駐輪場から自転車を引っぱり出した。
中学生のとき、アパートの大家さんから入学のお祝いにもらった水色の自転車(今は東京にいる娘さんのお古らしい)。乗るのはずいぶん久しぶりだった。なにせ前回乗っていたとき、雨上がりのぬかるんだ道を走っていたら田んぼに頭から突っ込んだのだ。以来、なんだかふてくされた気持ちで乗らないでいた。
でも、今日はこれから駅前まで行くので、歩いていたら帰宅が夜遅くになってしまう。駅前はちょっと遠いのだ。
埃をササッと払って、サドルに跨る。と、足元でニャアと声が聞こえた。視線を落とせば、いつの間にか佇んでいたトラ猫と目が合った。どこいくんだ、とでも言わんばかりのえらそうな目。
「……いっしょにいく?」
試しに訊ねてみたら、しかしトラ猫はいつも通り素っ気なく、ふんと鼻を鳴らしてからアパートの陰へと消えていった。
ちぇっと思う。でもすぐに気を取り直して、あたしはペダルを踏んだ。
鼻歌をうたいながら、風を切ってゆく。
ここは田舎町だけど、駅前はちょっとだけ栄えている。新しいスーパーもあるし、文具を置いている本屋もあるし、ファミレスだってある。
「いらっしゃいませー」
お腹が鳴りそうだ。
店内はくらくらするほど明るくて、あたたかい。そして、この世のおいしいにおいをぎゅっと閉じ込めたみたいだった。
あたしはいま、駅前のファミレスにいた。案内された窓際の二人席にぽつんと座り、はじめてのファミレスという場所に少しだけ緊張しながら、テーブルの上にメニューを広げた。
(おむらいす……)
黄金のたまごに、光り輝くデミグラスソースがかかったオムライス。それにあたしは釘付けになってしまった。
飲み物だけで済ませる計画が早くも揺らぎはじめる。ごはんを食べにきたんじゃない、と心の中で己を叱咤する。
今日は、下見というやつに来たのだ。
つい先日、アパートのポストにこのファミレスのチラシが入っていて、その端っこに【アルバイト募集】の文字が踊っていたのである。高校生可。未経験歓迎。まかない有り。とくに最後の項目は魅力的だった。お金が稼げる上に、ごはんが食べられるなんて。
募集要項にはフロアとキッチンがあったけれど、キッチンのほうがいいな、と考える。接客はちょっとこわいし、それに、あんなにジュージューと激しく音を立てる熱そうな鉄板、持てるかわからない。
出来立てのステーキがのせられた鉄板をふたつ、軽々と両手に持って客席の間を器用に移動するウェートレスさんに尊敬のまなざしを注いでいたら、視界にふっと影が差した。
「ご注文はお決まりでしょうか」
低い声に驚いて顔を上げると、席の横に男の店員さんが立っていた。
あたしをこの席に案内してくれた店員さんだった。少し長めの前髪から覗き見える目が、ひんやりと冷淡にあたしを見下ろしている。
彼の顎にはうっすらと無精髭がはえていた。おじさんと呼ぶにはまだ若そうに見えるけど、愛想ないし、背も高いし、なんだかこわい。
彼はどこか暗澹とした無表情を崩さず、さっきと同じ発音で「ご注文、お決まりでしょうか」と繰り返した。あたしは慌ててメニューに視線を落とす。
「……お」
「お?」
「お、おむらいす、ひとつ……」
デミグラスソースのオムライス、七百五十円……。
店員さんが去ったあと、あたしはいろいろと負けた気持ちでテーブルに突っ伏した。
しばらくして、オムライスがやってきた。
「おまちどうさま」
おまちどうさま?
あたしの前にオムライスの皿を置いた店員さんの言葉に、あたしは頭のなかで首をかしげた。
お待たせしました、ではないのだろうか。
でも、なんだかいいな、おまちどうさま。
むふふ、とひそかに笑いながら、つやつやと光り輝くソースのかかった黄金のたまごをスプーンで掬った。
会計のとき、レジの前に立ったのもさっきの店員さんだった。「宮田」というネームプレートが左胸に留められていることに、いま気がついた。
あたしはお金を払ってから、ごちそうさまでした、と頭を下げた。
「うまかった?」
オムライス、と店員さんが言う。
あたしはびっくりしながらも、
「はい」
と、頷いた。店員さんは、それはなにより、と口の両端を持ち上げてみせた。
なんだ、笑えるのか。
「またどうぞ」
店員さんの声に見送られ、帰り道、あたしはまた自転車を漕ぐ。
猫を抱いているみたいにお腹がほかほかとあたたかい。誰かがつくったごはんを、久しぶりに食べた。
「海未、おかえり」
家に帰ると、お母さんがいて、あたしはドキリとした。晩ごはんの時間はとっくに過ぎていた。食事の支度すらしていない。
なんて言い訳しようと思っていたら、お母さんは、楽しかった? と笑顔であたしに訊ねてきた。
「お友だちと遊んできたんでしょ?」
きょとんとしているあたしにお母さんはなおも笑顔で、疑いのかけらもない澄んだ声でそう言った。
お母さんは、あたしに友だちがいると思って疑っていないのだ。
高校二年生なのに、もうすぐ夏なのに、いまだに学校に友だちがひとりもいないと知ったら、お母さんはかなしむのかな。
「お母さん、あのね」
鼻歌交じりに洗面所のほうへ向かうお母さんを引き止めるように、あたしは言う。
「あたし、バイトしたい」
「……バイト?」
お母さんがこちらをふり返る。ふわりと甘い香水のにおいが、あたしの胸を少しだけ締めつける。春に咲く花のようなにおい。もうすぐ夏なのに、お母さんの季節はいつからか、ずっと春のままだ。
気まずいような沈黙のあと、そっか、とお母さんが呟いた。
「そうだよね。海未はもう、バイトもできる年なんだよね」
しみじみとした口調のあとに、お母さんは顔をほころばせてあたしを見た。
「お母さんうれしいな。そっか、海未はもう、ひとりでなんでもできるね」
ほんとうにすごくうれしそうなお母さんを前に、あたしは、どうしてか心にぽっかりと穴が空いたような気持ちになった。
お母さんに「ダメ」とか「海未にはまだ早いんじゃない」と、言われるような気がしていたのだ。
ああ、なんだ。よかった。怒られなかった。これで、アルバイトができる。
よかった。
なのに、どうして。
お母さんはやさしい。あたしは叱られたことすらない。それがあたしには、いいことなのかそうじゃないのか、わからない。
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