二人きりの保健室にて



「――っ、」

泣いたらだめだ、と名前は咄嗟に思った。ここで泣けば騒ぎになるし、応援に来た兄も黙っていないだろうし、何より彼女の言葉を肯定することになってしまう。しかし頭ではそう分かっていても、このいじめにも近い行為に、日頃ちょっとした悪意にも触れることのない環境にいる名前の心は翳ってしまったのだった。最初は自分の短所を克服したくて学生劇の主役を引き受けて、今は皆と一緒に成功させたくて一生懸命頑張っていて、仁王が辞めるなと励ましてくれたおかげで何とか頑張ろうと思っていたのに――ああやっぱり私では駄目なんだ、と心が弱くなってしまった。はっきりとした敵意を向ける彼女が怖くて咄嗟に俯いて、震える唇をかたく閉ざして、立ち向かうことも逃げ出すこともできずに痛む足で立ち尽くしていることしかできない。見れば傷口は思ったよりも出血していて、それを見た瞬間、名前の中で何かが溢れた。劇を見た彼女達に何も言われないようにとこれまで頑張って練習してきたし、陰口にだって耐えてきたけれど、もう駄目だ、唇を噛みしめても込み上げる涙を堪えられそうにない。とうとう目の前の景色がじわりと滲んでしまう――その時だった。視界の隅でふと、ざり、と土を踏む足が見えた。

「何をしている」

名前を睨んでいた彼女が思い切り動揺したのが分かった。名前も動揺していた。二人の間に割って入ったのは柳だった。

「、柳くん、あの」
「宇佐見、その怪我は――・・・行くぞ」

場の空気や彼女の焦ったような声色、俯く名前を見て察したのか、柳は名前の腕を取って歩き出した。足の怪我に響かないように気遣いながらのゆっくりとした足取りだったが腕を掴む大きな手は振り解けないほどしっかり握られていて、名前は涙の滲んだ顔を見られたくなくて顔を少し俯けたまま、ぽかんとしている保健委員に何を言えばいいかも分からず柳に着いていくことしかできなかった。





柳に連れて来られたのは救護テントではなく、保健室のほうだった。グラウンド側の入り口近くにある蛇口の前まで来ると柳はようやく名前の腕を離し、一度保健室に入ってタオルを取ってくると「靴と靴下を脱いでもらえるか」と言いながら地面に膝をついた。そのさまを見るといつか彼が王子様の衣装を着て跪き名前に手を差し伸べてくれたことを思い出して、名前は無意識のうちにじっと見つめてしまっていた。ゆっくり瞬きをすると、やがて不思議そうに顔を上げた柳と視線が重なる。

「・・・宇佐見、どうかしたか」
「、え?あ――ごめん」

はっと我に返り慌てて靴と靴下を脱ぐ。――いま私、何してた?先程の自分の行動に気付き頬が熱くなる。柳のほうは名前の今の様子を"傷口を洗い流すことを渋っている"と取ったらしく、「このまま放っておけばもっと痛い思いをするぞ」と苦笑気味に言われてしまった。名前は子どもに対して言うようなその言葉が恥ずかしくて否定しかけたが、本当のことを言うわけにもいかない。結局何とも言えない顔で黙っているしかなかった。

「少し染みると思うがしばらくの我慢だ」

名前が観念したと思ったのかやはり子どもを相手にしているようなことを言いながら、柳は蛇口をひねって傷口を洗い流す。名前は今更ながらここでようやく柳に足を洗ってもらっているという事実に気付き、いよいよ恥ずかしくて顔を真っ赤にしながら「や、柳くん、自分で洗えるから!」と慌てた。誰かに足を洗ってもらうことなど、景吾にすらされたことがない。

「先程の様子だと適当で終わらせてしまいそうだからな」
「そんなこと――」
「そう暴れるな。大人しくしてくれ」

「っ、」何となく楽しそうな柳に笑いかけられ、それが何だか甘いように感じてしまって、咄嗟に何も言えなくなる。「・・・暴れてないもん」真っ赤な顔をどうにもできないままのせめてもの抵抗は消え入りそうなぽつりとした声で、柳はまた楽しそうに喉の奥を鳴らして笑った。





保健医も他の生徒たちも出払った保健室はしんと静かで、外より少し暗くて――二人きりだ。「ここに座ってくれ」促されてすとんと椅子に座ると、柳は一度棚に向かって手当ての道具を手に戻ってきた。まさか処置までしてくれるつもりなのだろうか。

「あの・・・洗ってくれてありがとう。そこまでしてくれなくても、自分でできるよ」

足を洗わせてしまった時点で既に色々と限界だし、流石に申し訳ない。そう思った名前の言葉に柳はふと動きを止め、それから静かに言った。

「俺に、手当てさせてもらえないだろうか」

今度は楽しそうにでも苦笑気味でもない、どこか真剣な声色だった。名前の怪我は柳に転ばされたわけでもなく、彼に関係のないところでつくった傷である。なのにどうして"手当てさせて"なんて言うのだろう?――名前が首を傾げると、柳は僅かに視線を落とした。

「その怪我は俺の所為だ」
「え・・・?」
「最近宇佐見が嫌がらせを受けていることは分かっていたが、俺が出て行って逆効果になることを懸念していたんだ。結果的に怪我をさせてしまった――守れなかった。すまない」

名前には、柳が自分の所為だと謝る理由が分からなかった。眉を歪ませて苦しそうな顔で足の傷を見る理由が分からなかった。彼女達の嫌がらせは名前が学生劇の主役になったことに起因するものであって、そこに柳は関係ないはずだ。彼が謝る必要などどこにもない。余計に傷付くのを避けようとしてくれていたことを嬉しいと思いこそすれ、嫌がらせに気付いていたのに助けてくれなかったといって怒ることなどありえない。なのに何故、そんな顔をしているのだろう――同じ学生劇に関わっているから気にしているのだろうか?彼は真面目で、思いやり深い人だから。考えても分からなかったので、名前はそんなふうに結論付けた。

「柳くんは何も関係ないよ。自信持ってあの子たちにも見せられるように・・・劇を観て何も言えなくなるくらい、私がもっと頑張らないと」

つい先程は心が折れて"もう駄目だ"なんて泣きそうになっていたのに、今の名前はすらすらとそんな言葉を紡いでいた。不思議なことだが、"柳が気にかけてくれていた"という事実だけで、そう言えたのだ。「・・・宇佐見、」名前の言葉に柳は少し間を空けると僅かに眉をひそめつつ何かを言いかけたが、一度言葉を切ると向かいの椅子に腰かけ、名前の怪我の手当てをし始める。「あの――」「宇佐見」止めようとする名前の手は言葉で制された。

「俺は、相手が宇佐見で良かったと思っている。人一倍努力していることも、本気で成功させたいと思っていることも知っている」
「柳くん、」
「宇佐見が主役にふさわしくないなどと、誰にも言う資格はない。俺にも、あの女子生徒達にも」

奥の深いひとみで見つめる真剣な眼差しに心臓が一際大きく音を立てたが、名前を認めてくれた柳の言葉が心底嬉しくて、名前はふっとほどけるように笑んだ。作り笑いでも愛想笑いでもない心からの笑顔だった。

「ありがとう」

礼を言う必要はない、と柳が穏やかに微笑んだところで、一度会話が途切れた。体育祭の喧騒が少し遠くに聞こえて保健室の静けさが際立ち、二人きりであるということを改めて自覚してしまう。ふと柳が少し屈んだ時にいつか知った優しい彼の匂いが掠めて、名前は胸がきつくなるのを誤魔化すようにして窓の外を意味もなく見やった。

「・・・もうすぐ、本番だね」
「ああ。それまで共に頑張ろう」
「うん」

早くこの状況を抜け出したいような、もう少しだけここにいたいような、そんな気持ちだった。

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