ふいに浮かぶ君の顔



練習は既に立ち稽古に入っていた。解散の声がかかりどっと疲れの出た名前は一度休憩したいほどくたくただったが、そのまま帰り支度をする。久しぶりに午前で練習の終わった今日は午後から跡部と会う約束をしていたのだが、跡部に伝えていた時間より練習の終わった時間が押していたのだ。

「のんちゃん、私帰るね」
「名前、また明日」

まだ作業を続けている栞乃のいる被服室に一度顔を出してから廊下に出ると、携帯が鳴った。着信元は跡部だった。練習が終わるまで名前の家で待っていたはずだが、きっと告げられていた時間になっても連絡が来ないので痺れを切らしてかけてきたのだろう。足早に廊下を通り抜けて階段にさしかかっても帰ろうとする生徒たちがいたので、名前は声を潜めて電話に出ることにした。

「はい、」
『名前、学校にいんのか?』
「ごめん、今終わったよ」

練習が長引いたのだと言えば『そうかよ』とぶっきらぼうながらも安心したような声が返ってくる。きっと心配させてしまったのだろうと申し訳なく思った名前は、「ごめん」ともう一度謝った。

「すぐ帰るから」
『今そっちに向かってるから、門の前にいろ』

「え?」言葉の意味を理解してぴたりと立ち止まる。それから顔を合わせているわけでもないのに慌てて首を振った。跡部のことは栞乃にしか話していないので、他の誰かに見られて噂でも立ったら少々厄介だ。

「ちょ、ちょっと待って」
『あん?俺が迎えに行ってやるんだ、文句でもあるのかよ』

と、昇降口で柳を見かけた。通話中だと見て取った柳が小さく会釈したのに合わせて、名前も会釈しつつ靴を履く。

「ないけど、」
『なら早く出てこい。もう着く』

こうなったらすぐに車に乗り込むしかない。音もなくため息をついた名前は、鞄を肩にかけてたっと駆けだした。

「すぐ行く――景吾、」

後ろの方で物音が聞こえたが、焦る名前には気にする余裕もなかった。





「それで、練習は順調かよ」
「うーん、まあまあかな。自分でも練習してるけど、やっぱり難しくて」

二人は、跡部が気に入っているイタリアンの店で少し遅めのランチを取っていた。時間に余裕があれば名前の家でゆっくり食べたのだが、今日は予定があるので名前が着替えるために一旦帰っただけですぐに出てきたのだ。前々から言われていたのになかなか婚約記念パーティのためのドレスを選ぼうとしない名前を見かねた跡部が、少々強引に店に予約を入れていたのだった。

「当日は見に行ってやるよ」

跡部が海原祭に来る――先程のように再び焦りを感じたが、名前は「うん」と頷いた。跡部は目立つことや噂が立つことを気にするような人ではないので、名前がそれを言ったところで一蹴されてしまうことだろう。「頑張るから、駄目出ししないでね」「出来によるがな」食後に頼んだズコットをフォークでつつきつつ、何事も起こらないことを祈った。

「名前がジュリエットなら、相手役のロミオがいるってことか」
「え?」

顔を上げると、跡部の眉間には僅かに皺が寄っていた。「どこの何奴だ」「何奴って、言っても知らないでしょ?」「・・・立海には知り合いがいんだよ」「立海の三年生が何人いると思ってるの」何となく柳の名前を言いたくなくて、名前は笑って誤魔化しながら最後の一口を食べようとする。

「ロミオか・・・気に入らねえな。お前の相手は俺だろうが」

覆うように手を握って、跡部は名前のフォークをぱくりと咥えた。





「こちらなど如何でしょう」

着せ替え人形さながらのドレス選びだった。普通男性は、女性のドレス選びにはうんざりするものではなかったか。跡部が「違うな」「次はあれだ」と次々指定するので、名前の方が少々ぐったりしながら着せ替えられていた。先程までみっちり練習していた疲れのせいかもしれないが。それから跡部がようやく満足げに眉を上げたのは、もう何度目だろうという頃になってからだった。

「気に入った。名前はどうだ?」
「これでいい・・・」
「おい、これで一度写真を撮ってくれ」
「畏まりました。すぐに準備致します」

「写真?」「冬彦さんに見せることになってる」ふーん、と言いながら、名前はドレス姿のままでソファに座る跡部の隣にぽすんと腰を下ろした。子どもの頃に着せられていたような明るい色とは違って少し落ちついた色の、肩の出るデザインのドレスだった。先程は早く終わらせたいという気持ちもあってすぐに頷いたものの、よく見れば素敵なドレスである。ドレスに着られているような気もするが、跡部の目はやはり流石だった。「名前」ふと横を向けば、跡部がじっとこちらを見ている。「なに」「綺麗だ」「、・・・ありがと」慣れない空気が満ちるのを感じて、名前は何も言えなくなる。

「お待たせ致しました」

店員が戻って来たのを見て少し安心しつつぱっと立ち上がろうとすると、跡部はなぜかそれを制した。不思議に思っているとすっと立ち上がって名前の前に立ち、それからゆっくりと跪く。「景吾?」するりと掬い取られた手に、名前はぱちぱちと瞬きをした。

「さあ、”ジュリエット”」

――何となく、稽古中に何度となく”ジュリエット”と自分を呼ぶ柳の声を思い出した。手を引かれて立ち上がり、エスコートされて窓際に立つ。カメラを向けられると、手を握っていた跡部の手は腰にまわった。「景吾、」「前向いてろ」シャッターの音が何度も響く。跡部とはイギリスにいた幼少期から許婚の仲――つまり恋人よりも近い関係にあったが、手を握られたり手の甲に口づけられたりすることはあっても、こうして密着されるのは初めてのことだった。名前は、跡部のそうした行為や慣れたようにエスコートする仕草に戸惑ってしまう。幼馴染の男の子はいつの間にか、大人の男性に近付いていたのだ。撮影を終えると、跡部は再び名前の手をとる。慣れたはずの手の甲への口づけさえ、この時は落ち着かない感覚がしたのだった。

「素敵な旦那様ですね」

カメラを片付けながら、店員はうっとりとして言う。旦那様――正式にはまだ婚約者だが、いずれ結婚するということを知っているのでその言葉を使ったのだろう。旦那様。そうだ、この人は近い将来、自分の夫になるのだ。名前は何となく、曖昧に笑って視線を落としてしまった。何年もの間そのことに対してこれといった感情は湧かなかったのに、今はなぜか、少し気の進まない思いがしていた。


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