デュボネ・カクテル ”嫉妬”



「...プロポーズ、されたの」

控えめな声で告げられた言葉に、手塚の内心で渦巻いたのは確かな”焦燥感”だった。無意識の内に、答えを出していない名前に安心してそれを肯定するような言葉を吐いていた。自分の中に巣食う名前への感情がこれほどまでに大きいとはな、と自分で驚いてしまう程だった。

「...名字、?」

衝撃だった。あの打ち合わせの日、長身の男の半歩後ろで頭を下げた人物が名字名前であると気付いた時、一瞬思考が停止してしまうほど衝撃を受けた。そして、本来ならば断ろうとしていた仕事を跡部に無理やり受けさせられて納得していなかったことなど気付けばどうでも良くなってしまっていた。名字名前は、手塚の初恋の相手だったのだ。10年振りの再会で、ドイツへの留学を決心した時ひっそりと心の奥底に沈めたはずの感情は呆気なく封印を解いて再び蘇ってしまった。否、もしかするとその感情は10年という月日で自分も知らないうちに密かに育っていたのかもしれない。他の女性と交際を試みたことはあっても長続きしなかったのは、そのせいなのかもしれない。

「もう、手塚くんって女たらしだったっけ?」

スーツから覗く鎖骨も、睫を伏せて笑う横顔も、カクテルグラスを支える華奢な白い指でさえ、衝撃的な色香を孕んでいた。24歳になった名前は垢ぬけて綺麗になっていた。10年前は確かに、あどけなく笑う可憐な少女だった。その目を細める控えめな笑顔に恋をしていた。笑い方は少しも変わっていなくて懐かしいと感じるのに、なぜこうも動揺を感じるほどの色気を含んでいるのだろう。笑いかけられたり目が合ったりする度、「もっと格好良くなった」という社交辞令にすらいちいち反応する心臓にこれでは学生時代と何ら変わらないと内心で自分自身に呆れるほどだった。しかし、仕方ないとも思う。まだ子どもだった中学時代から、子どもから大人へ成り代わる時代を飛ばして、化粧にも慣れて男性を立てるような言葉も言い慣れたような大人になった名前を目の当たりにしたのだから。柄にもなく浮かれてしまうくらい、目を疑うほど綺麗に、魅力的な女性になっていた。

「ごめんごめん、気にしないで。同級生と再会して呑みに行くって言ってあるの」

だから、そんな名前を周囲の男が放っておくはずもなかった。既に4年も付き合っている恋人がいた。その男は手塚の知らない名前を沢山知っていることだろう。そう思うと、喉の奥がじりじりと焼け付くようだった。10年という月日は長く、遠いと思い知った。しかしそれでも心のどこかで生まれていた名前を自分のものにしたいという考えが消えることはなかった。三人で飲みに行った時に跡部は得意の洞察力で勘付いたようだったが、それでも構わないと思うほどだった。...だから、プロポーズされたのだという名前の言葉にひどく焦って、結婚を戸惑って距離を置いているという状況を好ましく思った。つけ込むチャンスを見つけたと、思った。





この日手塚は、名前の務める会社へ出向いていた。イメージキャラクターとして出席するイベントの打ち合わせのためで、今回はマネージャーを付けずに一人で来ている。そちらへ出向くと伝えた時の担当はそんな態々と恐縮していたが、打ち合わせに来るのが名前ではない別の担当だと知ったから名前に会う口実作りのためにそうしたまでだ。会社へ近付くにつれ、跡部と三人で会って以来会っていなかった名前に会える、とどうしても期待がわいてきてしまうのだった。

「――…、」

ちょうど名前のことを考えていたので、本物がエレベーターから降りてきた時は思わずどきりとしてしまった。否、そんな理由ではなく純粋に高鳴っただけなのかもしれないが。受付のカウンター前にいた手塚に名前も程なくして気付き、「手塚くん」と駆け寄って来た。初めて会った時にも思っていたが、セーラー服姿しか見たことのない名前のスーツ姿はとても新鮮で、似合っていた。大抵の男はタイトスカートのラインやスカートから覗くほっそりとした足に視線を持って行かれそうになることだろう。わざわざ来て頂いてと一緒にいた名前の上司の箕島と共にお礼を述べられている間、手塚はそんなことを考えてしまっていた。

「私がご案内します」

名前は手塚にそう言って、「ちょっと行ってきます」と箕島を振り返った。「ああ。それじゃあ手塚さん、よろしくお願いします」箕島はこの後の別件の約束を気にして腕時計を確認しながら「すぐ戻って来い」と名前に小声で言ったのだが、その言葉は手塚を嫉妬させるには充分すぎる言葉だった。

「それじゃあ行きましょうか」

二人きりのエレベーターで、手塚はボタンの前に立つ名前の斜め後ろに立っていた。先程の箕島の言葉がいやに耳に残っている。彼は最初の打ち合わせの時にも名前と一緒にいた。直属の上司だろうから当然なのだが、常に傍にいるらしいと考えるとどうしても内心がざわついてしまう。

「ごめんね手塚くん、本当なら迎えに出るべきなのに」
「いや、俺が早く到着してしまったからな」

バーや焼き鳥屋のように他人の声がない狭い空間では息づかいまで聞こえてくるようで、柄にもなく少しの緊張状態にあった。「これから出るのか」「うん、今日は挨拶まわりで時間がかかりそうだから正直少し気がのらないけど」「それは大変だな」つまり、それをずっとあの上司と一緒にまわるのか、と手塚は思った。「...箕島さんは良い上司という感じだな」わざとそんなことを言った。「うん、すごく尊敬してる。入社して初めての上司なんだ」つまり数年来の関係ということになる。はにかむような表情をして言った名前に、手塚はまた喉の奥が焼け付くような感情を抱いた。名前の表情には純粋な尊敬・信頼しか見えないのに、ただの上司部下の関係であると分かっているのに、箕島もまた自分の知らない名前を沢山見ているのだと思うとどうしてもそうなるのだった。

「ここが私のオフィスだよ。なんか同級生を案内するなんて変な感じだね」

名前は悪戯っぽく笑って、首から下げていた社員証をかざしてロックを解除した。セキュリティカードにもなっているのだろう。”同級生”という言葉に何の特別な感情もないとつきつけられている気がして少しちくりと痛みがはしったことには気付かないふりをして、「こうして見ると名字もしっかり働いているのだなと実感するな」と冗談めかして言った。

「どうせビジネスウーマンには見えませんよーだ」

拗ねたようにそう言った後またあの笑い方で笑った名前は、やはり魅力的だった。担当の社員が慌てて駆けてくると名前は挨拶をしてすぐに踵を返してしまう。自動ドアの向こうに去ってゆく名前を、手塚は会議室に案内されながらさりげなく目で追っていた。





何かの巡り合わせかと期待してしまいそうなほど偶然に、その日手塚は再び名前に会った。後になって考えてみれば、会ってしまった、と言う方がしっくりくるかもしれない。打ち合わせが終わって、トレーニングも終えた夜遅くのことだった。

「ごちそうさまでした」

跡部グループの系列にあるジムを出て、手配された車に乗り込もうとしている時だった。タクシーの前で名前が箕島に頭を下げているところにばったり出くわして、回転の速い手塚の頭は日中名前から聞いていた言葉を瞬時に思い出し、こんな時間まで一緒にいたのかと察してしまった。

「名字」
「あれ、手塚くん。また会ったね」

行き交う車のヘッドライトや街灯に照らされた名前の頬はほんのり上気していて、アルコールを摂取したことがすぐに見て取れる。それとも箕島と二人で過ごしていたからか、などと邪推してしまうなんて、手塚らしくないことだった。それでもこの時は、日中に抱いてしまった感情や今の名前の表情も相俟って、そんなことを思ってしまう心理状態だったのだ。普段より幾らか、否、正直かなり冷静さを欠いてしまっていた――だから、こんな行動に出た。

「名字、少し付き合え」
「え?」
「箕島さん、名字は俺が責任を持って帰しますから」

手塚は箕島にそう言った。滲んだ嫉妬に”俺が”という部分を強調した少し大人げない言い方になってしまったが、箕島は少し驚いた表情をしながらも「では、お願いします」と言って名前が乗るはずだったタクシーに乗り込んだ。それが余裕の態度に見えて、自分が子どもじみた存在に感じられてまた少し苛立つ。冷静に見れば箕島は名前のことを部下として捉えていると分かるのに、如何せん今の手塚には余裕がないのである。

「手塚くん...?」

強引に名前の手を引いて車に乗り込んでいた。夜になって再び会わなければ、箕島といるところを目撃していなければ、こんなことにはならなかっただろう。だからやはり、会ったというより”会ってしまった”というのがしっくりくる。正面を向いて腕を組む手塚に、名前は控えめに声をかけた。「...突然誘ってすまなかった。平気か」「うん、明日はお休みだから」「そうか」それからは会話をせずに、ホテルへ着いた。実家からだと練習に使っているコートやジムに通うのには不便だからと手塚が現在滞在しているホテルである。

「ここの地下にバーがある。そこでいいか」

いいか、と聞きながらも有無を言わさぬ声色の手塚にやはりいつもと違うと思ったのか、名前は少し困惑したように瞬きしながらも頷いて着いて来た。手塚はバーに行くだけとはいえ男に誘われるままホテルに足を踏み入れるなんて無防備だと思ったが、まさか下心があるなんて思いもしていないせいだろうかと考えると余計に苛立った。今日はらしくもなく苛立ちや焦りを募らせ、普段の余裕や冷静さを欠いている。強引にホテルに誘うという普段の手塚なら絶対にしないようなことをしているし、――

「名字...俺と付き合わないか」

――カウンターの隅で名前の座る椅子の背に手をついて覗きこみ、そんなことを口にしてしまっている。今日は本当に、らしくない。


デュボネ・カクテル:香味付けワインのデュボネとドライ・ジンのみというシンプルなカクテル。ステアならデュボネ・カクテル、シェイクならザザという名前になる。カクテル言葉は”嫉妬”。

>>>

back
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -