169、海を閉じ込めた石


澄みきった空気が肌をまとう。すう、と大きく息を吸い込むと喉の奥がひんやりと冷たくなった。時々、水の音がちゃぷりと踊るように揺れている。

足元が崩れ、暗転。

ルフィ達はしばらく落下を楽しんだ後、地下室のような場所に落っこちた。急激に景色が変わったため、タイル床に身体を打ちつけてすぐには理解が追いつかなかったが、運悪く…(?)落下した場所は檻の中だったらしく、海賊海兵構わずぎゅっとひとつの鉄の柵の中に閉じ込められてしまったのだ。

「こうみょうなわなだ……!」
「おう。しょうがない」
「避けられた罠よッ! 敵の思うツボじゃない! ばっかじゃないのあんた達!!」

この現状に、ぎゅっと口を結び、まつ毛を立たせた大きな目をぱちぱちと鳴らしながら開き直ったセリフを吐くルフィとウソップにナミは打ったお尻を摩りながら怒りの声を張り上げた。
ん、と反響し部屋中に響き渡るが、海賊ルートを選び進んだ船長の顔色には反省の色がまったく見えずに、もうっ。と乱暴なため息をこぼしてナミは腕組みをする。

天敵であるスモーカーは壁に凭れ、段差にどっかり腰をおろしているだけで、この檻に入ってからは何の言動も見せない。彼に警戒を向けつつ、付近であぐらをかいているゾロはぐるりと部屋中を見渡した。壁にはカーテン付きの大きな窓が一定の間隔を保ちつつ、備え付けられている。地下のように感じられるが、ここは案外外に面しているのか。と思うが、陽光が差し込んでいないのを見るに、その思案はすぐに破かれた。

ゾロの隣でちょこんと立っているアリエラもおなじく部屋を興味深げに見つめていて、檻の先、内部中央に位置する場所に大きな長テーブルが置かれているのに気がついて「わあっ」と歓声を上げた。

「素敵な食卓ね。デザインがかわいい

あんたもかい、って言いたげなナミの呆れた視線を受けつつも、もっと近くでみたいわ。と檻に触れようとしたとき。
かじりつくように檻に触れながらじいっと食卓の上の料理を見つめていたルフィが、「うああ」と気の抜けた声を出したため、驚き「きゃっ」と手を引っ込めた。
みれば、ルフィの柔軟な身体はふにゃっと伸びていて、柵をぎゅうっと掴んだまま膝を床につけ、へろりと舌を出してうめいている。

「どうしたのルフィくんっ」
「なんか……おれえ、さっきから力が、ぬけて」
「なんだよ、腹でも減ってんのかぁ?」

そういえばまだ昼食をとっていないことを思い出し、ウソップがけらりと笑ったそのとき。背後でふわっとけむりのにおいが揺れて、それはたちまち色を濃くした。
縮まる嫌な気配。ルフィ!と切迫つまったゾロの低い声。力ないルフィが、ん?と振りむくと。

「ぎゃああああッ!!」
「きゃっルフィくん!」
「何を……ッ!」

猛獣のように鋭い双眸がルフィを捉え、ギラついている。背中におさめていた十手を抜いたスモーカーが、避けることもできないルフィのお腹にそれを押し当て、より彼の動きを制したのだった。
ウソップの叫び声、アリエラの短い悲鳴、ナミの揺れる息にまじり、ゾロが鯉口を切る音が緊迫した状況に響き渡る。
あまりにも刹那的な出来事に、ゾロも一歩出遅れてしまったのだ。大佐を背負う男の、気迫が檻の中を満たし、糸を張ってゆく。

「や、やるならやるぞ、ケムリ野郎ッ! お、おれは爆弾男を仕留めた男だあ…アチョ……」

空気の糸を緩めたのはウソップの、どんどん小さくなっていく震え声だがスモーカーは彼に見向きもしないで、ひたすらにルフィを十手で押さえたまま睨みつけている。咥え葉巻からもくもくと揺れる煙が無造作に揺れて地を撫でた。

「はあ、う、なんか……力が、入らねェ、海に落ちたときみたいに、」
「ええっ、うそ」
「あんたルフィに何したの!?」

力が入らず全身がむず痒くなるその恐怖を知っているアリエラはぶるりと震え、距離を取るようにスモーカーから少し離れていく。ナミも後退りしながら、けれど強い口調を彼に向けた。
フウ…、と開いた口からけむりが逃げていく。ややあって、低い声が紡がれた。

「この十手の先端には“海楼石”って代物が埋め込まれている。ある海域にだけ存在する不思議な石だそうだ」
「海楼石、」
「海軍本部の監獄の檻は全部こいつでできてる。“能力”を持つ犯罪者が逃げられねェようにな。まだまだ謎の多い鉱物だが、わかっていることはこの石が海と同じエネルギーを発してるってことだ。“海”が固形化したのものだと考えればいい」
「それでルフィが弱っちまってんのか」

ボソリ、厄介そうにこぼしたゾロの後ろに隠れるようにしてアリエラもこくりと息を呑んだ。そんな石に当てられたら──。ルフィを助けたいけれど、抵抗不明な能力者兼海楼石を含む武器を持っている彼に近づくには慄いてしまう。

「じゃあ、もしかしてこの檻もその“海楼石”って鉱石でできてるの?」
「でなきゃ、とっくにおれは出ている。お前ら全員、海に出られねェ体にしてな」

ナミの問いに、スモーカーは唸りのような低い声でそう言った。ただでさえ、畏怖させるオーラを持つ男の淡々とした口調に、また場の空気が一変する。
キン、と音を鳴らしゾロは刀を抜き、対向するウソップが両手を上げて、ぎゃあああッと喉を震わせた。あわわ、とがくがく膝を震わせながらぐっと息を飲み、宥めるように口を開く。

「おい、おいおい待て待て! この状況で戦ってどーすんだよ、ゾロ!」
「それにこいつ、ケムリ男よ? 刀なんて効かないわよ」
「一度捕まったらもう最後よ、ゾロくん! 足掻くことすらできないもの。だから、ここは海賊も海兵も関係なく協力して、」
「協力だと……?」
「きゃうっ、」

獣のように尖っている双眸がこちらをぎろりと睨みつけて、アリエラはびくっと肩を震わせ、ゾロの体の後ろに身を隠した。すこし呆れているゾロの表情は、さっきよりは和らいでいて、やれやれと刀から手を外す。
「傾国、」そう低く紡がれ、またアリエラは華奢な肩を揺らしてゾロにしがみついたまま視線を彼に戻す。

「お前には聞いておかなければならねェことがある。お前は──、」
「──やめたまえ」

ルフィにしっかり十手を突き刺したまま、スモーカーは威厳を緩めることなく。けれど、わずかに落ち着きを戻した声色で彼女に言葉を投げようとしたとき。聞き覚えのない低い声が、檻の外から聞こえてきて全員はっと息を飲み込み、そちら。食卓の方へと意識を向けた。

「共に死にゆく者同士…。仲良くやればいいじゃねェか」

空気を重たくなぜるような笑い声が、部屋の中をじんと満たしていく。
こちらに背を向けている大きな椅子。ゆらりと揺れる紫煙が立ち上り、黒いコートのまわりでふわふわと円を描くように踊る。いつの間に、奴はそこに着席したのだろうか。
警戒の色を濃くしたゾロが身構え、同様十手を握る拳に力をこめたスモーカーがすっと瞳を細め、唸るように名をこぼした。

「……クロコダイル」
「な、に……?」

この国を破滅へと導いている男の名。ウイスキーピークからずっとずっと、対峙を願った因縁のその名にルフィは仰向けの状態で視線だけをそこに向けた。
椅子をくるりと回転させ、こちらに姿を見せたクロコダイルの姿に一瞬空気が止まったかのように感じられた。薄ら笑いを浮かべたその表情は軽薄を貼り付けている。なでつけた黒い髪、黒いコート、傷の入った顔に葉巻。それらの全ては気品すら感じさせる優雅さを持っているが、反面に伶俐狡猾さを語っているようだ。

顔中央に入った横線の縫い傷を歪めて、にったりと絡みつくような笑顔を浮かべるその男の不気味さに、ナミとウソップはひゅっと喉を鳴らし、両手を上げて勢いよく後ずさった。
ああああ、と声にならない声が檻の中を満たし、アリエラの背中もぞわりと恐怖に撫でられる。

「フン、あれが七武海か」
「思った通り、いけ好かねェ面だ」
「オーオー……噂通りの野犬だな、スモーカー君。おれをハナから味方とは思ってねェようだ」

七武海クロコダイル。その肩書きと奴の相貌やそこから図れるオーラを舐めるように見つめているゾロの隣で、スモーカーは温度を感じさせない表情を持つ男にふんと鼻を鳴らした。
一応、政府公認海賊である王下七武海は海兵とも当然敵対しない関係地ではあるものの、スモーカーはそれを良く思っていないようだ。ルフィたちを見る目と同様の色を含めて、クロコダイルを凝視しているから、その視線を受けた彼もスモーカーと同じ葉巻をふっと燻らせた。

「だがそう…そりゃ正解だ。てめェにゃ“事故死”してもらうことにしよう。“麦わら”って小物相手によく戦ったと政府には報告しておくさ、ハハッ……」

ゆったりと、椅子から腰をあげたクロコダイルは相変わらず薄気味悪い笑みを浮かべながら、足音を鳴らし、檻へと近づいてくる。こつ、こつ、床に靴が当たる度に黒い毛皮のコートがふわふわ影のように揺れている。

「何しにこの国へやってきたのかは知らねェがどうせ独断だろ。政府はおれを信じてるからな。ここへ海兵を寄越すはずがねェ」
「……」

その問いかけに、スモーカーは答えなかった。この男の瞳の奥に揺れる冷ややかな野心を感じ取ったからだ。七武海であれど、所詮は海賊。初めて対面したクロコダイルの、想像を越えた悪に塗れた気配をただじっと見つめていると──。
ぐいっと、手元が動いて視線を落とす。気がつけば十手を緩めていたみたいで、抜けていた力が徐々に戻ってきたルフィが拳を床にドン、とつけて荒い息を落としながら、鉄の檻越しの、クロコダイルをぎろりと見上げた。

「お前がクロコダイルか…!」
「ん…?」
「おれと、勝負しろ!!」

海楼石の効果にあてられているためやや脱力気味だが、麦わら帽子のしたに覗く剣呑とした表情を見下ろして、クロコダイルはふんと鼻を鳴らした。

「“麦わらのルフィ”…よくここまで辿り着いたな…。まさか会えるとは思ってもみなかった。ちゃんと消してやるからもう少し待て」


言いながら、ちらりとアリエラを見遣る。
「こりゃあ…写真以上の上物だな」低く、たっぷりと間を開けて呟いたクロコダイルの野心の揺れる双眸にアリエラはすうっと睨みを効かせた。見定めるような視線には慣れているのだが、その裏に何か大きなものを感じ、背中に嫌なものがゾワリと走り本能が危機を告げる。
その視線を近くで受けていたゾロも舌を鳴らし、刀の音を響かせると「オイオイ」と宥めるように奴が柔らかくこぼした。

「まだ“主賓”が到着してねェ。今、おれのパートナーが迎えにいっているところだ」

パーティーは、それからだ──。
笑い声まじり、愉しげに空気を揺らす男の歪んだ表情を檻の中で海賊と海兵はじっと見つめる。目の前にいるのに、ただわかるのはその容姿と、そして。本心やその心は、真っ黒いコートの奥深くに隠されていて、何一つ掴めない男だということだけ。濃い砂塵のように、ばちりと身体に強く存在を叩きつけるのに、こちらからは掴むことができずに、ただじんわりとした焦燥がそれぞれのうちがわに溶けていくようだった。


TO BE CONTINUED 原作169話-107話



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