a | ナノ
T氏の苦悩
O氏の囁き

青い鳥の続きです

※音也くんに喫煙描写があります!


「一ノ瀬さん!」

ひらひらと手を振る姿を確認すると、思わず顔を綻んでしまう。以前、結婚式で会ったときとは違い、彼女は学生の頃のようにヘアスタイルが短いショートボブになっていた。

「すみません、遅れて」
「いいえ。私が早く着きすぎたんです。今だって約束時間5分前ですよ」

ふふふ、と笑う姿は大人になっても可愛らしい。ピンクベージュのシフォンワンピースに黒のカーディガンに、チョコレート色のヒール。いつ見ても、少女のような人だと思った。

「髪切ったんですね」
「はい。でももう切ってから数か月はたちますよ。あの結婚式のすぐ後に切ったので」
「そうですか…ハンカチ、返すのが遅れてすみません」

小さな紙袋を彼女に渡してやると、彼女はふと驚いたように視線をあげた。

「あのハンカチは汚してしまいましたので、代わりのものを購入しました。きれいなハンカチだったのに…すみません」
「そんな…わざわざ新しいものを?気をつかって頂かなくてもいいのに!」
「そんなわけには…私は君に取り返しのつかないことを」

あの時のことを思い出すだけで、表情が強張る。あの日、音也との結婚式で私は、あろうことか彼とそのままなだれこんでしまったのだ。汚れた彼女のハンカチを握り締めたまま。

「一ノ瀬さん」

彼女の高い声によって、はっとする。ここは真昼間のショッピングモールの入り口の前だ。

「立ち話もなんですから、お店入りましょうか。それに一ノ瀬さんからの贈り物だなんて、私すごく嬉しいです」

にっこりと彼女は笑って私の腕を引っ張る。ウインドウに映る私たちは、きっと街の人から見ても、ただのカップルにしか見えないのだろうと思った。



「びっくりしました。一ノ瀬さんから急に連絡がきて…もう、テレビ以外では会えないのかと…」
「本当はずっと、ハンカチを君に返さなければと思っていたのです…でも」

でも、と言葉を続けようとすると、店員がちょうどカップを持ってきた。彼女はホットのキャラメルラテ、私にはホットコーヒーだ。
ずいぶん甘ったるいものを頼むんだなと思った。キャラメルラテだなんてただでさえ甘そうなのに、彼女はそれにさらに角砂糖を一つ入れては混ぜる。そこまで甘くして大丈夫なのだろうか。私の杞憂とは裏腹に、嬉々として目の前でそれを飲みこんでみせる。小さな手は両手でカップを支えていて、何から何まで女性らしいと思った。

「…君は本当に少女のようですね」
「髪切ってから、子供っぽいって言われるようになってて…童顔なんですよね私…」
「とてもよく似合ってます。あなたは短い方がいいですよ」

うふふ、と笑って彼女は私のあげた紙袋を手にした。開けてもいいですか?と聞いてきたのでどうぞと答える。がさがさと軽やかな音が聞こえて、彼女の白い手がそこから薄いサーモンピンクのハンカチを手に取った。

「わあ可愛い…!黒い猫の刺繍があります!」
「少し子供っぽいと思ったのですが」
「いえ!猫ちゃん大好きなのですごく嬉しいです!クップルみたい…」
「本当に遅れてすみません…私はあの日も、逃げるように結婚式に出席できなくって…」

思い出すだけでも頭が痛い。あの日の出来事は今でも鮮明に思い出すことができる。痛みも、快感も、音也の顔も体温も声も。

「…翔くんたちもみんな心配してましたよ。体調大丈夫かなって…」
「あの後音也は…」
「音也くんは体調不良を訴えてましたが、ちゃんと式に出てました」
「…そうですか」

結局あの後、体を引きずるように、そこから逃げ出すように私は式場を後にした。あまり覚えてもいない。早くあのトイレから抜け出したかった。

「音也に変わりはありませんでしたか」
「いつも通り笑顔でした」

その言葉にずきんと胸が痛む。なんとまあ未練たらたらなのだろう。私はごまかすようにコーヒーを飲み込んだ。

「音也くん、変わりましたよね。最初はアイドル志望で、弾き語りするタイプだと思っていたんですけれども、最近はドラマ出演オファーが多いですし」
「そういえばそうですね。意外に器用なタイプだったというか…」

がさつな印象とは意外に、心根は細やかなタイプだった彼は演技の才能が見出された。それからは彼は年齢があがるにつれてドラマ出演が多くなる。彼自身もよく芝居は好きだと言って台本を家で読んでいた。

「音也くんの演技は光るものがあります」
「…?」

彼女の大きな瞳が私を見つめる。その揺らぎはあの頃の面影を残していた。

「あの結婚式当日も、演技していたとしたら…」
「…っ何が言いたいんですか!」

思わず声が大きく出てしまうと、まわりが一瞬こちらを見やる。けれども私と彼女ならカップルの痴話喧嘩程度にしか見られないだろう。私は一瞬そう計算した。

「私、ともちゃんのことが好きだったんです」

唐突に彼女が呟いた。私が驚いてコーヒーも飲めずにいると、彼女は一息苦笑して、そのまま言葉を続けた。

「好きでしたけど、言えませんでした。ともちゃんは、他の男の子のこと好きだったから」
「七海くん…」
「ですから、ずっと羨ましかったんです。音也くんと一ノ瀬さんが想いが通じ合っているのを見て、いいなあって学生時代ずっと思っていたんですよ」
「君は私と音也の関係を」
「私は音也くんのパートナーですよ?」

ふふふと笑って彼女はもう一口カップを口に含む。つられるようにコーヒーも飲みこむと先ほどよりも温度は格段にさがっていた。

「君は変わりましたね」
「そうですか?」
「隙がなくなったというか…」
「…そうかもしれませんね。私や音也くんは芸能界に行くには少し、素直すぎたから…」

雰囲気や口調はとても柔らかく朗らかなのに、彼女の中にはピンと張りつめた緊張感みたいなものを感じる。始めは、何年も会ってないから雰囲気が違って当たり前なのだろうと思っていた。けれど彼女は確かに変わったのだ。

「一ノ瀬さんは元々芸能界にいらっしゃったから、卒業後もペースを崩すことなくいけたと思います」
「え、ええ…まあ…」
「神宮寺さんや、聖川さんは家庭環境からか、大人の世界にはもう慣れていたように思えましたし、翔くんは持ち前のバイタリティで、負けずに進んでいました。四ノ宮さんの、柔軟性、順応性は素晴らしいです」

七海くんは淡々と話していく。時折休憩するように甘ったるいキャラメルラテを飲んでいた。私はただ黙って話を聞いていた。

「でも、私と音也くんはちょっと大変でした」

そして最後にふんわりと笑う。いつの間にこんなにペースの掴めない女性になっていたんだろう。置いたカップはいやに軽い音をたてていて、すべて飲み干したことを知った。

「今日、音也くんに会うんですか」
「…っ!どうしてそれを」
「憂鬱なことは一度に済ませたいですよね」
「君は…!本当に変わりましたね…」
「ごめんなさい。意地悪でしたね」

今度はグラスに注がれたお冷を彼女は飲む。私のカップはまだ半分以上も残っていた。

「髪、切ったの、ともちゃんが…ともちゃんがもう一度見たいなって言ったからなんです」

今度は少し震えるような声になった。学生の頃の七海くんに戻ったようだ。

「ああやってみんなで集まると、どうしても思い出してしまって…っ私、本当に音也くんと一ノ瀬さんが本当にうらやましくって…」

彼女の声は涙声そのものであったが、決して涙をこぼすことはなかった。今泣いても、拭ってあげるのに。
七海くん、私と付き合いませんか。
そう言ってもいい、なんて私は頭に思い浮かべてすぐにやめた。父もきっと彼女を気に入るだろうなあ、とも考えたけれどすぐにその考えはやめた。

「羨ましいだなんて思わなくて結構ですよ」
「え…」
「結局、私と音也は終わったのですから。彼も普通の女性と結婚をしました。どうせ長く続かないんです」

今度こそ七海くんは泣いてしまうのではないかと思った。けど泣かなかった。
お互い、幸せな恋がしたかったですねと彼女は笑う。そうですねと曖昧に笑って、私はやっとコーヒーに口づけた。もうそれは冷え切っていて、おいしいとは言えたものではなかった。



七海くんと別れて、私は音也との約束場所に向かった。彼女との昼の待ち合わせとは大して変わらない。同じショッピングモールの入り口だ。
けれど時刻は夕方になっていて、景色も変わっていく。恋人同士の組み合わせが多くなってきたのだ。今日は金曜だ。本格的に秋になってきたのか、少し肌寒い。私は自動販売機でホットの缶コーヒーを買った。熱すぎるぐらいのコーヒーがのど越しを通るのが気持ちいい。七海くんとのお茶のとき、自分は思っていた以上にコーヒーが飲めていなかったんだと知った。
これから音也と会うと思うと、本当に憂鬱だ。胃が痛くなる。コーヒーを飲んでますます胃が痛くなっていくような気もしないでもない。けれどこの嫌な心臓の鳴り方をごまかすように私はコーヒ―を飲んだ。そろそろ5分前だ。あと一口飲んでしまおう、と思うと後ろから声をかけられた。

「トキヤ」

ぎゅるん、と音がでそうなほどに私は見開いてしまう。瞳が乾いてしまうのではないかと思った。目の前には音也がいたのだ。いつも通りカジュアルな装いだった。けれどチェックのネルシャツは学生のあの頃を連想させる。わざとなのかと思うぐらいだ。

「お久しぶりです…」

精一杯律した声は、そこまで震えなくてよかったと内心安堵した。うん、と複雑な表情で音也も答える。そして彼がず、ず、と近づいた。

「コーヒー飲んでるの?俺にも一口ちょうだい」
「…もうありません」

ガコン!と乱暴に私はまだ中身の残っている缶コーヒーをゴミ箱にいれた。

「どうする?居酒屋にでも行く?」
「…行きません。話をするなら喫茶店でも良いでしょう。こちらは長話するつもりはないんです」
「つれないね。飲んだら理性がどうなるか自信がないから?」

ぬるりと音也の熱い手が私の手に触れる。びくんとして、大きくその手を払った。

「人前でそういうことはしないでください…っ」
「…トキヤって自意識過剰だよね。誰も見てないよ」
「もう少しアイドルの自覚を…っ」
「はは、怒ったトキヤ久しぶりに見た」

晴れやかに笑うその姿は何も変わらない。その笑顔に私の胸は思わずきゅんと高鳴ってしまうのであった。

「…あなたにしてはよく待ち合わせ時間に間に合うようにきましたね」
「うん、遅れないように来たよ。だってトキヤ逃げちゃいそうだから」
「そんなことは…」
「何度も俺からの連絡シカトしといて?俺、あの日が終わってからもずっと連絡してきたじゃん」
「それは…」
「でも着信拒否はしないんだよね、トキヤは」

かあっと頬が燃えるように熱くなる。
もう駄目だ、私はこの男を前にするとどうしてもペースを飲み込まれてしまう。七海くんの前では必死につくりあげていたのに、音也の前では私はまるで駄目なのだ。

「喫茶店行こうか。ここじゃゆっくり話もできないね」

そう言って音也は私より一歩前にでて、中に入っていく。彼の後をついていくウインドウに映る、自分の姿はなんだか情けなく、滑稽にも思えた。



音也と入った喫茶店は馴染みのあるチェーン店だ。七海くんとはまるで雰囲気が違う。まわりは喫煙者ばかりで、たばこのにおいがした。彼はアイスのカフェオレを頼み、ガムシロップをいれることもなく、ごくごくとそれを飲む。私は先ほどと同じようにまたホットコーヒーを頼んでしまった。今日は何度コーヒーを飲むのだろう。

「話とは何ですか」
「なに声潜めて話してるの?聞こえないよ」

音也の物言いは少し刺々しい。こんな雰囲気の音也は見たことがなかった。私は言葉が紡げなくって、とりあえずコーヒーを飲んでしまう。すると音也が口を開いた。

「煙草、吸っていい?」
「え…」

なぜ灰皿があるのだろうか、とか、なぜわざわざ喫煙席を選んだのだろうかとか色々考えてはいたが、まさか音也は喫煙者になっていたのか。私と付き合っていたときは吸っていなかったはずだ。
カチカチとライターを弾かせ、箱から一本取り出したそれを灯そうとする。私は思わずそれを彼の指から抜き取っていた。

「ああー!何するんだよ!もったいない!」
「何するじゃありません!あなた仮にも歌を仕事にしているのでしょう!喉を大切にしないだなんて最低です!」
「だって口寂しいんだよ」
「……っ!」

音也の熱い手が私の手に触れる。それだけで私は身動きができなくなるのだ。

「俺、トキヤと別れてからタバコ、始めたんだ」
「じゃあもう二年以上も…あなたは…!」
「…前ほど歌の仕事もないしさ。ね、タバコどうするの?責任とってくれるの?」
「な、なにが…」

ねえねえと音也が近づいていく、私はどんどんと背もたれに背中を押し付けてしまっていた。

「口寂しい、って俺言ったよね。どうすればいいかわかるんじゃない?」
「……そこのストローでも咥えていればいいんじゃないですか」
「こんな場所だからできないって?」
「……当たり前です!ここをどこだと思って…」
「やっぱり、トキヤは体裁が気になるから別れたんだね」
「そんな…!」

ぐんと音也が私の目の前から離れ、ギっと椅子にもたれかかった。そして彼はもう一度煙草を一本取り出し、火をつける。私は、今度はもう止められなかった。
細いそれを指に挟み、紫煙を吐き出す音也の姿は今までの爽やかなイメージとかけ離れたもので、大人の色香が混ざっているように見えた。

「なんかさー…いらいらすると吸っちゃうんだよね」

音也は変わった。前はこんな表情をするような男ではなかった。七海くんも変わった。私だけが取り残されているような気がした。

「……けほっけほ…」
「………」

私が咳をすると、彼はまだまだ長さのあるそれを灰皿に押し付けた。私が驚いて顔をあげると、音也は無表情で呟いた。

「トキヤは歌手だから…喉痛めるわけにはいかないしね」
「…ありがとうございます。でもあなたも歌手なんですからタバコはやめてください」
「それはちょっと自信ないなあ」

音也がやっと朗らかに笑った気がする。この時間に私は口端が少しだけあげることができた。

「トキヤ、やり直さない?」

私のその表情に安心したのか、音也は唐突に話を切り出した。一瞬音も空気も時間もとまったのではないかと思った。
けれど、心のどこかでこんなことを言われるのではないかとも思っていた。あの結婚式の日から私の心も体も音也を求めていたのだ。それを振り払うかのように狂ったように仕事をしていた。そう言われたときの答えも、もう決めていたのだけれども。

「それはできません」
「はは…やっぱり」
「結婚とはそういうものです」
「…そうだね」
「あなたがずっとほしがっていたものは家庭でしょう。私ではそれができませんから」
「……トキヤ」
「こればっかりは仕方がありません。私がどんなにあなたが好きでも、私にはあなたの子供が産めない。それは事実なんです。あなたが家族に憧れていたことをずっと知ってました。だから私は…っ」
「トキヤ!」

音也の声にはっと現実に引き戻される。私は彼を目の前にすると本当にダメ人間だ。音也は音也で神妙な顔つきをしていた。

「トキヤもういいよ…」
「彼女と離婚だとか考えないでください…私は不倫とかそんな不道徳的なこと絶対嫌ですからね」
「うん…でもね」
「子供ができれば、また変わりますから。自分の子供は可愛いことに間違いないでしょう。それがあなたの幸せに…」
「俺、たぶん子供できないんだよ」

音也がそう言った。私にはわけがわからない。

「俺さ、勃たないんだ。あの日以来」
「え…」
「一人でトキヤを想うときは勃つよ。でも彼女を前にすると勃たない。抱けない」
「ひっ…」

テーブルの下で、音也の手が伸びたかと思うと、私の手を無理やり下腹部に押し付けた。そこは妙に熱を持っている。

「こんなところで何を…っ」
「ね?駄目だよ、俺…。あの日以来ずっとトキヤのこと思ってる。別れたあとはちゃんと彼女ともできてたよ?でも、あの日、スーツのトキヤを抱いてから俺はずっと…」
「やめください…!」

音也の熱っぽい囁きが、近くに触れられて、ここが喫茶店だとかいろんなことがあやふやになる。男同士でこんな光景怪しいに違いないのに。

「俺、口寂しいからタバコ始めたって言ったよね…?」
「……っ」
「慰めてよ…」
「〜!」

ドン、と音也の胸を押し返すと、思いのほか簡単に彼の体は引き離される。
私の顔は熱くて仕方がない。音也は先ほどの色気はどこへやら、おあずけをされた犬のように甘えた瞳で私を見上げていた。

「そんなに口寂しいならこれを特別に差し上げます」
「え?なになに」

コロンと二つを彼の手に握らせると、のど飴かよ…と言う声が聞こえた。

「うわ…これミルクとハーブの中途半端なやつだ」
「清涼感のあるもののほうが喉に気持ちがいいんです」
「はは…ミルクのハーブのこれ…懐かしいなあ…」

学生時代、音也はよく私にお菓子をねだっていた。私はいつものど飴しか持っておらず、彼に仕方なくそれを一つあげると彼はそれが辛い辛いと騒いでいたのだ。
それから私は少しでも彼が食べやすいようにミルクとハーブののど飴を買うようになった。
音也は、少し辛いけどミルクが甘いから平気と笑っていた。
のど飴を前に苦笑する音也は、昔に比べて本当に大人びた表情をするようになったなあと思った。

「さて…私は帰りますよ」
「えっもう!?一杯ぐらい飲もうよ」
「奥さんに悪いでしょう」
「男同士で飲んだって誰もあやしまないよ」

ねっと音也が耳元で囁く。私はその悪魔の囁きに抗うことができず、こくりと頷いてしまいそうになってしまった。
私の頭の中では、音也は彼女より私に興奮するという事実への歓喜でいっぱいだった。つまるところ、心に余裕が生まれたのである。
ひどい話だ。