36.始動

「いよいよ明日、アガルトに着くんだね…」
「あぁ…」

 夜半。ゴルベーザとアンヘルはいつからか身に付いた習慣に従い、一つのベッドに窮屈そうに収まって、しかしそれでも満たされた表情を浮かべながら会話を続けていた。

「怖いか?」
「うぅん…あなたのほうが怖そうだよ」

 黙った彼が、抱擁の力をわずかに強める。

「そのように見えたか」
「ずっと考えごとしてるよ」
「まぁ…他に出来ることが少ないからな」
「あなたと戦った人に会うのは怖い?」
「……否定すれば嘘になる。だが怯えているだけではない。そなたがこうして隣にいてくれるからこそ勇気が持て、同時にそなたが傷つく可能性を考えて恐ろしくなる…」
「そう…じゃあわたし、けがして心配させないように気をつけるね。あなたもだよ?」

 無骨な手で後頭部や耳裏を撫でられ、アンヘルがくすくすと声を漏らす。しばしの間、そうやって戯れを繰り返す。
 やがて動きを止め、ゴルベーザは言った。

「アンヘル…この先は、こうして二人きりで過ごせる時間が減るやもしれぬ。そして、私はそなたの知らぬ"ゴルベーザ"として扱われ、私もそう振る舞うだろう……時には、そなたに対しても」
「…うん…いいよ、分かってる。だから、本当のあなたは"セオドール"だってこと、忘れないで。約束して」
「あぁ、約束する。…泣かないでくれ」
「……泣いてないよ…」

 沈黙。アンヘルが懸命に目元を拭う様を見なかったことにして、ゴルベーザは寝返りを打ち天井を向いた。すかさず彼女もごそごそと動き回る。彼の腕から抜け出し起き上がろうとしているようだった。

「ん…?」

 どうした、と尋ねる一言は喉の奥に飲み込まれていた。肩から寝具がするりと滑り落ち、大きな瞳を細くしてゆったりと微笑み彼を見下ろす姿。
 月明かりだけでなく、彼女自身が光を蓄え周りをふわりと照らし出す。その光は、この先彼女が何と出会い、誰と言葉を交わしたとしても、彼以外の瞳には決して映らない尊い命の輝き。
 衣擦れの音。眼下の顎を輪郭に沿って柔らかく包み込み、アンヘルが身を屈めた。長い髪が垂れ、二人を隠す。彼がそれを耳にかけ、後ろに流してやる。鼻先が触れ合う程の距離。

「大好きだよ、セオドール」
「あぁ…私も、そなたを愛している」

 はにかみながらもにこりと応え、それから再びかすかな物音を伴って元の位置へ戻っていった。たくましい二の腕に寄り添い、長く息をつく。

「おやすみ」
「おやすみなさい…」

 短い挨拶の後、少女はすぐに眠りについた。部屋は遠く近く響く波音に包まれ、うつつに残った男は静かに耳を澄ます。

「……」

 囁きが波音に混じって聞こえてくる。何度目か数えるのをやめた、虚しい自問。頭の隅に一つだけ存在する、あまりにも小さくちっぽけな砂粒。彼はそう形容する。
 …これはもしかすると夢ではなかろうか。
 本当はとうに命は尽きていて、今この時は…アンヘルと出会い、心を通わせ、笑い合った日々は、毒虫として死んだ自分へのせめてもの手向けとして造り出した幻ではなかろうか。

(いいや…それは違う)

 しかし、一度目からここに至るまで、答えは必ず同じだった。だから、虚しい。
 それでも問いを繰り返し、その度に否定しなければと思う。
 いつか、この行為を笑い飛ばせる日が来るまで。砂粒が溶け、孤独の砂漠へ還っていく瞬間まで。

*

 最後まで滞りなく海を渡りきった船は無事到着し、ゴルベーザたちはついにアガルト島に降り立った。

「…わぁ、まだ足元がゆらゆらしてる」

 アンヘルの呟きに近くの船員が笑う。唯一の女性であり、またまだあどけない雰囲気の残る彼女を海の男たちはずいぶん可愛がってくれた。今も土産にと、商品であるはずの荷の中から何でもかんでも引っ張り出そうとして人だかりが出来始めている。
 しかし、突如。ゴルベーザがそろそろ断りを入れようと動くとほぼ同時だった。
 どん、と大地が縦に揺れる。ざわつく人々。危機を感じる程ではないものの、それでも規模の大きな地震だった。
 すかさずゴルベーザはアンヘルの元へ走り寄る。船員たちに支えられている彼女の手を引いた。

「これ、何…!?」
「地震だ。私から離れるな」

 木々がばさばさと小刻みに震え、波が不規則に立ち、船体を右へ左へと傾けている。
 その異様な光景にアンヘルは呼吸を止め、彼にしがみついた。しかし、直後に伏せたばかりの顔を上げた。

「…!」

 遠く一点を定める視線。ゴルベーザもそれに気づく。ようやく揺れがほとんど微弱なものまでおさまったが、彼女はまだ彼方を見つめ続けていた。

「いやぁ、長いなこれは。嬢ちゃん、大丈夫だったか?」
「……」
「嬢ちゃん?」
「初めての地震に驚いてしまったようだ。落ち着くまでそこの小屋で休ませてもらうぞ」
「お、おぉ…。余震に気をつけろよ。また揺れたらすぐ外に出るんだぞ」
「うむ。さぁ、アンヘル…」

 彼女の背を押し、何とか歩かせて小屋を目指す。戸を閉め外界を遮断して、ようやく場所を移したことを把握したようだった。
 意識を奪われた原因はゴルベーザにも察しがついていたが、改めて聞く。

「気になることがあるのか?」

 原因とは、濃い魔力の気配。先の地震も人為的に引き起こされた可能性が高い。
 しかし、アンヘルはその予想以上の返事を口にした。

「セオドール…いるよ…この先に、幻獣がいる…!」
「何だと…!?」
「わたし、分かる。この力、あの白い竜と同じなの」
「そうか…例の召喚士が呼び寄せたのかもしれぬな」
「ほんと…?でも…何だか変。上手く言えないけど、すごく、変なの…おかしいの…!」
「大丈夫だ…まずは落ち着きなさい」

 しっかりと瞳を覗き込み、彼女の両肩に手を添えた。数度深呼吸。再び顔を向けた彼女が一つうなずく。

「ん、ありがとう。もう怖くないよ」
「うむ」
「怖くない、けど…えっと、一度、ぎゅってしてほしい」

 互いに表情を緩め、固く抱擁を交わす。それはいかなる時も離さないという誓い。或いはたった二人きりの世界からの決別。しかし、希望に満ちた一歩。

「さぁ行こう。行って確かめるのだ、この目で」
「うん!」

 扉を開き、彼らは揃って踏み出していった。



あとがき




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