172、ユートピア作戦


クロコダイルの嘲笑が冷たい地下室中に響きわたる。
鼓膜を揺さぶる卑しいそれに、ビビはくっと唇を噛み締めた。檻に幽閉されているルフィたちも、瞳を尖らせて黒いコートを見つめている。

「──、お前は一体アラバスタに何をするつもり…?」
「フン…。おれが最も軽蔑する人間のタイプを教えてやろうか」

怒りや憎しみを一旦消し、必死で鷹揚を取り繕ったビビの低い声がクロコダイルの嘲笑を止めた。ぴくり、と奴は片眉を持ち上げて、そして今度はにたりと冷たい笑みを王女に向けた。

「“国民の幸せ”とやらを後生大事にする、偽善者さ」
「父上を殺す気…!? っ、お前になんか出来るもんか!」
「そう喚くなよ。おれはそんなことをするつもりはねェ。殺す、価値もない」

布の擦れる音が、ビビの威勢に続いた。
呆れたような口調で、クロコダイルはコートの内に潜めていた左手をそっと空気に晒す。長袖のシャツから伸びる手首の先は、金色のフックでできている。くいっと湾曲を描いた先に伸びる先端はギラリと光り、ビビの目に焼きついた。

「コブラには死よりも残酷な屈辱を味わってもらうのさ」
「…死よりも残酷な?」

その言葉に反応したのは、檻の中のウソップだ。隣でナミも息をのみ、アリエラのこめかみにはぷっつりと浮かべている。

「クハハハ…。一国の王女がそんな顔するもんじゃあないぜ」
「ッ、もう一度聞くわ。“ユートピア作戦”とは一体何!? ──答えなさい!!」
「おいおい…。今の自分の立場が分かってんのか?」
「質問に、答えなさい!!」
「勇ましい王女なことだ。まあいい…、もう作戦は発動したんだ」

椅子に縛られ自由を奪われたままのビビだけれど、それでも王女としての威厳をしっかりと強く保ち、双眸を鋭利に変えて、諭すように怒号を投げかけた。受けたクロコダイルは挑発しながらも、より彼女を地獄に落とすべく、その薄い唇を愉快げに歪め、開く。



“ユートピア作戦”
それは、クロコダイルが結成したバロックワークス社にとって最も大きな目標のうちの一つである。名は社内でうっすらと飛び交っても、作戦の詳細は不明。一切の不透明のもと、けれど着々とクロコダイルは“それ”に向けて綿密な準備を進めていた。
発動命令を下したのは、つい先程のこと。オフィサーエージェントを集結させ、はじめて彼らに顔を見せたクロコダイルは、作戦の内容をみなに告げた。そこで、Mr.3経由にてリトルガーデンで潰えたと聞いた王女ビビと麦わらの一味がこのアラバスタに到達したことを知ったクロコダイルだが、動揺は見せなかった。それほどまでに、この作戦には“価値”があるからだ。

番号を与えられたオフィサーエージェントの集い。
兼ねてより本日到着の便として運搬を依頼していた巨大武器商船の到達。
そして、国王コブラの誘拐及び幽閉。

本日、その三つが交わり、アラバスタはより危機的な状況へと急転したのだった。

作戦の中身は、“マネマネの実”を食したMr.2が国王コブラへと変化し、ナノハナへとその姿を見せたことからはじまった。国民はみな、国王コブラの人格を良く知る者たちばかり。誰もが国王のことを信頼していた。水不足により倒れゆく者も、最期まで彼のことを「立派な国王」だと称賛し、一縷の疑いすらも抱かずに、いた。それは反乱軍であるコーザも同じだった。
そもそも反乱軍とは、国王コブラとの価値観が合わずに結成されたものだ。
とても、一過性とは言えない旱魃の中、コーザはかつて宮殿を訪ね、国王に「ダンスパウダー」の使用を許可するよう訴えたことがあるのだ。何度も何度も、一瞬でいい。雨を降らせよう。と、そう唱えたのだが、コブラは決して首を縦に振らなかった。
「雨を必要としているのはこの国だけではない」と。
ダンスパウダーを使用することはつまり、隣国の雨を奪うことになるのだから、他国との戦争に発展する可能性もある。それはコーザも重々承知の上だったが、このままだと戦争に発展する間もなくこの国は旱魃により滅亡してしまう。と考え、反乱軍を掲げて「雨を奪うこと」に決めたのだった。

そうしてこれまで、冷戦状況にあった国王軍と反乱軍であったが。

ナノハナに訪れた、Mr.2が扮した偽の国王コブラの発言により一変することとなる。
宮殿に隠し運ばれていた“ダンスパウダー”の事件。宮殿の所在するアルバーナにのみ降る雨の真実。それを国王が国民たちに向け、こう言い放ったのだった。
「この国の雨を奪ったのは私だ」と。
最初は誰もが信じなかった。けれど、真意のあるよく知る顔で何度も唱えられる内に国民は瞳を泳がせ、酷く狼狽した。
「あの忌々しいダンスパウダーの事件を忘れるためにこの『ナノハナ』の町を消し去る。不正な町だ、破壊して焼き払え」
国王から放たれた信じられない勅令のもと、その騒ぎに駆けつけたのが、隣町カトレアにいたコーザだった。馬を走らせ、国王と対峙する。嘘だと言ってくれ。そう願いながら顔を合わせる。けれど、目の前に立つ者は紛れもなくアラバスタ王国の国王だ。コーザは激しく失望した。
「ウソでもせめて無実だとお前が言わなきゃ彼らの気持ちはどうなるんだ」
国王を信じたままこの世を去っていった者たちの気持ちを怒号に乗せ、糾弾するが、国王は顔色ひとつ変えず、コーザに銃口を向けるよう護衛に指示を仰いだ。ためらいもなく、撃ち放たれる重い鉛は低音を響かせながらコーザの右胸を貫いた。一瞬の沈黙を経て、喧騒がナノハナの町を黒く包み込む。悲鳴、咆哮、コーザへの喚呼。砂埃が渇いた土地に舞い上がる。逃げ惑う人々のその顔は国王への不信感に塗られていた。
「国が…、本当はみんなが、その答えを知りたかったから……、おれ達は戦ってたんじゃないのか……? 少なくとも、おれは、そうさ……」
コーザの血に濡れた声が砂の上で、震えた。その瞬間。港の方から男たちの叫喚が押し寄せてきた。その後ろでは轟音が響いている。ナノハナの町の色をふっと黒く変えた。人々は足を走らせながら、頭上を見上げる。巨大な商船が宙を飛んでいるのが目に映り、暗転。
烈火に包まれたナノハナを背中に。国王は宮殿のある地へと引き返していく。
「……この国を、終わらせよう」
静かなる怒り。絶望。失意。血を流しながらコーザは、反乱軍は、国王へ反旗を翻した。


国王の罪を大々的に国民に示し、反乱軍をはじめとする数多の国民に巨大な不信感を与える。
そうすれば、クロコダイルも己の手を汚すことなく勝手に反乱軍と国王軍はぶつかり合い、やがてこの国はいのちの潰えた、ただの砂の地へと戻ってゆく──。
アラバスタ王国という純潔で気高き国を愛する人々の心を踏み躙り、操り、利用する。国を愛すれば愛するほど、この国は滅亡へとカウントを刻んでいく。

そんな凄惨な作戦を“理想郷”と呼び、男は嗤った。


TO BE CONTINUED 原作171話-107話




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