174、バナナワニ


哀しみと悔しさ。この手で、奴を葬ることのできない己の非力さにビビは嘆きながら嗚咽をこぼし、冷たい床に両手をついた。重たい空気が淀むなか、嗔恚に満ちた息遣いにまじりクロコダイルの嗤い声が不協和音のように存在している。

失意を目の当たりにしたビビにかける言葉が、見つからない。目の前にいるのに震える小さな背中を抱きしめることすらかなわない。ぐっと握りこぶしを作って、水を張った瞳でかろうじて目視できる位置にいるクロコダイルに、アリエラは向き直る。
ウィンドローズ。つぶやいて、風を持つ花びらを手のひらから生んだが。それは力にはならずに、さらりと地を撫でるだけだった。

「ビビ!!」
「っ!」

そのとき。ルフィが大きな室内に響き渡るほどの大声を張り上げて、王女の名を叫んだ。
ぴたりとクロコダイルは足を止めて、ミス・オールサンデーはこちらを振り返る。アリエラもナミたちも、びくっと肩を震わせて船長に目を向けた。

「…ルフィ、さんっ、」

すすり泣きながら、ビビは頭を擡げてルフィを見つめる。涙で歪んでいるけれど、こちらを強く射抜く彼の目は怒りと希望に満ちていて、またぱっとビビの胸を太陽のように強く照らした。
けれど。煽るようにことは展開に移ろう。ドカン、と破壊音が轟いた次の瞬間にはじゃぶじゃぶ水の音が室内を満たしていく。

「げっ! 水が漏れてきたぞ!?」
「きゃっほんとだわ!」
「そんな……っ、!」

ウソップの慄く声に視界を探ってみれば、部屋の仕掛け床が作動したようで床から大量の水が溢れるようにして湧き出ているのが窺えて、アリエラたちはゾッと顔の色を蒼く染めた。水漏れなんて生ぬるいものではない勢いだ。それもそのはず、ここは水中に作られた部屋。破壊した内側から浸水させて、クロコダイルは元々この部屋を消すつもりでいたのだ。

「あと1時間ってそういうことだったのね、あいつ……」
「ビビィ! 助けてくれ!! 何とかしてくれェェ!!」
「騒ぐな。てめェは」
「ああッバカゾロ! アホゾロ! 屁こきゾロ! これが騒がずにいられるかお前! ほっときゃ死ぬんだぞ!? 分かってんのかてめえ!」

床を震撼させながらなだれ込んでくる大量の水に泣き声をあげはじめた海賊に、クロコダイルは大きく口角を持ち上げて歩き出したが、次いで響くルフィの声にまたその笑みは角度を増していく。

「何とかしろビビ! おれ達をここから出してくれ!!」
「でも、ルフィさん……っ」
「あー……。ついに、命乞いをはじめたか、麦わらのルフィ。そりゃァそうだ。誰でも死ぬのは怖ェもんさ」

みっともなく映った姿にご満悦なクロコダイルは、ゆらり大きくマントを揺らす。

「おれたちが、! おれ達が死んだら誰があいつをぶっ飛ばすんだ!!」

だが、続いたそれにフッと笑みを消した。一瞬にして渇いたボスの表情を、ミス・オールサンデーはわずかに眉根を寄せて一瞥する。強く握られたこぶしは怒りに震えていて、ふう……と吐き出した葉巻の煙はどこか茶色じみている。

「──自惚れるなよ、小物が」
「お前の方が小物だろ!」
「ぎゃあ! 相手は七武海……っ」

低く唸りを上げ、双眸を尖らせたクロコダイルにルフィも同じく強い瞳で返す。後ろで慄くウソップとナミの声が重なる。生意気とも取れるその顔にチッ、と舌打ちを鳴らして、持ち前の冷静さで理性をカバーすると、閉じていたこぶしを開いて指を鳴らした。どしん、と大きな揺れが生まれる。

「──さァ、こいつらを見捨てるなら今のうちだ、ミス・ウェンズデー。……反乱を止めてェんだろ?」
「……ッ、ああ、……っ!」

指を鳴らした途端に生じた低い揺れは、巨大な足音によるもの。クロコダイルのいる通路側にある大きな床ドアが開き、その中からのっそりとバナナワニが姿を見せた。まっすぐ先にいるビビを見つめ、舌なめずりをする。ギロリと光る獰猛な瞳に本能から鳥肌がぶわりと浮かんで、身体が震えた。

「なんて……、大きさなの、っ……」
「おし! 勝てビビ!!」
「無茶言うなッ!!」
「大きすぎるわよ、あんなの!」

のそり、のそり近づいてくるワニにビビは腰を抜かしてしまったみたいで、動かないままわなわな震えている。瞳も揺れて、は、と荒い吐息を吐いている彼女にルフィは声援を送るから、ウソップとナミがすかさず彼女を庇うが──。

「でも助けてくれェ、ビビぃぃ!!」
「無茶言ってるのお前じゃねェか!」

数秒後、ウソップは鼻声でビビに助けを求めるから珍しくルフィがツッコミを見せてくれた。

「うう、どうすればいいのっわたしたち! 何とかこの檻を壊すしか方法は……」
「……無駄だ。この檻は大砲を使ったって決して折れねェ代物だ」
「む、う」

久しぶりに声を発したと思ったら。希望を打つスモーカーの言葉にアリエラはぷっくり頬を膨らませると、ナミが短い悲鳴を上げた。大きな明るい茶色の瞳が瞠目していて、そちら、大窓の方に視線を向けると──。

「ええっ、うそ……!」
「あいつら順番待ちしてんじゃねェか!」

今、部屋に上がり込んでいるものと同じ大きさのバナナワニがまだ5匹水の中にいて、部屋に撒いてある餌を待つようにグルル、とお腹を鳴らし、綺麗に一列に順番待ちしているのが目に映った。「完全に餌扱いだな」渇いたゾロの声が、「1時間後にゃァおれ達死んじまうよォ!」と頭を抱えて涙をこぼすウソップにまじり、冷静におちる。

ごくりと息を呑む、ビビは檻もガードもない、生身の体でバナナワニと対峙する。
地を這うような唸り声は空腹を意味していて、冷や汗が浮かび、背筋にゾワリといやな痺れが伝う。自分よりも何倍も何倍も大きな獰猛の生き物相手。勝ち目は、ないに等しい。今すぐここから逃げ出したいけれど、ぐっと耐えて、小指に装着していた孔雀スラッシャーを回し構えた。

「“クジャッキーストリング──……、”!」

回転により鋭利を孕んだ刃をバナナワニに向けて飛ばそうとした瞬間。グオオ、と咆哮が轟き、大きな口を開けるとビビ目掛けて巨大な牙を突き刺した。たったのひと噛み。それだけで、大理石の階段がボロボロに崩壊してしまって、強靭な顎に一同は目を見張った。

「ビビッ!!」

仲間の呼ぶ声が、崩壊により生まれた塵の中に包まれたビビの鼓膜を揺さぶった。
何とか危機一髪で攻撃を避けることに成功したビビの体は瓦礫の上に投げ出されているが、とりあえずは無事のようで、アリエラたちはほっと胸を撫で下ろす。

「あの階段を食いちぎるって、何ちゅう顎だ!」
「ビビちゃんッ!」

よろけながらも、ビビは身体を起こしてもう一度孔雀スラッシャーを構えてみせるが、きらりと光る武器にバナナワニは目を尖らせて、ビビの小さな身体を巨大な尻尾でなぎ飛ばした。

「キャア!!」
「ビビ!」
「ビビちゃん……ッ!!」
「うあああッ! ビビぃ! もうどうにもなんねェぞ!!」

瓦礫の山に吹き飛ばされたビビは、震えながらもゆっくりとからだを起こして、止めていた息を吐いた。全身を打撲し、思うように体は動いてくれない。頭はガンガンと強い痛みをおぼえ、突っ込んだ衝撃で負ってしまった傷に腕は血まみれになっていく。

「い、た……、っ」

とてもすぐに起き上がれる状態ではない。鮮血がぽたぽた垂れる腕の傷を押さえて、全身の痛みを霧散しようと浅い呼吸を繰り返しているうちにもバナナワニの動きは止まらない。
うずくまっているビビを見つめて、ワニは目を撓ませた。グル……、と唸り、舌なめずりをしている。

「はっ、ビビちゃん! 逃げてッ!」
「ビビ! お願い立って!!」
「おいビビ!! 食われちまうぞ!!」
「ビビーーッ!!」
「チッ、クソ……」

仲間の声がどこか遠くから聞こえてくる。痛みと衝撃にぼんやりとしている脳裏は現状を瞬時に掬ってはくれない。どしん、どしん、地を這う音を響かせて近づいてくる巨体にようやく、立たなくちゃ、と、そう思うのに。鉛でもつけられたみたいに重たい手足は動かない。
仲間の声がどこか遠くから──。うう、と呻きを上げて全身に力を入れてみるけれど、やっぱり思う通りに動かせない。その間にも一歩一歩、バナナワニはビビに近づいていて。じゅるり、とよだれの溢れる口を大きく開き、うずくまる彼女を食もうとした、そのとき。


 ──プルルルルル プルルルルル


通路の方から、電伝虫の鳴き声が聞こえてきた。音に敏感なバナナワニは、ビビを食べる寸前で動きを止めて、そのままのそりと顔を持ち上げた。瞳はじいっと、子電伝虫の持ち主であるクロコダイルの方を見つめている。
九死一生。ビビの無事にクルー達は止めていた息をハア、と大きくこぼして、こわばらせていた体の緊張を解いた。ビビも、目の前で見た恐怖に脳も覚醒したようでゆっくりと体を起こし、地に足をつけた。

鳴り続ける子電伝虫。足を止めたクロコダイルは舌打ちを鳴らした。それをみて、ミス・オールサンデーはコートのポケットからそれを取り出し、応答する。

「なに?」
『もしもし? もしもし? 聞こえてますか?』
「ええ、聞こえているわ。ミリオンズね」
『おい、これ通じてんのか? おれ、子電伝虫使ったことねェんだよ』
『はい大丈夫です。そのまま話せます』
「何なの?」

受話器の先から聞こえてくるやりとりにミス・オールサンデーは柳眉を寄せ、クロコダイルは煩わしさに険しい形相を浮かべた。
一方、檻の中のクルー達は。電波を通じているためにすこしこもっているけれど、聞き覚えのある低い声にキョトリと小首を傾げている。

「……おい何だ。さっさと要件を言え」
『あ……その声、聞いたことあるぜ』

痺れを切らしたクロコダイルは苛立ちを見せながら子電伝虫に視線を向けると、まんまるなその目は通話越しの人物の表情を真似し、すうっと意味深に細められた。ん?と眉を吊りあげると、ふっと笑う息が向こう側から聞こえてくる。

『ヘイ毎度。こちら……クソレストラン』
「……クソレストランだと?」

聞き覚えのある煽り文句。双眸を尖らせて、クロコダイルは煙とともに反芻した。



TO BE CONTINUED 原作173.4話-108話



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