七月、いつのまにか鳴きはじめた蝉の合唱を背景に、がらんとした教室の真ん中で担任の先生と向かい合っている。
今日の放課後は、三者面談だ。
保護者用に割り当てられたあたしの隣の席には、お母さんはいない。当たり前だ、面談のことは話していないのだから。保護者宛のプリントも結局渡せなかった。
ファミレスのアルバイトに明け暮れるようになってから、あたしはお母さんの顔をちゃんと見ていない。作ったごはんもそのまま。お母さんは、いっそう家に帰ってこなくなった。
仕事が忙しいみたいでどうしても都合がつかなくて、と先生に言い訳をして、今日は二者面談に変更してもらったのだ。
「岡部さんは、進学はしないの?」
事前に記入した進路希望のプリントを見ながら、先生が確認する。
「はい」
「そう。じゃあ、就職?」
「……」
進学はしない。あたしが考えているのはそれくらいだった。就職、と訊かれて、途端にうろたえてしまう。
「二年生だからって、今のうちからそれくらい決めないと。うちのクラスじゃあなたくらいよ、何も決めてないのは」
先生は困った様子だった。呆れられているのだと思うと、尖った氷を飲み込んだみたいに苦しくて、体の内側が冷えきってゆく。なのに頬や耳や、膝の上で握りしめた手は汗がにじんで燃えるように熱かった。
果てしなく長く感じた面談は、十分もかからずに終わった。
まっすぐ家に帰りたくなかった。アルバイトがあったらよかったのに、今日は面談だからシフトを入れなかったのだ。
憂鬱な気分であてもなく校内をさまよう。
二階の美術室の前を通りかかる。戸が少し開いていて、何気なく中を覗いてみると、見覚えのあるうしろ姿を見つけた。窓際で大きなキャンバスに向かっているのは、クラスメイトの男子だった。
(名前、なんだっけ……)
ぼんやりと記憶を探りながら、彼の背中をじっと見つめた。
全身を使ってキャンバスに筆を走らせる。ときどき、考え込むようにじっと動かなくなる。大胆に、ときに慎重に、あんなに大きなキャンバスを彩ってゆく。開け放たれた窓から、風にのって独特の絵の具のにおいがあたしの鼻先をくすぐった。
胸が、ぎゅっとなる。
光のなかで、クラスメイトが絵を描き続ける姿はまぶしくて、なんだか泣けた。
いいな。
あんなふうに絵が描けるなんて、いいな。
あたし、なんにもないな。
この広い空はあたしみたいだ。
ただただ青いだけでなんにもない空の下、いいな、いいな、とひたすら思っていたら、ぽろぽろと涙がでてきた。
泣きながらアパートへ帰ると、やってきたトラ猫がめずらしくあたしの足首に擦り寄りながら、かすれた声で鳴いてくれた。あたしはようやく涙をふいた。
部屋のまんなかで寝転がって、夕飯も作らずにいる。体が重たい。水底に沈んだ石のよう。
あたしは寝転がったまま、借りっぱなしになっている写真集を開いた。
ほんとうは、したいことがひとつだけあった。でも先生にはとても言えなかった。
(海を見にゆきたい)
卒業したら、海を見にゆきたい。
写真なんかじゃない、潮の香りがする、ほんとうの海を。
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