。

「お父さん、あんまり崎くんのこと困らせないでね」

 どうやら何か勘違いをしたらしい。むっつりと指摘した杏ちゃんに、お父さんが苦笑した。



 まだ夕方だけど、真冬の外はすっかり群青色に染まりつつあった。
 杏ちゃんが見送りについてきてくれた。マンションのエントランスに出て、ここまででいいよ、と俺は杏ちゃんに向き直る。

「今日はどうもありがとう」

 そう言って、杏ちゃんがおずおずと俺を見上げた。
 本日何度目かのお礼の言葉。人生で言われるうちの半分は、今日は「ありがとう」と言われたような気がする。
 と、ふいに眼下の手が動いて、それが俺の右手にそっと触れた。

「……ちょっと照れくさかった」
「え? なにが?」
「だって崎くん、わたしのこと『杏さん』なんて言うし……」

 些細なきっかけで壊れてしまいそうな小さな手は、それでもためらいなく俺の手に指先を絡めてくれる。杏ちゃんがふふっと笑うと、甘い花の香りがふわりと鼻先をかすめた。
 胸の奥のほうでいろんな記憶がよみがえる。数え切れない嫌な記憶も、心が救われるような、やさしい記憶も。

「……杏ちゃん」
「なあに?」

 この手をぎゅっと握るのはまだ少しこわいけど、それでも握り返した。精一杯のやさしさで。

「あいしてます」

 あのとき、勇気を振り絞って、俺は君に声をかけてよかった。



18.1.16

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