PM 11:00



金曜日の夜、手塚の所有するマンションのリビングの、さらに言うとソファの上にて。手塚より先に入浴を終えた名前はパイル地のパーカーとホットパンツという部屋着の格好で肩にタオルをかけ、適当に髪を拭きながら仕事の書類に目を通していた。今日は二人の交際が始まって一年が経った日ということでディナーに行き、明日は名前も手塚もオフなので、そのまま手塚の部屋へ帰ってきたのだった。と、扉が開き、手塚が入ってくる。

「名前、きちんと髪を乾かせ。風邪を引く」

何事も手を抜かない手塚の方はきちんと髪を乾かしてからリビングに戻ってきたらしい。更に部屋着もラフすぎる名前とは対照的に彼らしいぱりっとしたもので、こういう時名前は自分のだらしなさを自覚するのだが、一年も経てば気にならなくなっていた。なぜなら、手塚が名前を甘やかすからである。「はーい」手塚は一旦書類をソファの端に置き髪を拭こうとした名前を抱き上げて自分の太ももに跨らせるように座らせると、名前のタオルを取って髪を拭き始める。こんなふうに手塚は日頃から、名前が面倒がって適当にしているのを見ては甲斐甲斐しく甘やかしているのだった。名前も慣れっこといった様子でされるがままになっている。

「急ぎの書類なのか」
「ううん、確認するだけ。後輩が作った資料なの」
「ようやく新人が入ってきたと言っていたな」

「うん」名前は体がぐらつかないように手塚の肩に手をかける。「上司も変わったのだろう。新しいチームはどうだ」この一年で、環境は様変わりしていた。手塚は本格的に日本へ拠点を移していたし、名前のいるプロジェクトチームは人事異動で上司の箕島が昇進、新しい上司と後輩が入ってきていた。「そうそう私ね、後輩の指導係になったんだよ」タオルの隙間から得意げな目をしているのが見えて、「そうか」と手塚の表情も緩む。「その子がすごく頑張っててね、熱心に色々聞いてくれるのが嬉しくて張り切ってるの」そろそろ乾いてくると、名前はタオルをがばりと取って「えらい?」と悪戯っぽい表情をして手塚の目を眼鏡越しに覗き込んだ。

「ああ、よく頑張っている」

「ふふ」と嬉しそうにはにかんだ名前に優しく目を細めていた手塚だったが、ふと眉を上げ「随分と熱心な指導係だ。恋人との時間を惜しんで書類に目を通すくらいだからな」と付け加えた。「...拗ねてるの?」「拗ねてなどいない」そう言いながら名前の細い腰に腕をまわして体を引き寄せるとパーカーのジッパーを歯で咥えてゆっくりと下ろす。密着する二人の体からは、同じ石鹸の香りがしていた。しかしわざと手を使わずにいたり見せつけるようにゆっくり下ろしたりして羞恥心を煽ってくるところを見ると、やはり少し拗ねているらしいと名前は思った。膝の上に抱かれていることによってちょうど手塚の目線の位置で胸のふくらみや下着を晒す状態になると、いくら何度となく見られているとはいえやはり恥ずかしさを感じてしまう。ほんのり顔を赤らめて視線を逸らす名前に、手塚は満足したようだった。「...水色か」「ばか」二人きりの部屋は、恋人同士の甘い空気が満ちていた。

「国光の方は最近どうなの?密着取材始まった?」

世界で活躍するアスリートの特集で密着取材を受けることになったという話は少し前にちらりと聞いていたのだが、このところお互い忙しくてゆっくり話をする暇もなかった。練習やトレーニングなどに記者が同行するらしい。「すごいよね。なんかそういうの聞くと、有名人なんだなあって実感して変な感じ」少し肩を竦めて言った名前にそうかと首を傾げながら、手塚の手は名前の太ももの裏やホットパンツとの境目を行ったり来たりしている。

「そういえば、その記者さんって女の人?」

ふと思ったことだった。「ああ、そう聞いている」「へー...そうなんだ」ぱちぱちと瞬きをする。名前はふーんと思った。つまり、一日中一緒にいることになるのか。...正直羨ましい。私は週に一度会えたら良い方なのに。「...名前」もしも私がその記者だったらなどと不毛な考えに耽っていた名前は、ふと呼びかけられて視線を戻した。

「念のため言っておくが、何も不安に思う必要はない」
「分かってるよ」

「本当か」「うん」じっと見つめられて、名前はまたぱちぱちと瞬きをした。「...お仕事だもんね」「名前」手塚の骨ばった手が頬に当てられる。「感情を抑え込もうとするな。我慢せずに素直な気持ちを話せといつも言っているだろう」見つめられたまま指で目じりを撫ぜられ、ぐずぐずに甘やかされる感覚がくすぐったくて嬉しくて、名前は手塚の首許に顔を埋めてくぐもった声で「...その人、好きにならないでね」ともごもご言った。手塚が吐息だけでふっと笑ったのが聞こえて、後頭部の髪に指を差し込まれた。

「その心配は不要だと断言しておくが...名前にそんな心配をされるのは悪くないな」

「え」「それだけ俺の事が好きだということだろう」何か言い返そうとしてがばりと身を起こすと手塚は甘く目を細めていて、開きかけた口を思わず閉じてしまった。「どうした、顔が赤いな。そんなに俺が好きか」「ば、ばか!私仕事する!」とうとう目元まで真っ赤になった名前が拗ねた表情で顔を背けて傍らの書類を掴むと、手塚はくっくっと喉を鳴らしながら「悪かった。少しからかい過ぎたな」とあやすようにして名前の頬に口付けた。「っ、」「名前、こっちを向いてくれ」言いながら少し強引に正面を向かされ、今度は唇に口付けられる。最初は「んんっ」とくぐもった声を出していた名前が少しずつほだされるようにして口付けを受け入れ始めると、深いキスへと変わってゆく。「ん...ふ、ぁ」腰と後頭部に手をまわされた拍子に握っていた書類がかさりと音を立てたのが耳に入り、とろんとし始めていた名前はうっすら目を開く。

「んっ...でも、今日少しは目を通しておかないと」
「明日でいいだろう」

確かに明日は土曜日で仕事は休みなのだが、まさか手塚の口から先延ばしにする言葉が出てくることになろうとは。「今日は俺との約束のために、ろくに休憩も取らず仕事を片付けて来たんだろう。もう休め」言いながら書類を取り上げられるのを目で追っていると、手塚は一度音を立ててキスをしてから、ふと真剣な表情をした。

「名前。後輩指導も自分の仕事も中途半端にならないよう努力することは確かに大切だが、無理に抱え込むな。体を壊しては元も子もない」

「...はい」「いい子だ」そのまま名前の首筋に唇を寄せて口付けていた手塚だったが、ふと「それと」と言ったきり口付けを止めて口を閉ざしてしまった。「国光?」手塚はちらりと、目線だけで名前を見上げる。

「...そいつを好きになるなよ」

ぽつりと呟かれた言葉に、名前は思わずふっと吹き出してしまった。「笑うな」「ならないよ」「また仕事で四六時中一緒にいるのだろう」きっと元上司の箕島のことを思い出しているのだろう。先程と逆転したようにくつくつ笑う名前に手塚は眉間に皺を寄せて、鎖骨にキスを落とした。思わずぴくんと肩を跳ねさせてしまったがそれでもまだ小さく笑って、「目の前にこんな魅力的な人がいるんだもん、他の人なんて見えないよ」と手塚の額にキスを返す。

「...随分と余裕だな」

名前の余裕な態度が癪に障ったらしい。手塚はすっと眼鏡を取って名前の後ろのテーブルに置くとパーカーを肌蹴させた。肩や鎖骨、その下の胸のふくらみはじめているあたりを唇でなぞられ「ん、ちょっと」とやんわり手塚の肩を押し返そうとしていた名前だったが、手塚の細長い指がブラジャーにかけられると本気なのだと悟り、慌てて「国光」と声を上げた。「何だ」また視線だけでじろりと見上げられる。

「ま、待って、今日はもう休めってさっき言ったよね」
「仕事はするなという意味だ」

手塚は眉を上げてさも当然と言いたげな顔でそう言うと、名前を抱いたまま何の苦もなく立ち上がってすたすたと寝室へ歩きだした。

「ひゃ、っ国光、」
「駄目か、名前」

「――…」こうなった彼は止められないということは既に身に染みて分かっていたし、じっと目を見つめて名前を呼ばれれば、名前の心は陥落してしまう。名前はふっと諦めたように息をつくと、呆れたような愛しげな顔をした。そして手塚の腕の中で手を伸ばしてリビングの電気を消し、二人は寝室へと消えて行く。

「さっき体の心配してくれなかったっけ?壊さないようにって」
「壊しなどしない。気持ちよくしてやる」

こうして、恋人たちの甘い夜は更けてゆくのだった。


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