人類は巨人に支配されていた忌まわしき歴史があった。
人類は巨人の脅威から逃れるため、壁に閉じこもりそこで繁栄を繰り返して100年の安寧を保っていた。
しかし、その安寧は長いこの歴史の中ではほんのわずかの束の間の楽園であったことを後に知るのだろう。
その壁の一番奥にあるウォール・シーナに囲まれた華やかな王都を囲むようにひっそりと存在している広大な居住空間……それが地下街。
人類が巨人に支配され始めた頃に作られた人類の平和な移住先だった。
しかし、移住は廃止され廃墟と化した地下はやがて貧しい者や、犯罪者の巣食う危険なスラムと化していた。
その中で人間が生きてゆくのは過酷を極め、男も女も子供でさえも危険な場所と化していた。
この前まで会話していた人間も無残に殺される。盗み、殺し、暴力、強姦、全ての醜悪がこの地下街には密集していた。
生き残るためには、自らの持てる力の全てで生きてゆくしかない。
殺伐した日々に世界がこんなにも美しい事も、人を愛し愛される幸せがあることも知らないままだった。
それはまだ過去の話。男と、少女が出会うよりもっと前の話。
***
――逃げたか、何処に行った。
流れる血が点々と辿る先、息を乱し、腹部を押さえつけていた手は赤く染まっている。隠れるように木箱の影に凭れ、とうにその灰色の瞳は正気をなくしている。この街は、穢い。人も、世界も。
こんな汚い世界の終わりで自分は死んでゆくのだろうか。
「ダセェ」と、そう一言吐き捨てた。
いつも通りビルのように背の高い男に教えられた処世術を行使したのに。どんな体格の男だろうが負け無しの少年。
しかし、今回ばかりは運が尽きた。余程相手が悪かったらしい。今回狙った相手は無駄に背が大きい細身の男。しかし、どんな体格差があっても自分には関係ない。ましてこんな細身の男。首元へ、このナイフを突き立てるだけで、いつも通りに終えるはずだった。
しかし、その男は自分よりも何倍もこの街を生きてきたかのように。簡単にナイフを自分から奪うとそのまま容赦なく刺してきたのだ。
「いきなり何すんだよ、危ねぇな」
刺された傷が痛み、もう満足に動くことも出来ない。
かつて自分の母もそうだったのだろうか。記憶の片隅で病に伏せそして衰弱してゆく母を見つめながら自分は何も出来ぬまま、ただ、冷たくなってゆく美しい母がどんどん変わり果て朽ちてゆく姿をただ黙って見つめていた。恐ろしさを覚えた。縋り付いても枯れてゆく花のように。
この世界の美しさよりも残酷さしか知らぬまま太陽の光さえも浴びず一生をこんな地下で終えるのか。しかし、もう動けない。ああ、自分はもうすぐ母親と同じ場所へ向かうのだと、深々と刺された傷口から流れる血からそう実感させられる。いつからだろう。最後にもう一度だけ望むのなら。握りしめたボロボロに欠けた刃も手から離れてゆく。そう、これ一本で奪い、時に生きてきて。気付いた時には・・・
「お、見つけたぞ。」
目の前に居たのは紛れもなく。
飢えを満たすためにしくじりそしてどこまでもしつこく追いかけてくる影。簡単に捕まり浮かび上がる身体はあまりにも軽い。拳を振りかざし、地面に崩れ落ちた肉体は軽々と弾き飛ばされる。
「おい、やべ、やりすぎたか?? 生きてるよな?」
ぺちぺちと叩く頬、混濁した意識が淀みながらも男はそれでも簡単には死なないらしい。この穢い世界で尚も息を保ち続けている。
地面の汚水を啜りながらも男は自分を見上げる男を睨みつけた。その鋭い一睨みに通常の人間ならば竦み上がる程に恐ろしく迸る殺気。しかし、男は子供とはかけ離れたその殺気に決して動じることもなく。ただ、屈託のない笑みを浮かべた。
「あのな、人ン家さ入るならよ、お邪魔しますくらい言えって。覚えておきな?」
「……や……る……」
「聞こえねぇな。おい、お前……幾つだ? まだ、子供……だよな? お母さんは? お父さんは? ウチはどこだ? てか、名前は言えるか?」
沈黙を貫きまた殺そうと傍らのナイフに手を伸ばしてそう、言いかけた時、今度は男の踵が飛んだ。
声音は少年に接しているから優しいのにギリギリと踵が背中に食い込む痛みと力は容赦なく、栄養失調で弱りきった少年の肉体にダメージを与えた。痛みに堪え少年は苦しげに唯一与えられたその名を忌々しげに赤の混じる唾と共に吐き捨てた。
「そうか、」
唯一、その名だけを与えられた少年が苦しげに吐き捨てた時。男は何かを思い出したかのように静かに瞳を閉じその名を噛み締めるように反芻した。
立ち上がるとビルより高い男は小柄な少年を簡単に担ぎあげた。
「俺に捕まってろ。安心しろ……さすがに今にも飢え死にしそうなガキを殺しはしねぇよ」
栄養失調寸前の傷ついた身体を抱き上げる。名乗った少年。後に変革の一翼としてその背に自由の翼を背負い、最前線に立つ男。そして、
「俺、カイトって言うんだ。ま、ここで逃亡生活してたんだけどな。くれぐれも通報すんなよ、よろしくな」
それが後に人類最強と呼ばれるこの壁の未来を背負う変革の一翼となる男と、そしてこの世界の真実を知る、知りすぎた事で自らの忌まわしき運命に抗うために戦い続ける奇妙な名前を持つ、優しい瞳の色を持つ男との出会いだった。
少年は男の元で怪我の治療と食事と温かな寝床を与えられ、瞬く間に回復し、そのまま成り行きで男の家で寝食を共にするようになっていた。
過去、確かに飢えた自分を拾い、ナイフ1本で生き抜く術を説いた男がいたが、その男は自分が初めて自分よりも遥かにデカい大男にのしかかり殺しを遂げたのを見るなり満足したかのように姿を消してそれきりだったから。
「お前、若いのにナイフの扱いは1級品だよな。俺も危うくお前に殺されかけたもんなぁ……首の動脈を一突きだもんな。おー怖い怖い」
「お前は落ちてるモン手当たり次第に何でも武器にしやがる癖に……この世界は殺られる前にこっちから殺る。じゃねぇとここで生きていけねぇ。」
「お前はまだ幼ねぇのによく分かってらっしゃる。」
「うるせぇ。俺はもうガキじゃねぇ、女も知ってる」
「は?? えっ、お前今幾つだよ!? まだガキじゃねぇか!! 俺ですら15の時だってのに!!」
「うるせぇな、お前の話は聞いてねぇんだよ」
もう1人のこの男は自分自身や部屋を清潔にする事。そして女への接し方、殺し以外にこのナイフが役に立つことも教えてくれた。
みるみるうちに栄養を摂取し復活した少年は前よりもナイフの腕もあの男に教わった頃よりもだいぶ研ぎ澄まされ、少しずつ成長と共に自立して生き抜く基盤を立て直していた。
「なぁ、お前は地上に行きたいとか、思ったりしねぇのか?」
まだ未成年である少年に男は問いかける。
少年も男との暮らしで少しは喋るようになっており、沈黙が多かった前よりも言葉も増えてきていた。
ボキャブラリーが増えたのも何かとお喋りなこの男と行動を共にする間に芽生えたものだ。
「そうだな。俺はここの世界しか知らねぇからな。貴族はさぞいい暮らしをしてるんだろうな。いつか自力でこんな所、抜け出してやる」
「そうだな。お前、強いし、今は無理でもそのうちきっかけがあれば出来るだろうよ。じゃねぇと成長期なのに太陽の光浴びねぇままこんな薄暗い地下で居たら栄養どころか育つもんも育たねぇぞ。もったいねぇ。やっぱ太陽の光は大切だ。それに、貴族って金持ちからなんちゃって金持ち、下手したら隠れ貧乏とか、んなイイもんでもねぇぞ? 好きな女と添い遂げられないだろうし、お前も地上に出てマトモな人間と恋愛しろよ、」
「オイ……。時々思っていたが、てめぇ、やたらと貴族に詳しいな。口調も無理やり直した感があるが、元貴族か?? どんな事情があってこんな地下で暮らしてんだ」
「……ははっ、お前、ほんとに未成年のガキかよ? 流石に地下街で長年一人で生き延びてるだけあるな。」
「お前……没落貴族かよ、何をやらかした?」
「……ちょっと、な。あーダメダメ、それお前に話したらお前も重罪になるから教えられねぇな」
そう、地下街に紛れ込んでも押し隠せない品と高貴さが確かにこの男からは感じられていた。口調は同じく自分と同等かそれくらい悪いが、困っている人やなかなかお客さんを取れない娼婦の話し相手になってやったりと、彼の人柄は周りの人間にも一目置かれていた。
***
男との奇妙な生活もそれから数年間、ここは時間も季節の流れも肌で感じることは出来ないが、2人の奇妙な生活が恐らく1年か2年か。
しばらく続いたある日。2人で頼まれた依頼を終えた後、その後に憲兵団に通報でもあったのかは知らないが、2人の拠点の店が見つかり、そのまま互いに捕まり囚われた。
「逃げろ……狙いは俺だ。俺は追われてるからな。それに、お前ならひとりでも逃げられるだろ?」
「馬鹿言うな。お前を残して逃げられるかよ」
「あ? いいんだよ。お前はガキなんだからよ、」
「うるせぇよ。俺は……もうガキじゃねぇ」
背中合わせの血だらけの2人。縄で縛られ柱にくくりつけられてい縄を隠し持っていたナイフを手渡すと逃げろと逃走を促していた。
「(じゃあな。達者で生きろよ。リヴァイ)」
まるで、抱けなかった息子を思う父親のような温かな温もりと優しさを持つその眼差し。もう二度と見ることは無いのだと悟ると再びナイフを手に地下の街へと消えていくのだった。
「(お前は、強い……。だから。人殺しなんかよりもいずれ、その力をもっと他の事に使えるはずだ、もっと、世界さえも変えられるような、大きな力だ。それに、マトモに人を愛せる事が出来れば、もっとお前は強くなれるだろうな……)」
−iris küssen Leviathan−
それは儚くも美しい伝承歌の一節。
人はただ舞台に立つ役者で交代の時が来れば降りるしかない。
2018.09.24執筆
2021.03.12加筆修正
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