体育祭 |
名前たち実行委員会の面々は夏休みに引き続き演劇の準備に練習にと忙しくしていたが、実は新学期最初の行事は体育祭である。今日がその当日で、立海全体が本番ムード一色となっていた。 「二人ともお家の人は応援に来るの?」 「うちは多分みんな来るはずよ」 「私のところも両親と妹が来ます」 教室にていつもの三人で近くに座り、グラウンドへの移動のアナウンスを待っている。栞乃にハチマキを結んでもらいながら「高校最後だもんね」と呟いた名前に、柳生も栞乃も少しだけしんみりした顔をした。 「宇佐見さんのところは今年もお父様とお兄様が来られるのですか?」 「ううん、今年はどうしても外せない出張が入ったんだって」 名前がそれを少しほっとしたような顔で言った理由は、柳生にも栞乃にも分かっていた。何せ目立つのだ。宇佐見グループの総帥と後継者、それからその周りを取り囲むスーツの集団がグラウンドに現れれば周囲の視線を集めないはずがないのだ。そんなわけで、昨日父が泣く泣く飛行機に乗り込んで行ったのを見送った名前は心底安心していた。代わりに次兄とその同居人が応援に来る予定なので、今年は何とか平和に体育祭を終えることができそうである――と、グラウンド移動のアナウンスがかかった。 「本番ムード一色って感じね」 「ええ、夏休みも殆ど毎日応援の練習の声が聞こえていましたから、今日は気合が入っているでしょうね」 演劇実行委員と同じように、体育祭実行委員も夏休みの間から今日に向けて励んでいたのわけだ。二人のそんな会話に頷きながら生徒たちでごった返す廊下を歩いていた名前は、ふと隣に誰かが並んだことに気が付いた。柳だった。 「宇佐見。おはよう」 「おはよう」 昨日は体育祭に向けて演劇の練習が休みだったので、柳の顔を見るのは久しぶりな気がした。一日顔を見ていないだけなのに?このところ毎日のように練習で顔を合わせていたからかな――名前は内心でそんなことを考えた。 「宇佐見は借りもの競争とハードル走、三年女子のダンスで出場するのだろう」 「・・・データマンと呼ばれる人は他のクラスの人のデータまで完璧なんだね」 「全員のデータがあるわけではないぞ。俺もそこまで暇じゃないのでな」 「本当かなあ?色々知ってそうで――・・・」おどけたような柳の表情につられて笑いながらそう言いかけた名前だったが、傍にいた女子たちの視線に気が付くとうすく笑んで口を閉じ、視線を前に固定したままで言い直す。「柳くんの相手が自分に務まると思ってるのかな」胸に突き刺さった言葉が蘇ったのだ。彼女たちの前で目立った動きをしたくなかった。 「柳くんはたくさん出るのかな?怪我しないように、気を付けてね」 「・・・ああ、ありがとう」 頑張ろうね、なんて当たり障りのない言葉を残して足を速め、柳の反応を見る余裕もなく少し前を歩く柳生と栞乃に追いついた。視線を恐れて会話を終わらせたのは自分の方なのに、少々不自然だっただろうか、避けたように思われただろうかとと内心で少し不安になった。未だに例の女子たちの名前に対するあの視線は健在で、先日の仁王の言葉のおかげで大分前向きな気持ちになってはいたものの、陰口を言われることへの恐怖までもが完全に拭われたわけではなかったのだ。 体育祭は順調に進んでいる。名前は応援に来ていた次兄秋彦と美咲と共に昼食を取っていた。名前は運動が得意ではなかったもののそれほど運動神経を必要としない競技が多かったので、兄秋彦と共に応援に来てくれた美咲にビデオを構えられても何とか醜態を晒さずに済んでいた。 「さっきの名前ちゃんのダンス、すっごく可愛かったよ!俺バッチリビデオ撮ったし、帰ったら早速DVDに焼かないと」 「そ、そこまでしなくていいよ美咲ちゃん」 「ううん、せっかくの高校最後の晴れ舞台なんだから。午後のハードル走と借り物競走も任せといて!」 名前は照れくさそうに瞬きをしながら美咲お手製の弁当をもごもご頬張った。秋彦はおかわりの麦茶を注ぐ美咲の隣でお気に入りの卵焼きを食べながらも、先程から黙って名前を見ている。彼にはひとつ気になることがあったのだ。 「名前」 「ん?」 「何かあったのか」 「――え」 名前はどきっとして秋彦を見上げたが、何もかもを見透かす眸でじっと見つめられているのに気付くと咄嗟に視線を逸らした。図星だった。名前は今日ずっと、例の彼女達の視線を気にして過ごしていた。せっかくの体育祭なのに、心から楽しむことができずにいた。しかし成るべく明るい表情を作ろうと努めていたのにこうも簡単に見抜くとは、流石は兄といったところだが――それでも、心にひっかかるそれを話す気にはなれなかった。 「なん、で?何もないよ」 「嘘をつくな。そんな顔してる」 「そう?少し疲れただけかも――でも平気だよ」 ありがとう、と何てことないといった声色でそう言うと、名前は兄のこれ以上の追及を避けるようにぱっと笑顔を作ってから揚げを頬張った。「美咲ちゃん、この味付けすごく好き」「本当?良かった、ちょっと自信あったんだ」お前の作り笑いに気付かない筈がないだろう――秋彦は内心で溜息をつきながら、煙草を銜えて視線を外した。 事件はハードル走の時に起こった。スターターピストルの音が響いて一斉に駆け出して、一つ目のハードルを跳び越えて、走って、二つ目を跳んで、また走って――それを繰り返して、最後のハードルを跳ぼうとした時だった。どんと後方から衝撃を感じたかと思うとハードルが地面に倒れる音がやけに近くで聞こえて、次の瞬間には膝に鋭い痛みがはしった。何が起きたか分からなかった。 「いっ・・・たぁ、」 少し冷静に自分の様子を見ると、自分は地面に両手と両膝をついていて、ハードルごと地面に倒れ込んだらしい状況である。擦りむいた両膝が痛くて、おまけに倒れ込んだ時咄嗟に地面についた手首にもじんじんと鈍い痛みを感じる。転んだのか、と名前は理解した。しかし足は全くもつれていなかった。それに、倒れ込む直前に後ろから何かに押されたような――・・・とにかく視線の集まるここを離れてゴールまで行くしかない、そう思った名前は痛みに顔をしかめつつざりっと土を踏みしめて立ちあがり、派手な転び方を心配してか迎えに来た保健委員の生徒と共にゴールへ向かった。そして、今しがた突然転んだ理由を知ることになる。 「あなたが悪いの」 救護テントに向かおうとしていたところにかけられた声に、名前ははたと足を止めた。すれ違いざまの小さな声は名前にしか聞こえなかったようで、保健委員は数歩先で不思議そうにしている。名前は声の主を見るのと同時に、ああ"転ばされた"んだ、と理解した――例の彼女達の中の一人が、名前が走ったのと同じ組の列に並んでこちらを見ていた。 >>> back |