夜が来るよと囁く音に、彼女は安堵の息を漏らした。朝が終わるのだ。がらんどうの部屋は静まり返っていた。彼女はスカートの裾を握り締めて、泣き腫らしたあかい目蓋をゆっくり開く。夜が来るよ。やがて再びの朝が来るのも止められないけど、それでも彼女は喜んだのだ。誰かが、可哀想に、と、言った。
- 朝夜朝夜


あの庭の桜は、綺麗な桃色をしているだろう。あの種の花弁は白っぽいのだけれど、ほら、梅のような淡紅色。あれはそのうち、真ッ赤になるよ。血の海みたいに、あの日みたいに、真ッ赤になって。そしたら今度は貴女が、土の下に埋める役をするのよ。掘り返すときに下手をして、骨を見つけないようにね。
- 桜の下には


生きたいときに生きたいだけ、息をすれば良い。生きたくないなら息を潜めて、クローゼットの中で膝を抱えて、生きたくなるまで眠っていて良いよ
- 無題


ちかちかと点滅を繰り返す街灯に照らされて、ソメイヨシノが佇んでいた。明日は雨よと彼女が言う。数日前の天気予報士の言葉を思い出して、まるで余命宣告だと、私は、彼女にてるてる坊主を握らせた。地面は汚い薄紅色で、ソメイヨシノはちらつく街灯に照らされている。夜の彼女は美しく揺れていた。
- 夜桜


どうか土葬は止めておくれ。死んでも体が残ると思うと気持ちが悪い。自分以外の体ならば抵抗もないが、内臓を取り出して使うのも構わないが、私の知らない私の肉が、ここに残りいつか醜く腐るさまを、私は、土の下なぞ誰も見やしないというのに恐れているのだ。だからどうか土葬だけは止めておくれよ。
- 苔の下


わたしがあなたの名前と顔を忘れまいと脳味噌に刻んで、そのとき誰かの名前と顔をきれいさっぱり忘れているのだと、知ったのは大人になってからだった。わたしがあのひとの名前と顔を覚えたときに、あなたの名前と顔が思い出せなかったから。きっとあなたもわたしのことを忘れてしまったのでしょうね。
- ところてん式の海馬


あのひとが名前を呼んでくれないのは、あのひとが誰かに片想いをしているから。だから仕方がない。あのひとは此方を見てはくれないが、それも仕方がない。きっとあのひとがそうであるように、わたしも誰かの名前を呼ばないし其方を見てもいないのだ。仕方がない、わたし達は皆、片想いをしているから。
- わたし→あのひと→だれか


いいよ、と言って、わたしは彼女の柔い髪を撫でた。彼女は小さく震えていて、わたしは泣いていたのだった。かたく括れたひもを解くように、或いは、サイズの合わない靴を脱ぐように。そうやって、わたしたちは許しあっていくのだ。良くも悪くも。そうしてはじめて、わたしたちは夜を越すことができる。
- 越夜


耳鳴りがしている。キィィと電子音に似た厭な音を聴いている。教室はうるさくって、誰かが誰かを糾弾して、誰かが誰かを殴っている。厭な音は私だけが聴いている。まるで遠い国の話みたいだ。うるさいはずの教室の音が遠くに聞こえる。左頬が遅れて痛む。どうやら私だけがそこにいない。厭な音がする。
- 隔絶


彼女の不健康な後姿は、あばらが浮き出ていて肌がくすんで、傷だらけだった。逆剥けの指先も枝分かれした毛先も、薄いジーンズの下の痩せこけた脚をも、彼は好いていたけれど、所詮子供の戯れだと彼女は相手にしなかった。草臥れたような不健康な女の、それでも強かな眼は、幼い網膜に焼き付いている。
- あのひと


あいしているよを言おうとして、言葉にならずに金平糖が口から溢れた。ああまただ、勿体無い。薄いピンクの砂糖菓子が砂の上に落ちてしまった。あの人は真面目だから、3秒ルールなんて使わないんだろう。そんなところも好きだけど、と、僕は足で金平糖を地面に埋めた。せめて蟻にでも食べてもらえ。
- 愛の告白


指切りしたから、と、都代子は右手の小指の爪の赤色を見ている。塗ったのは私。都代子は嬉しげに爪を見ている。帰ってくるはずがないのだ、彼女の指切りの相手は。それでもエナメルが剥げる度、私に塗り直すようにせがむ。早く終わればいいのにと、私は空になった瓶を振った。都代子はまだ待っている。
- 小指の爪


ひだまりに揺られて、白いベッドで目を覚ます。同居人が淹れたのだろう珈琲の香りと、腹の辺りの重さに頬を緩めて、俺たちのもう一人の家族におはようを言った。彼はしっぽの先だけで返事をする。白い朝だった。腹の上の、この猫が好きな時間。珈琲の香り。身動きが取れないのは、今だけ良いとしよう。
-


後から考えれば考えるほど、なんて奇妙な世界だったんだろうと思わざるを得ません。そして、帰れないのだなあと、ふと思って、悲しくはなれないけれど、いつの間にか堀ができたように感じます。そんなに前の話じゃないのにね。とても懐かしい、変な場所でした。
- 無題


教室はわたしたちのすべてで、わたしたちの世界でした。教師になったとしても、もう二度と帰れないでしょう。わたしたちは大人でも子供でもなかった。わざと着崩した制服が結果みんな同じになって、そんな場所に戻りたいとは思わないけれど、それでもあの狭い部屋こそが、わたしたちのすべてだったと。
- in the classroom


規則的な揺れと、時々途切れる西日に、睡魔をけしかけられる。寝不足の目蓋は簡単に落ちた。彼女は眉根を寄せて目尻を下げておやすみなさいと囁くが、空気が抜けるような音を立てて開いたドアに掻き消された。やがて短い車両は人ひとりだけを乗せて、睡魔を連れてふたたび動き始める。踏切の音は遠い。
- 橙色の世界が愁いを帯びて響く #1日1色世界


女の子はアボカドが好き、抹茶が好き、雑貨が好き、甘いものが好き。ああ、こういうもの、女の子は好きですよ。分類しなければなりませんか。几帳面だもんね、A型っぽい。B型だからマイペースなの。分類しなければなりませんか。同じでなければなりませんか。流行りの服を、着なければなりませんか。
- わたしはタピオカが嫌い


子供達は小さな手を繋いで、揃いの顔をふたつ並べた。カラフルな子供部屋に掛けられた「割れ物注意」の札にうつむく寂しい右手には、同じように繋いでいたはずの感触がまだ生々しく残っている。子供達は揃いの顔で不思議そうに、割れてしまったのと訊く。まだ感触が残っている。探しには行けない。
- かたわれ


例えばここに、赤い糸があるでしょう。私の小指に繋がっている。これがどこへ続いているのかを確かめる術を私は持たないわけですが、ところで、ここで私がこの糸を1メートルくらいで引きちぎってあなたの小指に巻き付けたらどうします? あなたの行動範囲が私の半径1メートルになるわけですけれど。
- プロポーズ


信号は赤になった。隣の男が立ち止まった。艶やかな革靴に車が水をかけた。雨上がりの空は憂鬱で、男は革靴の汚れを気にもしなかったが、私は、あの車から運転手を引きずり出さなければと考えている。信号は青になって、革靴は水溜りの上を悠然と歩いた。私は、引きずり出さなければ、と、考えている。
- #信号は赤になった


花が咲いていた。青い花だった。とても綺麗な青い色。空の蒼の所為でどうにもぱっとしないのは、下から見上げているからか。上からならば違うだろうかと石を積み上げて見下ろしたら、綺麗な青い色は草葉の碧によく映えた。けれど後から思ってみれば、空の蒼に溺れた青の方が、ずっと綺麗だったのだ。
- あお


まるで知ったように綴るけれど、彼女はそのどれもを本当は知らないんだ。ああして形にして、どうにか理解しようとしてる。あれは彼女の苦悩で、葛藤で、彼女そのものなんだろうね
- 無題


君は本当に莫迦だね。時々そうやって思い出したように笑ってみせたって、君の赤い目も白い肌も何も変わっちゃあくれないのに。それでも僕は君の、綿毛のまつげを綺麗だと云うし、血潮の瞳を好きだと云うよ。君が笑ってみせても、悲しい顔をしていても。僕も莫迦だから、どんな君もうつくしいと云うよ。
- ばかふたり


あの大きくて狭い部屋に、規則正しく並んだ机に、落書きされた椅子の裏に、薄汚れた黒板に、私たちの全てがあった。私たちは確かに、あの場所で生きて、そして桜が雨で散ったあの日に死んだ。生まれ直したこの場所との間には深い堀があって、つい最近までそこに居たのに、どうにも堀は深いらしかった。
- school days


手の小指を深爪してしまって、なんだか痛くて絆創膏を巻いた。誤魔化すみたいに少し強めにしたから、眠ろうと横になったとき、まるで小指の先に小さな心臓があるみたいにじくじくとした。じくじくと、脈拍とは関係のないテンポで、絆創膏の中を小さな心臓は藻掻いた。どうやら私の指先は生きている。
- 小指


それは妙な女だった。立ち姿はいつか見た女優のようで、顔は母に似て笑みは祖母に似て、選ぶ話題は姉に似ていたがまるで他人同士のような会話をした。チグハグな人だなァと思った。私は、世の女を全部合わせたらこのようになるのではないかと考え、この女はきっと幽霊に違いないとさえ思わされたのだ。
- the woman


たとえばこの寂しさも、それを埋めようと藻掻く腕の感触も、どうしようもなく底冷えする床の冷たさも爪先も、全部私の妄想だったとしたら。水槽に浮かぶ脳が見た夢だったとしたら。でももしそうだったならあの人が来て腕を掴んで暖かい部屋に連れて行ってくれるから、間違いなくここは現実なのだけど。
- Brain in a vat


彼は脳内にムカデを飼っている。彼が怒るとき、頭のあたりから這い出てきて威嚇するようにギチギチと音を立てる。彼はおそらく気が付いていない。あれは彼の脳内に棲み付いているが、私はあれこそが彼自身だと睨んでいる。ギチギチと音を立てて、彼は周囲を威嚇している。ムカデの目で私を見ている。
- 百足


君が見てた世界は死んでる。うしろから崩れてる。ぼくの足元、は、あした。世界が死んだのは四千年くらい前。端から崩れ始めたのが二百年前で、全部なくなるまではあと十年。目を閉じたら、すぐ、そこ。両手を広げて、待ってたから、もうすぐだよ。ぼくの足元はあした。四千年前には死んでたんだから。
- 無題


ねえジョン、人間ってどこからどこまでだと思う。たとえば心臓と脳味噌その他の内蔵がきちんと機能していれば、外身がなくても人間かな。よくできたAIが障害物を認識して歩けば人形も人間かい。たとえば、彼女も、そうなのかな。ぼくは分からないよ。ねえジョン、きみはどう思う。ぼくらも人間かな。
- human beings


 



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