ONE PIECE 10/13P


「ううっ……」
「おっさん!!」
「おじさま!!」
 
 今、目の前で何が起きたのだろうか。震えながら目下に視線を移すと、地に祖父が倒れていて、空気を裂くように強いウソップとアリエラの声が冷たい空気の中に溶けていた。
 
「じ、じいちゃん……?」
 
 小刻みに声を震わせながら、現状を受け止めるためにぽつりと愛称をもらす。
 うつ伏せになって倒れている祖父の頭に結ばれていたおでん鍋は、衝撃に紐が外れてしまったみたいで、砂の上に無惨にも転がってしまっている。
 
「ん? なんだこりゃ……。黄金か?」
 
 すん、といい出汁の香りがエルドラゴの鼻腔を掠めた。
 ひっくり返った鍋を起こして中身を確かめてみるが、黄金にしか興味を示さない彼は鍋の中身がおでんだと確認を取ると、それを砂地の上にぶちまけたのだった。
 
「や、やめろォ!!」
「ん?」
「それは、じいちゃんがウーナンのために命懸けて作ったおでんだ! お前なんかに指一本触れさせるか!」
「ふん……」
 
 近くに転がっていた大きな石を持ち上げて、泣き叫びながらエルドラゴの元へと走っていくが、彼の涙に可笑しそうに口角を上げたエルドラゴは、無慈悲にも散らばったおでんを大きな足で蹂躙していく。ぐちゃぐちゃに潰されていく、温かくきらめきを含めた大切なおでん。
 『じいちゃんはおでんばっかり! 』そう腹を立てて何度も家出を繰り返し、次第にウーナンに憧れるようになったが、それでも本当は、胸の奥底では分かっていた。祖父がおでんに命を込めていたことを、そこに彼の人生が詰まっていることを。口にしたことはないが、おでんを作る祖父が大好きでまた違った意味で憧れていたのだった。
 その、彼の大切な命の結晶が目の前で潰されていく。穢されていく──。
 
「っ!!」
 
 腹の底からふつふつとあぶく怒りに、身体が小さくなんにもできなかった自分への悔しさ。激しい瞋恚に昂り、ぽろぽろと溢れ出す涙が止まらない。
 
「さいっていね……」
「あの野郎、おっさんのおでんを…!」
 
 もちろん、怒りを感じているのはトビオだけだはなくアリエラたちも同じで。
 アリエラとウソップは怒りを素直に言葉に乗せたが、ゾロもナミも、そしてずっと黙って流れを見つめていたルフィも。それぞれ無言で奴をギロリと睨みつけていた。
 
「これで満足か?」
「う、うう……うわァァァ!!」
 
 ただひたすらに悲しくて、悔しくて。トビオは生まれてはじめて抱いた激しい憤懣をぶつけるために、目を瞑ったまま武器も持たずにエルドラゴの元へと走っていく。
 岩蔵も、孫の名を呼びながら手を伸ばすが、それは虚しく空を切るだけ。
 
「そんなに死にたいか、小僧!!」
「トビオ!」
「だめよ、トビオくんッ!」
 
 このままでは、トビオが爪に裂かれて死んでしまう。
 振り上げられた大きな腕は、空気を孕み強度を増してトビオの頭に降りかかった──。はずだが、惨劇にぎゅっと目を瞑ったゾロと岩蔵以外の一行の耳に届いたのは、トビオではなくエルドラゴの低いうめき声だった。
 ハッとして、ゆっくり塞いだ視界を解いてみると、トビオは無傷のままきちんと地に足をつけて立っていた。彼の目の前には、さっきまでずっと静寂を保っていた船長の姿が。彼の右手は握り拳が作られていて、エルドラゴは地に大きく倒れている。そう、危機一髪でルフィが救ったのだ。
 
「な、なんだ……てめェ…!!」
 
 最後に拳を喰らったのはいつだっただろうか。
 エルドラゴは久しぶりに感じる痛みとともに、混乱する頭を起こして麦わら帽子の男に目を向けるが、彼はエルドラゴに背を向けて、散らばったおでんの前でしゃがみ込んだ。
 砂に塗れたぐちゃぐちゃのおでん。じっと見つめて、そしてそれを両手で掬い、大きく口を開けて躊躇うことなく放り込んだのだ。
 
「ル、ルフィ…!」
「あんた……」
「ルフィくん…」
 
 咀嚼をするたびに、砂が邪魔して音を立てるが、それでもルフィにとって岩蔵の作る世界一のおでんの味に変わりはなかった。彼の行為に、ウソップたちは目を見開かせ、岩蔵とトビオは息を飲み、ゾロはニヤリと口角を上げている。彼と出会った日をふと、思い出したのだ。そうだ、彼も、唯一自分の上に立つことを認めた男もこういう心を持っているのだ。
 
「うめェ〜〜!! やっぱおっさんのおでんは世界一だ!」
 
 どんな状態になっても、決して失うことのない気高い味とじんわりと胸にほぐれていくあたたかさ。それをしっかりと噛み締めたルフィは、笑顔のまま立ち上がり、そして険しく鋭い怒気の相貌を元凶エルドラゴに突きつける。
 
「お前だけは…許さねェ!!」
「何を言ってやがる。やれ! ゴラス!!」
「うう!」
 
 主君、エルドラゴの指示に、ゴラスは太刀を抜きルフィに大きく振りかざすが、次の瞬間に響いたのは激しい金属音。
 
「ゾロ!」
「こいつの相手はどうやらおれだ!」
「……!」
 
 ルフィを庇うように前に出たのはゾロだった。ゴラスは剣士、船長が苦手とし、自分が好戦とする相手。ニヤリと口角を釣り上げているゾロの力は、想像以上でゴラスもぴくりと片眉を動かし、弾き返した。
 
「お、おい! あの三刀流は……」
「ゾロだ!」
「海賊狩りの…ロロノア・ゾロだ…っ!!」
 
 わなわな、震える手で口元を押さえるのは泥棒三人衆。
 ラジオや新聞でたびたび目にしてきた三刀流の剣士≠ェ今、目の前に。人の姿を借りた魔獣。と呼ばれるほどに凶暴な強さを持っているというのだ。
 わっと声をあげる三人衆だが、ゴラスはふん…と鼻を鳴らすだけだ。
 
「どんな奴であろうと、剣にかけてゴラスの右に出る者はいねェ。ゴラス! そいつを切り刻め!!」
 
 それは、エルドラゴも同じで勝ち気に微笑み、ゴラスに金貨を数枚ちらつかせた。
 
「金貨、200枚やる! 殺せば500枚だ!」
 
 主君の褒美に、ゴラスは口角を上げて見せるが僅か一瞬、瞳を震わせた。それをゾロは見逃さなかったのだが、果たしてゴラス本人は気づいているのだろうか。
 太刀を握りしめると、ゴラスはそのままゾロへと突進していく。身長も体格もゾロの倍は優にあるゴラスの全力に、ソロは押されてしまい地に濃い線を引きながら、背中から岩へと衝突した。
 強い衝撃に、ゾロは呻きながら銜えていた刀を地に落としてしまう。
 
「ゾロ!」
「ゾロくん!」
 
 あの、バケモノのように強いゾロがこうもあっさり押されてしまうなんて。ウソップとアリエラは冷たい空気に驚愕を漏らした。
 
「この…クソ力め……」
「いけ、ゴラス! 1000枚だ、1000枚やるぞ!」
「うあァァ!!」
「……くっ、」
 
 跳ね上がった金額に、ゴラスは唸りを漏らしながら腕に最大限の力を込めて、岩に押したままだったゾロを勢いよく地に突き倒した。それがゾロにとっては、好機で。地に落してしまった刀を寝そべったまま片手に握り、ゴラスの激しい一撃を受け止めた。
 まさか、この状況で太刀を受け止められるとは予想もしなかったゴラスは目を剥かせ、そして歯を鳴らしながら拳に力を込める。だが、やはりそれはゾロの目に不自然に映るのだった。
 
「……お前、何恥じてんだ?」
「……!」
「腹の底では、あんな奴のために人殺しなんざしたくねェ。そう思ってんじゃねェのか?」
 
 隠していた本質を見抜かれてしまい、ゴラスはひどく瞳を震わせた。自分でも暗示をかけていたほどに、深く深く閉じ込めていた本当の気持ち。それを、ゾロはたった一眼で見破ったのか。
 何たる男…剣士だ。とゴラスは思う。
 
「その目は金欲しさに刀を振るう自分を恥じてる目だ。自分の剣から誇りを捨てた目だ!!」
「……っ」
 
 息が止まってしまいそうだった。
「何をしてる、ゴラス!」金貨で契りを交わした主君の急かす声が背中に届く。
 他者からのはじめての指摘に、ゴラスは混乱している。見切ったゾロは、少し緩んだ太刀を己の刀で弾き返して身軽に起き上がった。
 
「確かに腕はいい。だが、自分の剣に誇りが持てねェ奴は僅か一瞬キレが鈍い! その一瞬がおれとの絶望的な差なんだよ!」
「…っ、うわァァア!!」
 
 じわりと身に染みた言葉。本物の剣士を前にして、改めてこれまでの自分の行為が情けなくて、恥ずかしくて。ゴラスは己への憤懣を抱きながら、ゾロに最後の一撃を打つが──。
 
「鬼斬り……!!」
 
 一瞬にして、あまりにも遠過ぎる刹那に負けてしまい、ゴラスはゾロに斬り傷一つ与えられぬまま意識を飛ばして地におちた。
 
「……急所は外しておいた。己の剣に誇りを持てるようになったら出直すんだな。相手になるぜ」
「すごいわ、ゾロくん!」
「さすが、ゾロだ!」
 
 きゃあ、と手を組み合って喜ぶアリエラとウソップ。
 
「……あいつが、あんなにも強かったなんて……」
「まだまだ。驚くのは早いわよ」
 
 刀を鞘におさめるゾロに、トビオはため息を吐くかのように呟くと、頭上から明るいナミの声が降ってきた。彼女を倣って、ふと前に視線を上げると、そこには目をぎらりと光らせたルフィがエルドラゴを見据えていた。