電話越しの声、隣からの声



宇佐見邸へ遊びに来たことも名前の父冬彦と会ったこともある栞乃の家には、そう頻繁にではないが、宿泊することを許されていた。今回の名目は”栞乃に演劇の練習に付き合ってもらうから”というものだったが、泊まりはしないものの柳生も参加するということは意図的に伏せてある――それから。

「ねえ名前、柳くんも呼びなよ」
「え?!」

夕ご飯を終えて客間でジュースやお菓子を広げて読み合わせをしたり世間話をしたりしていると、栞乃はふいにそう切り出した。声を裏返らせた名前に、栞乃はにやりと笑う。

「私は相手役がいた方が捗るかなと思っただけなんだけど、どうしてそんな大袈裟に反応するのかな?」
「べ、べつに大袈裟になんて――」
「でも確かに、本当の相手役がいた方が練習にはなりますね」

「ほらほら、呼んじゃおうよ、これで」いつもなら名前をからかうのに加勢しない柳生が肯定したので、栞乃はますます楽しそうな顔をして名前の携帯を手に取り、目の前でガラス玉をゆらゆら揺らした。「え・・・」「だって三日間も会えてないんだよ、寂しいんじゃない?」電気や給水設備の点検のために校舎が使えず、暫く練習が休みになっていたのだ。「なんでそうなるの」そうは言いながらも、この三日間、何となく柳のことを思い出してしまうのは確かだった。

「でも・・・何て、言えば」

ぽつりと言った名前の言葉に、柳生と栞乃は顔を見合わせる。「練習するから来てほしいって、誘えばいいんだよ」「来てくれる、かな」「きっと来てくれますよ」それから何度かそういうやり取りがあって、痺れを切らした栞乃は名前の携帯を弄る。

「ほら、柳くんに電話かけちゃったから、もう誘うしかないよ」
「な――なんて言えばいいの!」
「だからさっき言ったでしょ?」

はいと携帯を渡されて、「でも」とか「そんな」とか繰り返しているうちにコールの音が途切れ、『はい』と柳の声が聞こえた。名前はその声にはたと動きを止めて、一度柳生たちを見、携帯をそっと耳に当てる。

「・・・柳くん、ですか」
「そうだ。宇佐見か?」

「宇佐見です・・・」柳の番号にかけたのだから彼が出るに決まっている。柳が少し笑みを含んだ声で同じことを聞き返してきたので、名前は恥ずかしくなった。「どうかしたのか」「ええと――」視界の隅で、志乃が頑張れと拳を握っているのが見えた。

「三浦さんの家で柳生くんも一緒に演劇の練習、してるんだけど・・・来ませんか、」

言えた。心臓がばくばくと跳ねまわって、これまでにないほど手汗をかいた。瞬きを増やして返事を待つ、ノイズの聞こえる沈黙がもどかしい。

「三浦の家の場所を、教えてもらえるか」

「――・・・うん、」名前はほっとして、自然と口許が緩んでしまうのだった。それから栞乃が電話を代わって近くまで迎えに出ることを伝えている間、名前はふわふわとした妙な心地でいた。





「わざわざ来てもらってすみません、柳君」

あたりの薄暗いそろそろ夜になろうかという時間に、小学校の前で待ち合わせをした。柳の私服姿を見るのはこれで二度目だ。「こんばんは、」「こんばんは」久しぶりに顔を合わせるからか、妙に緊張してしまう。さあ栞乃の家に帰ろうと踵を返した名前を、栞乃が呼びとめた。

「そうだ名前、ジュース足りないから、コンビニ寄ってきてもらえる?」

え、と名前は思った。今日のためにお菓子やジュースをたくさん買い込んだと、さっき言っていなかったか――「一人じゃ心配だし、柳くんもいい?」「構わないが」栞乃が柳と名前を二人きりにしようとしたのだと理解したのは、志乃と柳生がさっさと家の方へ消えてしまった頃だった。

「あの・・・来てもらったのにおつかいまでさせてごめんね」
「気にするな。買うのは飲み物だけでいいのか?」

「うん」少し後ろめたい気もしたが、本当のことを話すのも恥ずかしかったので頷くだけに留めておいた。この静かな夜道では、名前のサンダルが地面を擦る小さな音や、夏の終わりの虫の鳴き声がよく聞こえる。「そこの角を曲がったところにあるの」「そうか」この時間に連れ立って歩くのは初めてだった。

「ありがとうございました」

コンビニを出ると、再び暗い道を歩く。何を言うでもなく自然と重い方の袋を持った柳に、名前はおずおずと「あの、ありがとう」と礼を言った。照れくさかった。「これくらい平気だ。鍛えているからな」整った顔がうすく笑うのを頼りない街灯が照らして、少し、どきっとした。

「ひとつ、聞いていいか」

曲がり角にさしかかった頃になって、柳はふいに口を開いた。「突然聞くようなことではないかもしれないが」普段は話下手な名前とは反対につっかえることもなくすらすらと物を言う彼が、こうして何かを言い淀むのは珍しいことだった。「うん?」と見上げると、やはり何となく言いにくそうな顔をしている。

「・・・宇佐見は、恋をしたことがあるのか」

「――え、」思ってもみない質問だった。「すまない。答えにくいなら聞かなかったことにしてくれ」名前は驚いたのと意外に思ったのとでぱちぱちと瞬きをしながら柳を見ていたが、柳の方は名前を見ずに真っすぐ前を向いたままだった。なぜ彼が突然そう聞いたのかは分からなかったし少しどきっとしてしまったが、言いにくいことでも聞いたということは、何かわけがあるのだろう。演劇の内容が恋の話だし、その関係で聞いたのかも知れない。名前は、柳に合わせて前を向いて口を開いた。

「ないよ、」
「そうか」

柳生には焦らなくていいと言われたが名前にはやはり”この歳にもなって初恋がまだであるのは珍しい”という自覚があるにはあったので、正直言うと少し言いにくかった。それでも答えたのは、柳なら本当のことを話しても引いたり笑ったりしないだろうと思ったからだった。

「私がジュリエットの役なんて頼りないと思った?劇では頑張るよ」

柳は「そういう意味で言ったのでは――」と言いかけたが言葉を切って、「・・・役の心情を考察するのは大事なことだな」と言い直す。「心情?」「ああ」少し先に、栞乃の家が見えてきた。

「王子に恋する姫の心情とは、どのようなものか」

名前は練習以外の時間にも何度も台本を読んで覚えた台詞を追うことに必死で、表現の仕方を柳生たちと共に考えたりすることはあっても、主人公の心情まで深く考えたことはなかった。柳の言葉にはっとして、そうか、と思った名前だったが、名前には恋をした経験がない。恋人のいる栞乃に聞けば、分かるだろうか――それでも中々難しいことだろう。

「私に分かるかな・・・」

苦笑気味にそう言ったところで、栞乃の家の前に着いた。「ここだよ」柳を振り返ると、名前の数歩後ろで立ち止まっている。「柳くん?」少し俯いているせいで、街灯に照らされても彼の顔は見えない。「確かに、実際に経験してみなければ表現するのは難しいだろうな――それなら」つと顔を上げた柳は、目を伏せることなく、まっすぐに名前を見ていた。

「宇佐見自身が、ロミオに恋をしてみるというのはどうだ」

その場から一歩も動けない名前を置いて、柳は栞乃の家の門をくぐる。それから玄関の前で一度振り返り、「なんてな」と言った顔はうすく笑っていて、どこか悪戯っぽさが含まれていた。からかわれたのか、とか、今の顔、とか――とにかくそんなことを色々思ったが、柳の後を追って家に入った時に思ったのは、柳くんは恋をしたことがあるのかな、ということだった。


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