★あこがれの人(2/5)

遠くから大きな怒鳴り声が聞こえて、千鶴はそっと部屋の襖を開けた。
しばらくすると庭を挟んで正面にある廊下を総司が軽快な足取りで走っていく。
やっぱり、と思いながら千鶴はその姿を目で追い、溜息をつく。
総司があんなふうに楽しげに走っているときは、いつもあの人が関わっている。
案の定、少し遅れて同じ廊下の同じ方向から土方が威勢良く駆け抜けていった。
十日に一度くらいの頻度でこんな光景がよく見られるのだが、千鶴にとっては憧れでしかなかった。

追いかけられている総司は実に楽しそうに笑っている。
なにか土方の大事なものを手に握り締め、時折振り向いては土方に声をかけて笑みを深める。
その様子をじっと見詰める千鶴は、また深々と息をついた。

あんなふうに総司と追いかけっこがしたかった。
総司は足が速いからなかなか追いつけないだろうけど、ああやって時々、距離が縮まるのを待っていてくれるのだ。
近づいては離れ、離れては近づく。そんな時間を延々と繰り返してみたい。
一目散に駆け寄って、総司に飛びついてみたくもある。
追いかけっこという遊びの中でなら多少大胆な行動に出たって不思議がられないかもしれない。
どさくさ紛れに手を繋いだり、抱きついたりしたって……きっと大丈夫なはず。
――千鶴は総司と手を繋いだり、寄り添っている自分を想像して頬を赤くする。…………すごく、素敵だ。

「千鶴ちゃん、いる?」
「きゃ、きゃあっ!」

妄想の最中、後ろからその対象の声がして千鶴は思わず叫び声をあげた。
いつの間にか裏手に回り込んでここまでやってきたのだろう、千鶴が眺めていた方向とは真逆の襖が開き、総司がひょっこり顔を見せた。

「土方さんに追われてるんだ。匿ってよ」
「は、はい、どうぞ」

千鶴が開けていた襖を閉めながら返事をすると、総司も部屋に入ってその襖を閉める。
いきなり部屋で二人きりになった千鶴はわたわたと慌てて、鼓動を早くさせた。
総司はそんな様子に目もくれず、千鶴に手にしていたものを押し付ける。

「これ持ってて。絶対渡しちゃ駄目だよ」
「え……?」

句集だった。
なにも考えずにそれを千鶴が受け取ると、総司は鼻歌交じりに千鶴の背後に回る。
その直後、例のけたたましい足音がこの部屋へと近づき、そして。

「総司、てめえそれを返しやがれ!」

襖が壊れんばかりの音を立てて開き、土方が姿を現した。
端正な顔立ちは怒りで釣りあがり、よほど全力疾走したのか息が乱れて肩が上がっている。
土方の目当てである“それ”が句集だとようやく気づいた千鶴は、思わずそれを投げ出しそうになる。
が、総司の「渡しちゃ駄目」という言葉を思い出してなんとか踏み止まった。
もしかしなくとも巻き込まれた。
こんなときどうすればいいのかわからず、千鶴は総司に助けを求めて振り返ろうとする。
だが総司に後ろからがっちりと肩を掴まれていて、方向転換できない。目を合わすこともできない。
おろおろとうろたえながら千鶴がまっすぐ前に視線を戻すと、そこには鬼の形相が待ち構えている。
最悪の状況だ。
ごくんと唾を飲み込んだ千鶴は、持てる限りの握力で句集を握り締めた。

「……総司」
「それって何のことです? 僕は何も持ってませんよ」
「そいつを巻き込むんじゃねえ。千鶴、さっさと渡せ」

総司が千鶴を盾にしながら土方をからかい、土方は総司を睨みながら千鶴へと手を伸ばした。
相手は新選組副長。それに千鶴が手にする物は彼の私物だ。
ここは素直に従い、返却するべきなのだろう。
しかし千鶴は土方への恐怖と、総司に触れられていることへの緊張で思考を激しく鈍らせていた。
びくびくと怯えながらも、総司からの言いつけを守るために果敢にも反抗の言葉を吐いたのだった。

「わ、渡せま、せんっ!」

ぎゅっと句集を握り締めた千鶴が宣言すると、場が静まり返った。
土方はハトが豆鉄砲を食らったような表情で固まっている。千鶴は恐ろしくて目をかたく瞑った。
その数秒後、千鶴の背後で総司が盛大に吹き出し、笑い出す。

「ぶっ、あっはは! 土方さん、その顔……!」
「――っ、てっめぇ」

頭上を総司の笑い声と土方の怒声が飛び交う。
千鶴はすぐにでも後ろを振り返って総司の顔を見ようとした。
なにせ今、総司はあの無邪気な笑顔でいるはずだ。
こんな至近距離でそれを見る機会などこれを逃したら次はいつになるやら。
――しかし千鶴は振り向けなかった。
総司が今も尚、千鶴の肩を掴んで土方の盾にしているのだ、一生懸命と首を回しても総司の笑顔は視界に入ってくれない。
悲しいことに千鶴の目前に広がるのは……鬼の形相の副長。


そうやって期待と現実の違いに心を打ちのめされているうちに、千鶴は土方に句集を奪還されてしまった。
土方が部屋を去り、総司が千鶴の肩から手を離した後、千鶴はすぐに振り返る。
でももう想像していた笑顔などなく、千鶴はしょんぼりと落ち込んだ。
渡すなと言われた物を簡単に手放してしまったこと、総司の笑顔を見れなかったこと、そしてやはりその笑顔は土方が引き出すものなのだと知らしめられたこと。
土方がすごい人だとはわかっているけど、現実を突きつけられると悔しい。

「そんな落ち込まないでよ、悪かったってば」
「……は、はい」

黙り込んだ千鶴を軽く励ますように総司が言った。
妬みにまみれた顔を見せたくなくて千鶴が俯いたまま返事をすると、総司は千鶴の頭を二度ぽんぽんと撫でて部屋から去っていった。

なんだかすごく悲しい気持ちになった。
総司がせっかく部屋に来てくれたのに何もできないまま終わってしまう遣る瀬無さ。
千鶴は小さく息を吐くと、自分の肩に手を置き、目を閉じた。




つづく
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2012.04.23

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