THE LAST BALLAD | ナノ

#44 絶望の日が沈むその前に

 兵士と戦士の狭間で揺れ動くライナーの不安定な心を目の当たりにし、エレンは怒りを露わにするが、今ここで過去の事を互いにいつまでも言い合い責めあっていても今更もうあの平凡で退屈だが、今となってはかけがえのなかった日々はもう帰ってこない。ユミルは静かにエレンに言い聞かせるように呟いた。

「頼むぜエレン……。そんなガキみてぇなこと言ってるようじゃ期待できねぇよ」
「……ぁあ? 何がだよ……」

 エレンはまだ気が付かない。この壁の世界の崩壊のカウントダウンはこうしている間にも静かに足音を立てて歩み寄ってきている事に。
 この現状を打破する頼みの綱である唯一壁を塞ぐ手段を持つエレンが目の前の敵だけを倒せばいいと思っている。が、決して目の前の2人を葬ればいいのではないとユミルは伝える。敵はそれよりも強大である。そう、昨夜見かけた全身獣の体毛に覆われた巨人、まるで王者のような貫禄さえ抱かせたあの巨人だ。

 訝しげに眉を寄せる2人への言い知れぬ怒りを露わにするエレンの剣幕に、ライナーも同じく言い返しながら話は互いのいがみ合いへと進展し、怒鳴り合う2人の会話が耳に痛い。いつまでもいつまでもここで言い合っていても埒が明かない。ユミルはこの世界の残酷さを、今この壁の世界が置かれた現状の醜さをエレンは未だ知らないと、エレンが目先の2人の事だけ見ていることに対して警鐘を鳴らし、そして問いかけた。

「なぁライナー。あの「猿(さる)」は何だ?」
「(さる??)」

「猿(さる)」全く聞き覚えのない単語にウミもエレンも遠巻きに顔を見合わせお互いに首を傾げた。当たり前だ。この壁の世界には猿(さる)と名のつくものは存在しない。博識なアルミンは知っているかもしれないが今ここにはいない。
 その意味を知る者はこの壁の世界の人間ではない。その中でユミルは確かに言ったのだ「猿(さる)」と。その言葉にライナーが目を見開いた。

「猿? 何のことだ?」
「ん? 知らなかったのか? その割には、あの時のお前ら二人して……ガキみてぇに目ぇ輝かせて見てたよな? あの猿(さる)を…」
「…? 何だ「さる」って?」

 遠回しに向かいのウミは会話を耳に挟みつつ目を向ける。今か今かと奪取の好機を窺いながら。今のうちに忍び寄り自分1人で2人を纏めて倒せるだろうか。それにユミルは一体どっちの味方なのか、そこも怪しい。彼女もまさか未だ決めかねているのだろうか?どっちに付けば自分の命は…そして、クリスタを守れるのか、と。
 兵士と戦士の狭間で崩壊したライナーの精神の危うさにエレンは怒りをぶつける中でウミは思案しながらもエレンに落ち着けと口パクで促す。怒りで完全に我を失ってはいけない、まずは声が出ないのはもう仕方がない、この状況を何とか打破し、エレンを宥めて脱出しなければ…。どちらかから立体機動装置を取り返すのだ。

 ――「ウミ、お前は目的を果たそうと自分の命を顧みねぇ傾向がある…、お前が死ぬことは許さん、何としても生きて務めを果たせ」


 ウミはナイフを強く握り締め決断する。このナイフ1本でどこまで立ち向かえるだろうか。この残酷な世界を嘆いた父親の遺した教えを忠実に守り、そしてリヴァイに救われて今この命がある。エレンを連れて必ず帰る。一度離れた彼の為に何としても今度は約束を果たすのだ。

「……まぁ聞け。その「猿(さる)」って「獣の巨人」が今回の騒ぎの元凶だよ。壁の中に巨人を発生させたんだ。目的は威力偵察ってところかな? こいつらが目指してんのもそいつの所さ、そいつを目指せば、お前らの故郷に帰れるんだろ?」
「お……お前……知ってんのかよ、何を知ってる!? 知ってること全部話せ!!」
「待てよ…私にも色々都合があるんだから」
「何だよ都合って!!」
「エレン。あの2体をやっつけて終わりだと思ってんのなら……そりゃ……大きな勘違いだ」
「……はぁ??敵は何だ!?」
「敵?そりゃ言っちまえばせ―「ユミル! お前はこの世界に、先があると思うのか?そこまでわかってんなら身の振り方を考えろ。お前次第ではこっち側に来ることも考えられるだろ?」
「信用しろって? 無理だな!! 信用できない!!」
「いいや、信用できる。お前の目的はクリスタを守ることだろ? それだけに関して言えば信頼し合えるはずだ! 冗談言ってるように見えるかもしれんが、クリスタだけは何とかしたいという思いを……俺達が受け入れられないと思うか? それとも俺達よりもエレンの力の方が頼りになるのか?」
「は!?」

 エレンが慌てて振り向くと先ほどまで口を開こうとしていたユミルはライナーの言葉に何かを考えこんだように黙り込んでしまった。

「お前はエレンを利用してここから逃れることを考えてたようだな。俺らに連れて行かれたらまず、助からないと思ったからだろう。正直に言うがその通りだ、俺らに付いてもお前の身の安全は保証されない。だが…クリスタ一人くらいなら俺達で何とかできるかもしれない。自分の僅かな命か…クリスタの未来か…それを選ぶのはお前だ」
「(…この世界に先が無いって?何だ……? 「さる」って何だ、どういうことだ…?)オイ!? おい言えよ、敵の正体は!? ユミル!!」
「…さぁな…」

 交渉決裂だ。クリスタの笑顔に揺らいだユミルは先ほど言い掛けた言葉を沈黙に変えて素知らぬふりをしたのだ。エレンは悔しげに顔を歪めるしかなかった。

「決まりだ。残念だったな」
「(チクショウ、ユミルの奴ここに来てそっち側に着くなんて。あと一時間もすれば日没じゃねぇか)」

 ユミルは言い掛けた言葉をはぐらかすかのように、知らぬふりをし、そして。ライナーはユミルを見事にこちら側に優位になるように味方させたのだった。
 万事休すだ、エレンもウミも頭を抱えた。二対三だと思っていたが、どうやら分配はあっちが優勢になった。ライナーの悪魔のような優しい正論にクリスタを救いたいユミルはエレンではなくライナーたちと共にする道を選択したようだ。
 エレンは未だ手足が再生していないがユミルはどうやら完全に欠損していた先ほどの手足が再生したようだ。
 この壁の窮地から脱するにはクリスタとエレン、どちらも欠かせないのにー…。このまままどちらも失うわけにはいかない。ウミは静かに拘束から抜け出し木の枝へと着地した。

 敵対してしまったのなら仕方あるまい。ユミルの方が回復が早くエレンはライナーと激しい肉弾戦を繰り広げ暴れまわったが為に体力を大幅に消耗し今も回復していない。だからこそこの場からの逃走に巨人化ユミルの能力をぜひ借りたかったが、どうやら無理そうだ。
 更に、
 ユミルの脳裏にはクリスタの笑顔が浮かんでいて、それだけが今のユミルにとっての。
 ウミにとってのリヴァイの存在がそうであるように、ユミルにとってもクリスタは絶対的な存在なのだ。その気持ちは分かるがそれは未だこちら側にいるクリスタ側についてほしかった。
 やはり、一人で戦うしかないのか…ウミが諦めたその時、森の向こうの平原から見慣れたオレンジに暮れていく夕焼けの空に映える鮮やかな緑の信煙弾の軌跡が立ち昇ったのだ。

「…ん?」
「ベルトルト」
「あれは……信煙弾!? 調査兵団が……もう!?」

 陽が沈むごとに悪化する状況と共にこうして日没が迫る中でライナー達のもとにエレン奪還を目指しこちらに向かって駆けてくる調査兵団の信煙弾の合図が見えた。

「(よかった……助かった……!)」

 恐らく待機していたエルヴィンが動き出したおかげで準備がスムーズに行われ、そして間に合ったのだろう。ようやく来てくれた調査兵団に安堵しつつ、ウミはとうとう行動に出た。
 少しでも足掻いて何とか調査兵団がここに来るまでの時間を稼ぎたい。
 ならばその役目は自分だと。
 声が出ない以外は動けるし、支障はない。

 こんな10代の子供に大人である自分がそう易々と負けるつもりはない。戦士だかなんだか知らないが、今まであらゆる困難も危機もすべてこの身一つで潜り抜けてきたのだ。

 拘束するならまずは裸にひん剥いて逃げられなくすればよかったのに。もし自分が敵なら、そうした。

「ライナー、さっきから気付いていたか?」
「何だ、お姫様はもうお目覚めか……」

 が、それを目ざとくさっきから見ていたユミルは早速裏切り者らしくライナーとベルトルトに告げ口したのだ。それはウミがただの平和な世界で暮らしてきた女性ではないことを盛大に皮肉っているからなのか。

「ベルトルト!! ウミを押さえろ!!」
「でも……ライナー、君は……!」
「心配するな! 今の俺は戦士だ!」

 ナイフがライナーの鍛えられた逞しい肩に突き刺さるギリギリのところで綺麗に避けられ、虚しくそのまま木に刺さった上にライナーに奪われてしまった。

「(ユミル……!! あああ、もう!! あと少しだったのに。まさかこんなタイミングで……裏切るなんて!)」

 クリスタなら調査兵団の総力を挙げて守るのに…。ナイフを投げた勢いでこちらに向かって勢いよく飛び込んで来た小柄なウミを大柄な体躯のベルトルトが抱き込むようにを捕らえようとするが、拘束が解けたウミとまともに戦うのは危険だ。必ずやエレンと共に帰る。彼の待つ場所(トロスト区)まで。交わした約束が、そして「生きる」という意思は何倍も強く膨れ上がっていた。
 火傷で声が掠れて出ないが、全身の外傷は見た目よりそんなに大したことはないのか何とか動ける。
 立体機動装置を奪われた場合を想定した訓練なら幾度も受けてきた。苦しくて辛い訓練も耐え抜いてきた。そしてあの地下街での壮絶な暮らしに比べればでどんな危機も可愛いものに感じる。
 立体機動装置のない地下街での暮らしを思えばこんな状況何とも思わない。

「(まずは図体だけのベルトルトから仕留めよう…! 巨人化出来ないなら脅威じゃない、人質にしてなんとか形勢逆転だ…!!)」

 ウミを捕まえようと迫ってきた図体ばかりのでくのぼうの印象のベルトルトの足の間をすり抜け、彼女は渾身の力で足払いを見舞おうとそのままベルトルトの足に滑り込んだ瞬間、あっという間に立体機動装置を装備したライナーの膝が眼前に飛び込んで来た。

「ウミ!!」
「(っ……駄目だ、避け切れない!!)」

 切羽詰まったようなエレンの声が響くが、もう遅い。ウミの顔面にライナーの膝蹴りがゴン!と鈍い音を立てて命中した瞬間ウミはその勢いで木の上で上半身を仰け反らせそのまま停止した。

「……、はっ…ああっ!!(っ、鼻、何が……今、私……)」

 声なき声が苦悶に呻く。電のような白い閃光が一瞬視界を奪う。ウミはライナーの堅い膝に鼻を強打し、ジン…とした痺れに鼻を押さえた。焦げ臭い鼻の匂いが充満する中でポタポタとした熱い何かが手の中に流れ込んでそれを振り払った。
 こんな時に鼻水を垂らすなんて…拭った手を見てみるとそれは、透明ではなくどす黒い赤だった。

「ウミ!!」

 悲痛なエレンの叫びが森中に響き渡った。このままでは目の前でウミがやられてしまう。急いで助けに行きたいのに今の両手のない自分ではどうすることも出来ない。
 鼻を押さえながらも鼻を強打した衝撃で太い血管をやられたのかもしれない。次から次へとボタボタとおびただしい量の鮮血が止めどなくあふれて止まらない。
 ウミの両方の鼻からドクンドクンと心臓があるかのように痛みが増して、鼻呼吸をする間もなくどんどん流れ出して白のリブニットを汚し、ウミはそのまま顔面を押さえガクリと膝をつきかけたその瞬間、躊躇いながらもライナーが自分を押さえようと殴りかかってきたのだ。
 拳を寸前のところでギリギリ避けてウミも鼻の血を拭うと負けずにライナーめがけて蹴りを見舞った。

「やれ! やっちまえ!!」

 興奮したようなエレンの声に煽られながらウミは果敢にも無謀にも取れる動きで真っ向からライナーに抗った。

「やめろウミ! こんな木の上で暴れたら……頼むから大人しくしてくれよ!!」

 不安定な木の上での格闘戦はかなり危険だ。分かっているからこそなんとか彼を拘束しなければと抗うが、膝蹴りを顔面に食らった深刻なダメージにふらふらとよろけそれでも木を蹴り飛び上がりながら空中で繰り出したウミの飛び膝蹴りは避けられ、その先で待ち受けていたベルトルトにとうとう捕まってしまった。

「ウミ! いい加減にしてくれ…!」
「(っ動けない……なんて力……精神的に幼いくせに力と図体ばかり先にでかくなって!!こんな子供相手に負けるなんて……!!)」
「お前ら……!! 女の顔を殴るなんて最低だな! 死んじまえクソ野郎!」

 ウミを拘束された怒りにエレンが反対側にいるライナーとベルトルトにたまらずそう言い放って止めようとするも、ウミは木の向こう側で立体機動装置を奪われ腕のない自分はただ暴言を吐く事しか出来ない。そのままベルトルトの膝元で屈服し取り押さえられてしまう。両腕を再度拘束され、ナイフもライナーに奪われて悔し気な顔がベルトルトを睨みつけながらウミは鼻を木にこすりつけるも出血は止まらない。ライナーは押さえつけたウミに静かに問いかけた。

「なぁ、ウミ。ひとつ聞きてぇんだが…お前の父親って調査兵団の元副団長だったんだよな?」
「…、(何で…いきなりお父さんの事を…)」
「ああ、悪ぃ、喋れねぇんだよな。無理して喋ると辛いか。
 ならこうしよう、今から質問するからもしそうなら俺の手を握れ」

 襟首を掴まれ半ば引きずられながらウミはこくこくと頷く。もし正直に答えなければこの木の上から容赦なく突き落とすつもりなのかもしれない。
 ウミは静かにライナーの武骨で大きなその手を握り返した。

「父親の名前は? カイト・ジオラルドで間違いないな?」
「(ジオラルド?? 私の名前……私のファミリーネームは……)」
「ウミ?」
「……(お父さん、お母さん、私のフルネームって……何??)」

 突然ライナーが口にした父親のフルネームにウミは一瞬、それは誰だと思ったが思い出したように瞳を伏せる。いちいち父親の名前なんか気にしたこともなかった。だって父は父だから。
 お父さんと呼べばお父さんと答えてくれた。調査兵団のみんなは父の事は「副団長」だったし、母親の事は「兵士長」だった。

 優秀な両親と違い何者でもない自分はただのウミだと、だからファミリーネームは知らなくてもいいのだと大好きな父親がそう言うのだから、今まで自分はフルネームの事で悩むこともなく疑うこともなく「ウミ」と名乗り、この半生を生きてきた。
 ウミはライナーの大きな手を握り返さずに沈黙した。
 リヴァイとは骨格も体格も違う厚みのある大きな体躯、そしてこの大きな手は自分達と同じ温もりを持っているのに、この手が自分達の故郷を奪ったと思うと精神的にも不安定な彼が何を考えているのか不安に駆られた。

 どうしてライナーが父親の名前を知っているの?むしろ逆にこちらが聞きたいくらいだ。心臓が早鐘を打ち、ライナーに握り締められた手からは冷汗が浮かぶようだった。

「おい、質問を質問で返すな。そうか、本当に…父親については知らないみたいだな、もう死んじまったんだもんな……」
「ライナー……ウミはどうするの?」
「いや、あの人に確認する必要がある、まだそれまではウミを始末するわけにはいかない、生かしておかないと」

 父親の名前なんて、知らなかった。自分の姓は別に知ろうとも思わなかったし、もし結婚するときに戸籍を取り寄せればいいと思っていた。

 ――「リヴァイだ」
「リヴァイ……さん? リヴァイ、だけ?」
「ああ、」
「ただのリヴァイさん、私もただのウミだよ」

 遠のく意識の中で微かに思い出すのは、脳裏を占めるのは彼だけだった。
 もう自分には彼しか居ない。故郷も両親もみんな死んでしまい、自分を繋ぐのはリヴァイの存在だけ。リヴァイもそういえばそうだ。自分の名前は「リヴァイ」だけだと言っていた。
 ただの名前だけ。だけどお互いに言及もしなかった。本当にただの名前だけを教え合った。
 一緒に居られるのならファミリーネームなんか必要ない、名前だけでよかった。
 お互いにいつも傍に寄り添いあってそして、今もこうして…。
 しかし、本当に戸籍の意味で結婚するなら家族になるなら正式に届け出を提出しなければならない。地下街で生まれ育ったリヴァイには戸籍がそもそも存在するのだろうか。それに、どれだけお互いの事を理解しあっても、2人は肝心の本当の隠された名前を知らなかった。

 ライナーはウミが聞きたい言葉には答えず、そして彼もそれ以上は聞いてこなかった。何故自分がわからなかった父親のファミリーネームを知っているのか?と、もしかしたら名前だけで他人の空似の勘違いかもしれないと思いながら。
 それにしても鼻の出血が止まらない。もしかしたらさっきの衝撃で鼻の骨が折れたのかもしれない。ミカサやクリスタのように人目を引くような華やかな容姿ではないが、それでもこんな自分を彼は愛してくれている。兵士長として多くの女性から羨望の眼差しを浴びる彼と少しでも釣り合いたくて身辺は小綺麗にしていたいとそれは思うだろう。
 しかし、今、鏡はないがきっと酷い顔をしているだろう。声も出ない、鼻もひん曲がり、もう女としても完全に終わった。

「やはりそうか……それなら……間違いない、ウミは」
「そんな……じゃあどうするんだよライナー、ウミまで連れて行くなんてさすがに無理だ……」
「いや、ウミもひとまずは連れていこう。どうせ今の状態では何も出来ないはずだ。腕でも縛っておこう」
「……(やめてよ……何で……どうして……嘘だよね、嘘だ……お父さん、お父さんは一体何をしたの??お父さんは壁の世界の人間じゃないの??)」

 ウミは突然何故この二人が自分の父親の事を聞いたのか全く分からず混乱した。何故、今は亡き父親の話題が出て来るのか。しかも全く父親とかかわりのないこの二人が。嫌な予感が脳裏を駆け巡る。
 しかし、抗おうにも力が入らない。乾いた咳をし、顔面から鼻血を流しながらただ悔やむしかなかった。
 奪われた故郷への無念を晴らしたかった。こいつらによって殺されと言っても過言ではない母やカルラ、故郷の者達。当たり前だった平和な日々。美しい空も。当たり前だった平凡な日常を奪い返したかったのにどうすることも出来ない。
 幾らウミが鍛えていても強くても、翼が無ければどこにも行けない。
 地下街で思い知ったはずだ。男の力では所詮非力な女でしかない自分はかなわないのだと。
 悔しさと悲しさに入り混じる顔を悲痛に歪めながらウミは屈するように頭を垂れてだらだらと鼻から流れる血を見て、後ろ手に拘束された両腕を使えず悔しそうに木に額を打ち付けて俯くしかなかった。

「ライナー……! 戦士としてユミルを信用するというの? あいつは……マルセルを食ったヤツじゃないか」
「……あぁ、だからこそユミルの立場は明白だ。せっかく人間に戻れたんだ。上手に立ち回って自分だけは生きたいと思っただろう。クリスタと出会うまでは…それにクリスタがかわいいってこと以外にもこっち側に連れて行きたい理由はあるだろ。訓練場をうろついていた奴をアニが尾けて調べたことがあったろ、クリスタはウォール教の一族の重要人物だ。つまり俺達の探してる「座標」が…エレン自身でなければ俺達の任務はまだ終わらない。そんな時にクリスタがいれば今よりずっと探しやすくなるはずだ」

 その時、上空を今度は調査兵団の壁外調査において巨人遭遇を知らせる赤い信煙弾の煙が立ち上る。
 それは先ほどよりも近い場所で撃ち上げられ、壁の中の人類にとっても重要な存在のエレンを奪い返すべく調査兵団の決死の猛追が迫っていることを示していた。追う者の必死さはすさまじい。間違いない、彼らは何としてもエレンを奪い返そうとしてくるだろう。
 エレンは様子を窺いながら2人が思った以上に早く調査兵団達が迫っていることに焦っているようだった。

「近いな、」
「……もう、終わりにしよう……今度またここに来る時は……アニとクリスタとそれを持って故郷に帰ろう。そしてもう二度とここには来ない」
「あぁ……それで任務はすべておしまいだ。ただ……お前は、故郷に帰ったらアニに自分の思いを伝えろ」

 ベルトルトの肩にポンと手をやるライナーがそう告げるとライナーは一人淡く秘めていたアニへの恋心を見抜かれ夕闇よりも顔を赤くしていた。ベルトルトこの壁の世界に来る前からずっとアニの事を思っていたのだ。しかし、彼がアニに思いを寄せていることは訓練兵団時代からわかりやすいほどに明白だった。

「は……!? な……何を!?」
「見すぎだ。俺じゃなくたってわかるくらいな」
「イヤ、僕は……」
「いいじゃねぇか。先の短い殺人鬼同士だろ? こんなの俺達以外に誰が理解し合えるっていうんだ」
「(そういう事か……じゃあこの二人はアニが今どうなっているのか知らないのね……)」

 ウミは拘束されながらそのままベルトルトに担がれた。何をするの?なんてよくは分からないが彼らは自分も連れて行くつもりらしい。
 父親の件で話があると。何故もう五年以上前にすでに亡くなっている父親の事で確かめたいことがあると言うのか。
 しかし、ここで逆らえば命はない。声も出なければ鼻もまだ出血しているこの状態で逃げようなんてもう考えが浮かばずどうにか調査兵団がここまで追いついてくれることを今は悔しいが今の自分はそれだけを願うばかりだった。
 ライナーがアンカーを射出し、エレンとユミルの待機する木に飛び移ってきた。

「何だよライナー。まだ夜になってねぇぞ?」
「イイヤ、もう出発だ。エレン、無駄な抵抗はするなよ」
「なぁ、乱暴なマネはよしてくれよ。オレはこんな状態なんだぞ?ウミも人質に取られて抵抗なんかできるわけないだろ? なぁ……頼むよ……」

 じりじりと歩みよってくるライナーに怯えたようにうすら笑いを浮かべて後ずさるエレンは抵抗の意思は無いのだとまだ完全に生えていない両腕を上げる。そのままライナーが近づいたその瞬間だった。

「おら!」

 エレンは油断したライナーに向かってまだ生えていないその腕を振りかざして殴りかかったのだ。エレンが素直に懐柔するわけなんかないのに。

「死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」

 馬乗りになり、これまでの恨みを込めて何度も何度も殴りつけるエレン。しかし、殴られたライナーは普段の実力以下のエレンの打撃など痛くもかゆくもない。思いきりエレンを蹴り飛ばすとエレンはそのまま仰向けに倒れ込みライナーが関節技を使って押さえ込んでしまう。

「殺す! ぶっ殺す!!」
「オイ、何でもう行くんだよベルトルさん」
「ユミル……君は人間に戻る時、誰を食ったか覚えているか?」
「いいや? 覚えてないが……でも、ちょうど5年前ってことは……お前らの仲間だったのか? そうか……すまないな。覚えてすらいなくて」

 エレンは抵抗しようとガツガツと手を噛むがまだ完全に生えていない手の先を噛んでも巨人化の反応は見られない。悔し気に暴れるが屈強な体格の彼にはかなわずだんだん意識が遠のいていく。
 その合間にベルトルトはユミルに静かに話しかけていた。相変わらず何を考えているのか大人しそうな顔をしてこの壁を破壊した極悪人をウミは睨みつけながらも抵抗せずにじっとしていた。
 それでも兵士らしく小柄なウミは荷物にもならないのか軽々と片腕に抱えている。

「覚えていないのは仕方がない。僕らの時もそうだった」
「そうか」
「エレンも覚えてなさそうだし……」
「そういうもんなのか。私を恨んでいるか?」
「どうだろ、よく分からない……君も人なんか食べたくなかっただろうし。いったいどれだけ壁の外をさ迷っていたんだ?」
「60年ぐらいだ……もうずっと、終わらない悪夢を見ているようだったよ」

 その会話を聞きながらだんだんと遠のいていく意識に抗えず、エレンは静かに瞳を閉じた。その視界いっぱいに傷ついて顔面血塗れのウミを焼き付けて。

To be continue…

2019.11.06
2021.02.07加筆修正
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