…人間の記憶は、木から伸びた枝だ。

それは誰が言った言葉だったか。

「…ハイ、すいません。今日も休みます」

ピッと無機質な音が響いて、携帯を置く。仕事を休んで今日で三日が経った。この三日間、私は誰とも会っていない。朝、毎日会う銀ちゃんにも。毎日のように連絡していた…トシにもだ。

よっこらせ、と重たい腰を上げて。進まない足に叱咤しながらのろりと家を出る。…体調が悪いわけじゃない。世に言わせればこれは立派なズル休み。それでも私は。ズルをしてでも、今やらなきゃならないことがある。

…多分、トシは気付いてる。私の中の銀ちゃんの存在に。彼は気付いてて、それでも尚私のことを好きだと言ってくれた。私の、味方でいると言ってくれたから。

私は逃げてちゃいけない。向き合わなければいけない。

逃げたくてたまらなくて。でも言い聞かせて。…そうして、やって来たのは銀ちゃんが今住んでいるらしい寮。

場所は前、会社帰りの銀ちゃんに偶然出くわした時に聞いた。職場の寮で、家賃は出世払いでいいと。そう社長に言われたんだと嬉しそうに話してたっけ。

坂田、その名前を探して。見つけたのは一番端っこの古びた白いドア。まるで銀ちゃんの髪の毛みたい。それに少し笑ってみれば、さっきまでの暗い気持ちは無くなって。…そうだ、私は前に進むためにここに来た。

意を決して、インターホンを押す。…しばらく待ってみても中からは何も応答が無い。あ、今頃仕事中か、と。そんなことに今更気付いたけれど。

「…銀ちゃん、さようなら」

今度こそ、最後にする。ドアに向かって頭を下げて寮の門を出た。

銀ちゃん、私…今でも銀ちゃんが心の中にずっといるの。何をしても、トシといても。思い出すんだ、初めて行ったデートとか。初めて一緒に過ごした誕生日とかクリスマス。

楽しかったことも、嬉しかったことも。それから、辛かったことだって。

…あの日、銀ちゃんに別れを告げた日。きっと追いかけて来てくれるって、勝手に思ってた。

そしたら言ったことも全部謝って仲直りして、またやり直して。…なんて。そんなの全部私の身勝手だって思い知って。

だからね、今度こそ。全部全部リセットしよう。私達が出会ったことも。お互いの存在も。

今度こそ全部…二人の中から消してしまおう。そしたら、本当にもう。前に進むしかなくなるから。銀ちゃんのことも考えなくなるから。

もう少し、もう少しで見えなくなる。目に溜まり出した涙のせいで目の前が霞んで上手く歩けないけど。私は、止まらないよ。

「っ、 ミョウジさん!」
「…!」

呼ばれた名前。聞き覚えのある声。振り向いて、後悔した。そこには息を切らして私を見ている銀ちゃん。

…もしかして、追いかけてきた?そう思ったら込み上げてくる想い。それに慌てて蓋をして。違う、と言い聞かせて彼に背を向ける。

今決めたばっかりじゃない。忘れるって。無かったことにするって。

「…どうしたの?」
「え?いや、どうしたっていうか…家に帰る途中でミョウジさんが見えたから追いかけてきて、」
「そっか」
「あ、あの、最近朝見ないですけど調子でも悪いのかと思って…」
「銀ちゃん、」
「え、?」

…さようなら、さようなら。何度だって練習したじゃない。彼に、銀ちゃんに言うために。ミョウジでもナマエでもある、私を知るこの彼に伝えるために。

「バイバイ…」
「っミョウジさ…っ!」

私は、笑えていただろうか。

銀ちゃんの顔はよく見えないままに私は彼に背を向ける。

…ごめんね。ごめんね…ごめんなさい。身勝手な女でごめんなさい。

少し、足早に歩き出してすぐ。背中に受けた衝撃に止まった身体。お腹に回された見覚えのある太い腕。ふわふわと首元に当たる柔らかいものは彼のトレードマーク。

…今、何が起きているのか。考えなくても分かる。すぐ近くで銀ちゃんの匂いがする。

「…ナマエ、行くな。どこにも…行くなよ」
「…っ銀ちゃ、」
「行かないでくれ…ここに、いて…お願いだから、」

そんな風に言われたら、何も言えなくなるじゃない。

いろんな想いが頭の中で這い回る。…どうして思い出しちゃったの?とか。あのまま、私のことなんか忘れていたらよかったのに、とか。

…ごめん、そんなの嘘だ。本当は嘘なの。忘れないで。私のこと忘れないで。

溢れ出して止まらない。もう、止まらないよ。

ポタポタと零れ落ちる涙はすぐに嗚咽へと変わっていく。気付いたらその言葉に何度も頷いていた私。

お腹に回っていた腕は背中に回っていて、涙でぐちゃぐちゃだった顔は銀ちゃんの胸に押し付けられた。

ぎゅう、と身体を締め付けられる。だけどその苦しさよりもこの焦がれるような息苦しさの方が痛くて。

「…ナマエ、ごめん。ごめんな…」

耳元で聞こえたその声にまた涙が溢れてくる。震えているような銀ちゃんの声。…泣いて、いるの?胸に埋まっているせいか顔は見えないけど。

その大きな身体が確かに震えているから。

(その背中に手を這わせた、)

end




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