クロンダイク・ハイボール ”本音と建前”



翌日が休みだったのは幸いだった。昨晩のまさに青天の霹靂と言うべき出来事のせいで、名前の目の下には隈ができてしまっていたのだ。こんな顔を晒すわけにもいかないし寝不足で体もだるいし、そういう訳で今日は一日家に籠っていたい――と名前は思っていたのだが、午後になると一本の電話によってカフェに呼び出されてしまった。

「お待たせ」
「いや、突然呼び出したのはこっちだから」

あのプロポーズされた日以来会っていなかった恋人は、向かい側のゆったりした椅子に腰かけた名前を目にするなり目を見開いた。

「何かあった?すごく疲れた顔してるけど」

昨晩のことを見透かされたような気がして、どきっとした。自分の変化にすぐに気が付いてくれる人だということはよく知っていた。目だけで彼を見ると、純粋に心配したような表情をして名前を見ている。それに何となくほっとしてしまったのは、やはり後ろめたさがあるからなのだろう。「恋人に迎えを頼めないはずだ。男と飲みに行くと連絡していないのだからな」という手塚の言葉が蘇って、心臓にちくりと刺さる。男性と二人で会うとなるといつもならばきちんと報告していたのに昨日はしそびれたままで、そんなことは今までに一度もなかったから恋人が何かを疑う様子は微塵もなくて。しかしここでそれを報告すれば、今の名前の顔からすると”何かありました”と白状してしまうようなものである。言えない、と思った。

「、何もないよ。今の企画がそろそろ忙しくなってきたから疲れてるのかな」

「...それで最近会えなかったってことか」「...ごめん」「いや、仕方ないよ。それよりちゃんと食べてる?」彼に対してこれほど罪悪感を抱いたのは初めてのことだった。何年も一緒に過ごした彼が自分との結婚を考えてくれていることはとても幸せで、これ以上ないほど喜ぶべきことなのに、どうしてこうなっているのだろう。何を悩む必要があるのだろう。つい先程も、表情の変化に気付いて心配されればとても嬉しかったはずなのに、名前は必死で誤魔化そうとした。真っ直ぐに向けられた視線にも、何となく心を動かされなかった。それどころか、昨晩の手塚の目がどうしてもちらついてしまう。

「それで――…いや、」

何かを言いかけた恋人は、誤魔化すように他愛のない話をする。名前は、彼がどうして今日自分を呼んだのかを分かっていた。きっと、そろそろ答えが欲しいのだろう。プロポーズしてから急に会えない日が続いて不安だったのだろう。ここで何を言えば彼が喜ぶのかは分かりきっているし、そうすべきだということも分かる。けれど、こうして戸惑った状態のまま彼に何かを言うべきではないと思った。名前は、敢えてその話題を出さないまま、彼の話に相槌を打ったり仕事の話をしたりしていた。

「そろそろ出ようか」

「また連絡する」「うん」別れ際、やはり何かを言いたそうな顔をしたままの恋人は、一度名前の手を握ってから去っていった。昨晩手塚に握られたのとは逆の手だった。...このままではいけない。そんな言葉ばかりがぐるぐる渦巻いて、気が急いて、思考が進まない。心の整理がつかない。きっとこのまま家に帰っても悶々としてしまうことだろう...そんな時は。暫く店の前に佇んでいた名前はつと顔を上げ、自宅マンションとは反対方向に歩き出した。





「――ほら、上がって」

エントランスで部屋番号を押して名前を告げた時はひどく驚いた声が返ってきたのに、扉を開けて名前の顔を見た瞬間、彼女は何も聞かずに名前を部屋に招き入れた。きっと余程ひどい顔をしていたのだろう。

「いきなりごめんね、奏子」

ここは同期の奏子の部屋である。新人研修で意気投合してからは会社の仲間というより親友というべき仲だ。彼女は少し前に婚約していて、名前が今謝ったのには突然来たことへの謝罪の他に、そんな幸せいっぱいの時期の週末におしかけてごめんという意味も含まれていた。それが分かったのか、奏子は笑った。「いいのいいの、彼とはこれから毎日一緒に過ごすことになるんだから。今は名前の方が大事だよ」その言葉が嬉しくて笑いたかったのに曖昧な微笑み方になってしまうと、奏子は笑みを引っ込めて「”だいじ”って言うより、”おおごと”みたいだね」と言って一度キッチンへ消えた。

「ほら、名前」

「ありがとう...?」ソファに身を預けていた名前に手渡されたのは缶ビールだった。奏子は目の前のテーブルにつまみを置くと名前の隣にぼすんと腰を下ろし、迷いなく缶のプルタブを引く。プシュ、という軽快な音に名前は思わず目を丸くしてしまった。「奏子?まだ夕方だよ?」「いいじゃない、明日も休みなんだし。ほら早く。乾杯しよ」「あ...うん」言われるがままに缶を開け、乾杯して口をつける。喉を流れてゆく冷たいビールが、心地よかった。「これ新発売でさ、食べてみたかったんだよね」「あ、これ見たことある」しばらくそんな他愛のない話が続いているうちに、気付けば肩の力が抜けていた。

「――それで?そのひどい顔の理由を全部話してごらん」

酒も入ってリラックスし始めたことで、自分でも驚くほどに心の中に溜まっていた全てのことや素直な感情がすらすらと口をついて出てきた。イメージキャラクターの手塚選手が名前の初恋の相手で10年振りの再会だったこと、この時少し当時の感情を思い出していたこと。恋人にプロポーズされたこと、戸惑って距離を置いたこと。そして手塚に告白された昨晩のこと、先程まで恋人と会っていたこと。奏子が上手に言葉を引きだすので――名前があの手塚選手とそんなことになっているなんてとかなり驚きはしていたが――名前は気付けば自覚しないようにしていた感情まですんなりと言葉にしてしまっていた。

「正直、手塚くんのことが気にならないと言えば嘘になるけど...でも、別れようって気持ちにもなれない」
「でも、結婚はしたくない?」
「したくないわけじゃない...けど」
「けど?」
「今までずっと仕事で必死で、結婚なんてまだまだ先だって思ってて、だから心の準備ができてない...というか」

「うーん、そうねえ...」奏子はぐっと缶の中身を飲み干した。「私が思うに、だけど」テーブルに置いていた二本目の缶ビールを手に取り、開ける。「本音と建前が混同してると思うの。今話してくれたこと全部が自分の本当の気持ちだって言い切れる?」名前は思わず、口を付けようとしていた缶を下ろした。

「建前...」

自分一人で考え込んでいた時には思ってもみなかったことだった。「素直な気持ちと、こうであるべきだっていう考えは必ずしも同じとは限らないんだよ。分けて考えてみて」しかしそれは、名前には難しいことだった。心の中が引っ掻き回されて何が何だか分からない状態になってしまっているのだ。眉を寄せたままビールを流し込む。缶を握りしめていたせいでビールは少しぬるくなってしまっていた。「それじゃあさ、名前」奏子は体をこちらに向けてソファの背凭れに寄りかかった体勢で、つまみのチーズ鱈をゆらゆらさせながら言った。

「名前が必死に”こうでなきゃいけない”って自分に言い聞かせてたのはどんな時だった?」

きっと、抑え込もうとしてたのが本当の気持ちだと思うけど。そんな奏子の言葉は、名前の心に突き刺さった。それは内心分かりきっていたことで、でも、直視しないように気付かないふりをしていたことだった。しかし、それももう難しくなってきてしまった。「うだうだ考え込んでたことを一回全部なしにして、それで浮かんでくるのは誰の顔?」奏子は追い打ちをかける。名前は先程の奏子のようにぐびっとビールを飲み干して、諦めたようにぽつりと呟いた。

「...手塚くん」

本当は、分かっていたのだ。仕事がどうのとか、年齢がどうのとか、そういうことは建前だということを。手塚と再会したことが自分の心をぐらつかせて、今の恋人を一生の相手とすることを素直に受け入れることができなかったということを。よく頑固だと両親や友達から言われていた理由が、実感を持って納得できた。

「これで決まり」
「決まりって、でも...」
「まだ何かあるの?」

さばけた性格の奏子は信じられないといった顔をした。「4年も付き合ってるのに――」「名前、同情するのは相手に失礼だよ。それにもっとシンプルに考えないと窒息しちゃうって」

「私が婚約を決めたのだって、まず”この人といたい”って思ったからだよ。仕事とか時期とか確かに大事だし、長く付き合った人と離れがたいのも分かる。でもそればかり気を取られて自分の気持ちを後回しにしちゃったら元も子もないじゃない」

名前の凝り固まった部分を、すんなりほぐしてくれるような言葉だった。リラックスした姿勢で何でもないことのように言う奏子からは、説教されているというより、まるであやされているような感覚だった。

「ま、すぐには難しいと思う。偉そうに言ったけど、私だって正直かなり時間がかかったから」
「奏子でも?」
「うん。だから焦って決める必要なんてどこにもないんだからね」

「...ありがとう、奏子」「いーえ」顔を近付けて名前の表情がましになってきたことを見て取った奏子はにっと笑って、「それに手塚選手と恋人のどっちかしか選べないわけでもないでしょ」と悪戯っぽく言った。「実は私の同僚で名前紹介してって言ってる人がいてさあ」「や、やめて」「モテ期ってやつだね、いいなあ」「そんなのじゃ...」「もっと楽しめばいいのに」「だめだめ、荷が重い」友達とは偉大なものである。自分一人で考えていたらこうもすんなりいかなかったことだろう。奏子といい跡部といい、周囲の人間に恵まれているものだ。それから名前は奏子の部屋で風呂を借りて、二人で夕食を作ってはまた飲んで、他愛のない話をして夜を明かした。気付けば心のもやもやはかなり薄らいで、普段の名前に戻っていた。


クロンダイク・ハイボール:”クロンダイク”はゴールドラッシュで有名になったカナダの町の名前。ベルモット好きのためのカクテル。カクテル言葉は”本音と建前”。

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