ハイ・ライフ ”私はあなたに相応しい”



「名字...俺と付き合わないか」

時間も空気も呼吸も、ぴたりと止まってしまった。名前は覗き込むようにして今までにない距離まで顔を近付けられたことで少し身を引いた状態のままで固まる。

「ど――どうしたの?酔っ払っちゃった?」

「酔ってなどいない」目を逸らすことなくじっと見下ろしてくる手塚に、名前は「この人は誰だろう?」と頭の隅で思う。つい先程まではいつにも増して口数の少ない手塚に戸惑った名前があれこれ一方的に話していたのだが、それを黙って聞いていた手塚の様子が変わったのはふと仕事の話をして”箕島さんが”と口に出した時だった。ぴくりと眉間に皺が寄り、少し神経質そうな目がすっと細められる。「余程尊敬しているようだな。それとも...何か特別な感情でもあるのか」「え?」思わず目を丸くした。手塚の口からそんな言葉が出るとは思っていなかったのだ。今日の手塚はやはり様子がいつもと違う。そうして名前が狼狽えたことで手塚の眉間の皺はさらに深くなった。「図星か」「ち、違うよ」問い詰めるような声色に何となく焦って捲し立てるように言葉を続ける。「上司として大好きだけど、箕島さんには――」「名字」気付けば目の前に手塚の顔があった。そして、冒頭の台詞に戻る。

「酔ってる人はみんなそう言うんだよ」

間近に迫る整った顔立ちに意図しないところで心臓が反応してしまいつつ、目を逸らして誤魔化すように言った。それでも、視界の隅では手塚が変わらずまっすぐ自分を射抜いているのが分かる。体温がじわりと上がった気がした。

「好きだ、名字」

囁く声が耳元で低く響いて、心臓を鷲掴みにされるような感覚がした。手塚の吐息が髪にかかるほど近かった。どう考えても酔っているとしか思えなかった。...否、そう思おうと必死だったのかもしれない。なぜなら、相手が手塚だからである。過去の話だとしても、一度はその人から言われたいと強く望んだことのある言葉を今こうして囁かれているのだ。期待してしまわないように、本気にしてしまわないように、ぐらついてしまわないようにしなければ。彼は酔っているのだ――らしくないけれど――でなければこんなことを言うはずがない。彼は酔っている。最早そうであってほしい。しかしちらりと目をやった手塚のグラスは名前の願いも虚しく殆ど中身が減っていなかった。混乱した。

「ドイツへの留学を決めた時、諦めたつもりでいたんだがな」

ふと手塚が身を引いて座り直したので名前はほっと――否、今、何と言った?

「久しぶりに再会した初恋の人が息を呑むほど綺麗になっていて、しかし周りには結婚を申し込む恋人や一日中仕事で傍にいる男が取り巻いていると知った時の気持ちが分かるか」

殆ど素面でこんな普段の本人から想像もつかないような台詞を口にしているというのだろうか。それともどこかで飲んできたの?名前はひどく混乱していた。これでもかというほど重大な言葉を耳にした気がするが、言葉の意味を冷静に考える余裕も、勇気もない。未だかつてこれ程内心を掻き乱されたことはなかった。忙しなく瞬きを繰り返した。とにかく駄目だ、ぐらついてはいけない。名前はからからに乾いた喉にカクテルを流し込みながら恋人の顔を思い浮かべた。そう言えば、今夜は急なことだったので恋人に飲みに行くという連絡を入れていない。その事実も何となく名前を焦らせた。

「え...と、」

何を言ったらいいのか分からず目が揺れてしまう。先程から自覚できるほど頬が熱い。きっといい歳して真っ赤になってしまっていることだろう。そうして困り果てている様子を手塚がどこか楽しそうな目でじっと見つめるので、名前はますます恥ずかしくて目を合わせることすらできなかった。

「驚いたか」

衝撃的な台詞を吐いてから手塚の声は一貫してどこか甘くて、落ちつかない。「...かなり」やっとのことで久々にまともな言葉を喋った名前に一度ふっと吐息だけで笑ってから、手塚は再び真剣な、それでいて熱の籠ったような目をして名前を見つめた。

「らしくもなく余裕を欠いていることは自覚している。だが全て紛れもない本心だ。俺は名字が好きだ」

再び名前の心臓を揺さぶるような言葉を落としながら、手塚は何かを名前の前に置いた。カードキーのようだった。

「このまま今日は俺の部屋で寝かせたいとすら考えてしまうほどに、な」

「突然誘ったせいで恋人に連絡を入れていないはずだろう」そんな言葉を耳に入れながら、名前はここが手塚の滞在するホテルであったことやその部屋に誘われている意味、最初からこうするつもりで名前に連絡する暇を与えないほど強引に誘ったことなどを理解してしまった。最早、名前が手塚の言葉にぐらついていることは反応によって手塚にも伝わってしまっていることだろう。それでも、だからと言って崩されるわけにはいかない。名前には交際している相手がいるのだ。こんなのはいけない、と言い聞かせた。

「だめだよ」
「...恋人がいるから、か」

頷いた名前に、手塚はくっと眉を潜める。それが痛みを堪えているような表情に見えて、名前を好きだと言ったことを身をもって肯定しているようで、心臓は飽きもせず高鳴った。

「名字は本当にその恋人を愛しているのか」
「、当たり前、でしょ」
「結婚を戸惑っているんだろう。俺なら名字を迷わせるようなことはしない、不安になどさせない」

手塚が名前の牙城を崩して押し勝つか、名前が守りきるか。強引で強烈な、怒涛の口説き文句だった。心を根底から覆されそうで、名前は痛いほどに見つめてくる視線の中でカードキーを手塚の方へ押して、殆ど自分に言い聞かせるようにして言葉を紡いだ。

「私には、恋人がいるの。不誠実なことはできないし...したくない、」

手塚の目を見て言うことはできなかった。正直に言えばこのまま流されてしまうことなど簡単だった。それでも、距離を置いているとはいえ大事な恋人がいるのだ。名前のとった行動はその彼に対して誠実なものだった筈なのに、なぜか、後ろめたさがどうしても拭えなかった。

「したくない、か...そんな顔はしていないように見えるが」

ふっと軽く息をついた手塚は「今日はこのくらいにしておいてやる。送っていく」とカードキーを仕舞って席を立った。「タクシーだから大丈夫、だよ」「そんな状態のお前を一人で帰せる訳がないだろう」そんなに飲んだわけではないのに、名前は半ばふらついた足取りだった。「それに」外に出るとひんやりとした夜風が、火照った頬を強調した。「恋人に迎えを頼めないはずだ。男と飲みに行くと連絡していないのだからな」罪悪感を煽られて、名前は少し泣きそうになった。何も決定的に悪いことをしたわけではないのに。手塚くんってこんなに意地悪だったっけ、と靄のかかったような頭でぼんやり思った。

「どちらまでですか」

住所を告げてタクシーが発車すると、座席に置いていた名前の手に手塚の手が重なって、握られた。「っ、手塚くん」「これくらい、いいだろう」初恋の人はこんな人だっただろうか。ごつごつした感触や自分のものでない体温、包み込まれるような感覚に居た堪れなくなって、名前は窓の外へ顔を向けた。夜の街を眺めているふりをした。手を握られてどきどきしてしまうような歳でもなければそれ以上の経験がないわけでもないのにここまで、痛いほどに心臓を揺さぶられてしまうのは、学生時代の名残か、それとも――

「...やっぱり、酔ってるよ、」

マンションに帰り着いて手塚を見送っても、シャワーを浴びても、ベッドに入って電気を消しても落ちつかなかった。手塚の射抜くような熱い視線を思い出す度全身に痺れるような感覚がはしって、手塚の言葉がぐるぐると頭をめぐって、何度も寝返りをうってはシーツを乱れさせた。名前は、かつてないほどの眠れぬ夜を過ごした。


ハイ・ライフ:上流階級の華麗さを表現したカクテル。口当たりの良さや甘酸っぱさから飲み易く感じられるが、実はアルコール度数の高いカクテル。カクテル言葉は”私はあなたに相応しい”。

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