君の名を知った日



唐突だが、名前には許婚がいる。今どき珍しい話だが、旧財閥宇佐見グループの長女に生まれたのだから話は別だ。いわゆるお嬢様育ちというやつなのである。婿養子として宇佐見本家に入りグループを引っ張るやり手の父、若くして建設部門の社長に就任した長男と若くしてありとあらゆる賞を総なめにする小説家の次男という歳の離れた優秀な兄二人を持つ名前は、彼らの手で少々箱入り気味に育てられた。そのせいか世間知らずで少し引っ込み思案な部分はあるが、彼女自身は至って普通の女子であると自負している。

「許婚って・・・なんか、少女漫画みたい」

友達の中で唯一打ち明けた栞乃はやはり、名前の将来の相手が決められているということに驚いていた。名前からすれば幼い頃から決められていたことなので、特別何かを思うことは最早なかった。自分の人生やあれこれを父に決められることには既に慣れっこで、あと数年もすれば彼と結婚するのだなあと半ば他人事のようにぼんやり把握しているだけだった。しかし先日柳生に述べた通り、名前はまだ人を好きになったことがない。許婚の彼とは幼馴染で、優しくて大好きだとは思っていても、それが恋愛としての”好き”であるかと考えるとどうもピンとこないのだった。とは言っても恋を知らぬまま結婚することに疑問や不満を抱いたことはなく、許婚など時代遅れだという思いはあるにしても、宇佐見グループの未来には必要なことなのだろうとまだまだ子どもながら理解していた。

――ただ、ふいに。

好きな人の話で一喜一憂する友人達を、ほんの少し羨ましく思うことはあったけれど。








「ありがとうございました、」

間延びした店員の声に送られて書店を出ると、夏が始まったばかりのぬるい風がスカートを揺らした。普段は授業が終わればすぐに迎えの車に乗るのだが、今日は栞乃と寄り道をして、その後車を呼ぶ前にと珍しく一人で商店街の書店に立ち寄ったのだ――それが、良くなかった。

「―――・・・」

名前の進路を塞ぐようにして、ふいに数人の見知らぬ男子高校生が歩み寄ってきた。

「宇佐見さんだよね?」
「宇佐見グループのお嬢様が何で一人でこんなとこいんの?」

その制服から同じ立海の生徒であることは把握できたが、見たことのない顔だった。笑みを浮かべて名前を見てはいるが、何となく品定めでもしているかのような視線や感じの悪い物言いだ。名前は不安を覚えて表情を曇らせた。

「まさか男遊びでもすんの?」
「何、お嬢様でもそういうの興味あるわけ」
「大人しそうな顔してるのにやるねえ」
「でも遊び方知らなそうじゃん?教えてあげよっか?」

小馬鹿にした様子で好き勝手に言葉を投げつけられ、どうして見ず知らずの人にここまで言えるのだろうと困惑したが、どう返せばいいかなど名前にはさっぱり分からない。こんなふうにずけずけと踏み込んでくる人間など家柄上排除されていたので、名前の周囲にはいなかったのだ。混乱していた。「どうしよう」という言葉すら浮かんでこないほど頭が真っ白になって、ただただ怖かった。「なあ聞いてんの?」と顔を近づけられて、咄嗟に避けるようにして後ろに身を引く――とん、と背中に何かが触れた。あたたかかい。

「待たせてしまってすまない、宇佐見」

初夏の風にのって、ふわりと優しい匂いが掠める。穏やかで低い声だった。驚いた名前がぱっと振り返ると、いつか柳生に声をかけたあの長身の男子生徒だった。「――、」名前が何かを言う前に彼は名前の前に立ち、その切れ長の眸ですっと彼らを見下ろす。名前にかけた優しい声とは裏腹な、冷たい目だった。名前はそれを、ただ見ていることしかできなかった。

「宇佐見に何か用があるのか?ないのなら立ち去ってもらいたい」
「お前・・・柳!」
「そうだが」
「宇佐見さんと付き合ってんの?」
「そういうわけではない」

――そっか、柳くんっていうんだ。

こんな状況下にも拘わらず、名前はそんなことを考えていた。つい先程まで感じていた不安や不快感、恐怖はいつの間にか全て消え去って、なぜか、初めて知った名前を頭の中で繰り返していた。

「大丈夫か?」
「え?」
「随分無神経なことを言われていたようだが」

ふと気付けば、男子高校生達はいなくなっていた。はっとして顔を上げると、”柳くん”は名前の顔を覗き込むようにして見下ろしていた。彼らにされた時には反射的に避けてしまったのに、今はあの時感じた不快感が微塵もない。きっと彼らとは違って心から心配しているような眼差しだからだろう、と名前は思った。長い睫から覗く眸に、名前は先日のように再び目が離せなくなった。

「宇佐見?」
「あ――ど、どうして私の名前」

再び呼びかけられた声にはっとして咄嗟に口をついた言葉に、名前は自分でぎょっとした。質問の答えでも助けてもらったお礼でもない、突拍子もない言葉。なぜそんなことを口走ってしまったのか自分でも分からずに、ぱちぱちと瞬きをする。

「柳生から話を聞いたことがある。同じ部活なのでな」
「あ・・・そっか、テニス部」
「ああ。俺は柳蓮二だ。先程は勝手な真似をしてすまなかった」

「迷惑だったか」小首を傾げ眉をハの字に下げてそんなことを言うので、名前は弾かれたように首を振った。「そんなことない!すごく助かった」「そうか。大丈夫か?」今度は、しっかりと頷く。

「ありがとう。柳くん、」

この時、ただ名前を呼ぶだけなのに、なぜだか少しだけ勇気が要った。

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