火のない所に煙は立たぬ
ロクくんとキスをした。
勿論それはこちらが強引に仕掛けたものではあるけれど。
触れた唇の感触は、何日も経った後でも鮮明に焼き付いて離れない。
わたし、本当にしちゃったんだな。
「あんた最近井上くんのこと話さないわね」
「そっ、そうかな」
「いつもいつもうるさいくらいだったのに、喧嘩でもしたの?」
お母さんがわたしの方を怪訝な顔で見る。そりゃそうだ。
彼が引っ越してきてから、わたしの生活は彼中心になっていて、暇さえあれば会いに行って、ご飯を作って、一緒に寝て。
こんな風に家にいることなんて、無かったのだから。
「…うん」
「早く謝ってきなさいよ」
何故聞きもせずわたしが悪いことになっているのか。指摘したかったけど、今はそんな気分じゃない。
…嫌だよ。どんな顔して会えばいいの。結局ロクくんに彼女がいるっていうのは、勘違いだったらしいし。
阿呆が、と冷たく呟いた彼の声を思い出す。あれは本気でわたしのことを軽蔑した声だった。
もうやだ、もう無理。絶対嫌われた。
「あ、そうだ。これうちのポストに間違って入ってたお隣宛ての手紙なんだけど、届けてきてくれない?」
「いいよ。佐藤さんだよね」
「いやお隣はお隣でも佐藤さんじゃなくて、井上くん」
「わたし今喧嘩してるって言ったよね!?」
「だから仲直りするきっかけを与えてあげてるんじゃない」
「激しくお節介だよお母さん!!」
「いいから行きなさい」
うう、ひどい。横暴だ。あっという間に家から追い出されて、ぽつんとマンションの廊下で佇む。
ぱっと渡してぱっと帰ろう。ごめんなさいって言い逃げしよう。
意気地なしだと罵られても仕方ないけど、今彼に嫌われたことを現実として目の当たりにしてしまったら、きっとわたしは泣いてしまうから。
そうしてしまうよりは、きっと逃げた方がマシだ。
びくびくしながら彼の家のインターホンを押す。しばらくして静かに玄関が開いた。
「…サヤ?」
何日かぶりに見るロクくんの顔。何日かぶりに聞くロクくんの声。
なんかもう、それだけで泣きそうになってしまう。
「っあの、これ間違ってうちのポストに届いてて、お母さんがロクくんに持っていけって」
「あぁ、わざわざ悪いな」
「えっと、そのいきなりごめんなさい。じゃあ!」
「おい」
慌てて戻ろうとするわたしの腕を、彼がぐっと掴んだ。
「人の顔見てそんな泣きそうな顔しやがって、言いたいことがあるならちゃんと言え」
なんで、なんでロクくん、そんな何でもない顔でいられるの。
気にしてほしくなかったけど、そこまでいつも通りだと逆におかしいよ。
わたしのしたことって、ロクくんにとって何でもないことだったの?
「だ、だって…」
「キスしたこと、気にしてんのか」
「気にするよ!勝手に勘違いして、勝手に暴走して、わたしロクくんに合わせる顔が…」
「別にいい」
「えっ!?」
今、何て言った?
「むしろ今のお前の方が何倍もムカつく」
「今って、いうのは」
「逃げようとするくらいなら最初から俺のこと好きとか言うな、阿呆が」
「じゃあわたし、」
ロクくんのそばにいていいの。
そう尋ねたわたしに、彼は仏頂面で腹減ったから飯作れ、と言った。
「…好き」
「知ってる」
…ちょっとは自惚れてもいいのかな。
ロクくんロクくんロクくん。
あなたがそんなに優しいから、わたし、勘違いしてしまいそう。