170、大佐と傾国


とぷとぷ、ワインの注がれる音が部屋中に響き渡る。緑色の瓶から波を打ってグラスにこぼれおちていく赤は、血のように濃い。アラバスタの特産物なのだろうか。見たことのないほどの色の濃さをじいっと見つめながら、アリエラは座り直す。

サボテンの一種である竜舌蘭を主原料とした蒸留酒が、どこか温帯の島で盛んとなっていることをふと思い出した。“神の酒”と別名を授けられているそれは、きっとアラバスタのように歴史の深く気高き国で造られているのだろう。たしか、これもエトワールとして様々な人々と交流していた頃に聞いたもの。
着飾って、権力や金にものを言わせる男たちの話ほどつまらないものはないと思う。美しく花のような愛想笑いを浮かべて、楽しげに話を聞くのが仕事だったから刹那たりとも、笑顔を崩したことはなかったけれど、早く終わらないかしら。ってずっと思いながら、中身のないお話を延々と聞いては、相手が求めている言葉を返してきた。けれど、その中にも深く残る逸話や知識はきちんとあって、神の酒がその中の一つだった。

 なつかしいわ。どなたのお話だったかしら。

クロコダイルの手元で揺れる赤ワインを眺めながら、ぼんやりと追憶していると、鼻腔に強い匂いがくすぐった。もうすっかり慣れて安堵すら感じるサンジのものとは、まったく別の濃く絡み付くような独特な匂いにつられ、ふっと視線を向けると、斜め後ろで腰を下ろしているスモーカーとバッチリ視線がぶつかった。こちらを注視しているようだ。

「オイ」
「?」

葉巻を引っ掛けた唇がゆったりと動くと、低い声が空気を揺らした。緊迫のある、人々を畏怖させる力を感じるその声に、アリエラの背筋も自然とすっと伸びる。きっと、葉巻の匂いも作用しているのだろう。もくもくと揺れる白い煙を見つめていると、彼がすっと左目を眇めた。

「……おれは元々てめェには興味はねェ。どう動こうがこっちに迷惑が掛からねェのならどうにでもしろ、と。その程度に思ってたくらいだ、お前の行動に対してはな」
「……お話が見えないわ」
「なら率直に聞こうか、傾国。何故、海賊になった」
「あなたに答える義理はないわ。すこし前まではわたしもお仲間みたいなものだったけど、今は敵だものね」

ふふふ、と笑みを描きながら答える彼女の様子をじいっと見つめながら、スモーカーは葉巻を燻らせる。噂通りの小娘だ。と、そう低くこぼした。そこでさらに疑問が募っていく。信じられない事件を彼女は起こしたことがある。それを想起させ、目の前の少女と照らし合わせてみるが、やはり納得いかない部分が多い。

「上はお前を買っていたようだが、おれにはどうも買い被っているようにしか思えなかった。“お前”自身をな。例え能力者だろうが、どう見ても細腕のただの小娘だ。そんなお前がある国を滅ぼしたあの事件、おれは何か裏があるんじゃねェかと、そう思ってならねェ。その裏に、海賊との繋がりがあるんじゃねェかと思ってな。サウスの裏といやァマフィアもいるしな」
「国を、アリエラが?」

唸りに近いくらいの低い声でこぼされたスモーカーの言葉に、ピンと糸が張られたような緊迫が檻の中に走る。ルフィが不思議そうに声をあげて、ぽかんとした様子で彼女を見ている。その隣でウソップは驚愕し、ナミははっと息をのみ、ゾロはただ無表情でアリエラとスモーカーを交互みた。

「アリエラ、お前すげェなー。そんな強かったのか!?」
「お、おいおい…ウソだろ流石によぉ。そりゃ能力者だが、まだ使い慣れてねェって言ってたじゃねェか」

感心の目を向けるルフィに対し、ウソップは慄きながら震え声を出した。
それには反応を見せずに、アリエラはただただ花のようにちょこんと座ったままスモーカーを見つめている。スモーカーも、彼女の顔を睨みつけるようにみる。
信じられないほどに整ったかんばせの中、一際目立つのは曇りのない宝石のような青い瞳。

“女神をも凌駕する美しさ”と比喩されてきたエトワールだが、目の前のアリエラはただの少女に過ぎない。小柄な体格、細い手足。小さいといえど、国を滅ぼすにはあまりにも非現実的すぎる。まさか、政府が計画している“あの実験”をその身体に受けたわけでもあるまいし。やはり、裏に海賊か革命軍か。それらのにおいがどうしても漂っていて、探るために睨みをきかせると、彼女はふふっと綺麗な声で笑った。

「エトワールとして活躍していたあのとき。わたしのバックに海賊なんていなかったわ。あの国を滅ぼしたのもすべて、わたしがやったことです」
「何を庇ってる」
「だから世界政府はわたしのことを“傾国”って呼ぶのでしょう? そこに答えが書いてあるわ。あなたみたいに硬派な人は分からないでしょうけど、人の心って色香に脆いものなのよ。着飾ったわたしがすこし甘い言葉を吐いてにっこり笑うとね、弱い男たちはみんなわたしを手に入れようとしてまずは財産を渡してくれるの。身請け金として。そして地位、次に名誉。わたしが甘い蜜を吸いきった先に残るのは、裸一貫。それだけ」
「……信じられねェな、」
「うそなんてついてないわ。すべて本当のことです」

スモーカーの睨みにアリエラは変わらず笑顔で返す。
この姿にスモーカーは苛立ちを感じる。こんな小娘なんかに大の男が惑わされる気がわかんねェが、と思いながらも、でも女の目を見る限りそれは事実だ。飲み込むしかないのだろう。

「聞いたことある…。エトワールが、たったの一夜で国を滅亡に追い詰めたって事件。でも、確かその国って目も当てられないほどの悪政を働かせていた国だったはず…」

ナミの声がしんとしたなかに響く。

「ああ、そうさ。だから、上は傾国を買った。今この海賊時代、海軍は深刻な人手不足に見舞われてる。小さな国には目も向けられねェほどにな。だから──」
「だから、わたしはわたしのやり方で悪を滅ぼしただけよ。かつてあの国でどんなことが起こっていたかご存知? …今更、政府を責めるつもりもないけれど。わたしはずっとあなた達に不信感を抱いていたの。海軍って、本当に助けを求めている人を無視するものね」

花のように微笑んでいた彼女の表情が、どんどん険しくなっていき、すっとスモーカーを睨みつけると彼もまた額に青い筋をぴきりと立てた。十手を抜こうとしたのか、すっと腕を持ち上げたその瞬間。忍びよってきた大きな影に、スモーカーは寸前で手を止めた。

アリエラも。前方から違う葉巻の匂いが漂ってきてふっとそちらに顔を向ける。横一直線に入った縫い傷を歪ませて、にんまりと何かを企んでいるような表情を浮かべるのは、クロコダイルだ。

「お二人とも葉巻を好まれるのね。よく似ている、さすがだわ」

うふふ、と花のように笑うとそれが鱗粉のようにふわりと空気に溶けて、一瞬のうちに張り詰めた緊迫をするり解いていく。

「このおれが、海賊と似ているだと…?」
「フン…種類は違うようだがな。おれが愛用してるのは“プレミアムシガー”、別名“女神の味”…。そう。心当たりはねェか、お嬢さん」
「心当たり? いいえ、全く。その葉巻は存じているけれど、わたしのお口には合わなかったの」

水気の多い、きらきらした青い瞳をじいっと見つめて、それからクハハと笑い声を部屋中に響かせた。「そうか。…お目にかかれて光栄だよ、金星」瞳をぎろりと光らせて、ただ一言。そう残し、クロコダイルはもう一度アリエラを一瞥すると席へと戻っていく。

「よ、よくそんな堂々と話せたなアリエラ……」
「不気味な人ね」

こちらに背を向けた大男の揺れるコートを見つめながら、その男の気迫に身体を震わせたウソップがそっとアリエラに耳打ちをした。ナミも同調するように頷いているが、その表情は恐怖よりも不信感が勝っているようにみえる。
明らかな思惑を感じ取ったけれど、恐怖は、感じなかった。その前のスモーカーとの会話で心構えがエトワールになっていたからだろう。

アリエラとエトワール。完全に同一人物だけれど、心構えや在り方、口調や仕草などを丸々変えているため、彼女自身の中ではすっかり同一人物。という心持ちではいなかった。癖でたまにエトワールの時の俤が滲んでしまうときもあるけれど、でも煌びやかなドレスを着て、普段とは違うお化粧をして、綺麗に着飾る。それと同じように、心にも言葉遣いにもメイクをかけて、どこにでもいるような16歳の少女から世を揺るがす美を持つエトワールへと変身する。という意識で過ごしてきた。

ドレスを着たらわたしはいつでもエトワールという女の子になれるし、ドレスを脱げばわたしはいつでも普通の少女に戻ることができる。

人の汚い感情が混濁としたあの場所に染まらないように。その感覚をしっかりと大事に持ってやってきたのだ。だから、こうして素の姿のときにその話を持ちかけられると正直からだがびっくりしてしまう。
ちらり、と彼スモーカーに視線を向けてみる。クロコダイルの言葉に何かを感じ取ったのか、今はそちらに思考を傾けていてアリエラに対しての興味は今は削がれたようだ。ほっとしつつも、アリエラ自身も奴の発言「心当たり」に対して引っ掛かりを感じるが、本当に何もないため、考えることをやめて、ふう…と吐息をこぼす。

「……ほんとうに、不気味な人」
「あ、いつものアリエラが戻ってきた。すごいわね、あんた。雰囲気がさっき違ってたもの。別人っていうか、あれがエトワールの気配なのねって私感心しちゃった。実際はもっとすごいんでしょうけど」

壁にもたれかかるように座っているナミの隣にそっと腰を下ろすと、いつもの調子で明朗にそう言われて、彼女のあたたかな声にアリエラの気持ちもほぐれていくのだった。



TO BE CONTINUED




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