THE LAST BALLAD | ナノ

#124 もう二度と分かち合えない腕

 この身体に流れる血の意味も知らずに。生かされた自分、愛の意味も知らなかった。服従するだけが愛ではない、それではただの愛という名の奴隷に過ぎないのだ。今の自分はまるで偽りの愛に突き動かされるただの下僕みたいだと。
 愛し愛された意味を知る背中に腕を回し僅かな記憶の中で奏でられる歌を耳にした時、私は今一度この世界に生まれたのだ。

「さっさと歩け、話はこれからたくさん積もるほど嫌って程じっくり聞いてやる」

 自分の生命の危機に巨人化して自らの意志ではない。そしてすでに壊滅していたレベリオの地で大暴れした自分を引きずり出して拘束したのは紛れもなくこの島を離れる際に捨てた自分の夫。今も愛している、男。

 自分を引き連れる男の声にウミは逃げられないことを悟り、これから行われるであろう責め苦を肌で感じて戦慄した。彼はどんなことでも出来る。優しさ故の非情さを自分は目の前で嫌という程見てきたではないか。
 誰よりも彼の傍に居たと自負している。手に取るように彼がどんな仕打ちを自分に施すか、想像するだけで恐ろしい事になるのは先ほどの飛行船でも味わっただろう。
 自分はどんな形で在れど目の前の彼を裏切った、マーレに潜入した時もそう、彼の目の前で結婚相手を紹介したのだ。自分は彼や子供達を島に残した上でマーレでもたとえジオラルド家の立場を確固たるものにする為とはいえ、愛しても居ない男と別の結婚したのだ。

 数年ぶりの故郷、パラディ島の楽園への帰還だと言うのに。子供たちに会えるのに、決して嬉しくはない。
 足を踏みしめ、恐らくは巨人化能力者であることが見つかった以上自分は陽の光さえも届かぬ地下の奥深くに拘束されるだろう。
 ジーク、エレンとはそれぞれ別々の場所で。

 拘束された猿轡では何も口にできないと言うのに、彼はこれ以上の責め苦を自分に与えるのだろうか。自分の中で絶対の存在である彼からはもう逃げられない。もう二度と足を踏み入れることは無いと、そう思って、そう誓ってこの島を去り船に乗った筈だった。

「よくも!!」

 その時、聞こえた鋭い女の声に振り向くよりも先に自分は思いきり頬を打たれていたことに気付く。思わずよろめきかけた彼女の身体をリヴァイがしっかりした腕で支える。頬を叩かれたのだと気付いた時には周囲の兵士達が慌てて彼女が巨人化するのではと恐怖した。

 もう自分を見る目が人間を見る目ではないことなど即座に理解した。そして、自分の頬を叩いたのは、かつて和解したはずの自分と同じ雰囲気でありながら今は亡き自分の信頼出来る部下でもあるクライスの子供を独りで産み育てているレイラだった。しかし、どうしたことか、彼女の近くにいるのは紛れもなく成長した彼と同じ黒髪を持つ、自分がこの手で産み落とした最愛の娘だった。

「よくもぬけぬけとこの島に帰って来られたわね!! 信じられないわ!! あなたなんて母親失格よ!! これ以上、島の為に懸命に戦ってそれでもあなたの帰りを待ち続けてきたリヴァイの心を踏みにじり、こんなに可愛い子供を捨てて島を出て。さぞやマーレでは悠々自適な快適でいい暮らしをしていたみたいだけれども、あなたがこの島に足を踏み入れる事が本当に腹が立って仕方ないわ、もう、これ以上……っ、リヴァイの心を波立たせないでちょうだい!」

 レイラの顔は怒りに歪み、普段の穏やかさは消え、自分への怒りに満ち満ちていた。叩かれた頬に手を当てる事も出来ないままウミは唇を噛み締め俯いていた。きっとこの頬をじんと熱くする痛み以上に痛むのはレイラだろう。
 自分の代わりに任務で旅立つ彼の合間に彼との間に産み落とした我が娘を親代わりに見ていたのは彼女だった。
 だが、自分が母であることを当時まだ幼い少女はすっかり忘れているのだろう。

「おねぇちゃん? サシャおねぇちゃん!!」

 黒髪の自分の風貌に彼の髪色を引き継いだ愛らしい花が似合う少女は担架に載せられ飛行船から出て来た物言わぬサシャへ駆け寄る。虚ろな目のまま、もう二度と彼女の口からは大好物で彼女のシンボルでもある「肉」という単語は出ないだろう。
 彼女は尊い犠牲となったのだ。
 たった一発放たれた鍛え抜かれたマーレの戦士候補生であり次期「鎧の巨人」の正統な継承者による銃の扱いにサシャに負け劣らず秀でた狙撃手ガビによる一発の凶弾によって。

「ねぇ、ミカサおねぇちゃん、どうしてサシャおねぇちゃんはお話してくれないの?」
「……エヴァ、帰ってきたら、また話そう」
「あ!! お父さん!! おかえりなさい……だぁれ? そのおねぇさん、お父さんの知り合い?」

 言葉がまだたどたどしい少女は不思議そうにサシャへ駆け寄るも、虚ろな目をしたまま息絶えたサシャの遺体を申し訳なさそうに布で隠す兵士により遮られてしまう。サシャの胸の下を貫いた弾丸の穴は向こう側まで見える。
 そんな駆け寄る娘の頭をひと撫でしてリヴァイはそっと彼の精いっぱいの優しい声調で娘を宥めている。

「(あぁ。エヴァ……大きく、なったのね。見ない間に、すっかり、……)」

 自分を見ても、彼女は不思議そうに首を傾げているだけだ。あの日産声をあげて、万が一巨人化したらと危惧し自らの手で産み落としたウミの事などすっかり、いや最初からもう存在しなかったかのように、不思議そうに首を傾げている最愛の娘を見つめて微笑む。これが自分に与えられた罰ならどれだけ相応しいのだろうかと噛み締め、そして、むしろこれでいいのだと吹っ切れた。

 自分が命懸けで産んだ最愛の娘、覚えている。彼女が一つ、一つの成長を迎えた日の事、忘れることなど無い。日記に刻んでいた。いつの間にか歯が生えて、そして硬い食べ物も難なく食べられるようになって。あの小さな手は今頃洋服も自分で選ぶだろうし、髪も自分で結えるかもしれない。例え最愛の娘に忘れられてしまっても、かつてリヴァイを思い合っていたのだと誤解していたレイラを敵視していたが、今は感謝している。彼を愛しているのがレイラの本気の目から伝わる。だから自分は彼女の目を見ることが出来ない。これが自分には相応しい罰。そう、これでいいのだ。

「変わってしまったのね、ウミ。今のあなたの目、よく見てごらんなさいよ。私が大っ嫌いな――売女の目。あなたがどれだけあの人を突き離そうとしても、それでもあの人はあなたを諦められないの。貴方へ男の誓いを立てて。それをわかっててあの人を何度も突き放して、苦しめて……そんな生殺しなことが良く出来るわね、虫も殺さないような顔をして、この裏切り者……悪魔の所業だわ」

 自分の肩を掴んで揺さぶられてもウミは彼女の目を決して見ようとはしなかった。レイラは周りが彼女が巨人化できる危険人物だから万が一でも傷つけるのは危険だと止めるのも知らずに見ようとしないウミに苛立ち、無理矢理顎を掴んで美しい海のような目がウミの目を見つめる。

「どうしてあなたなのよ……!? どうしてあなたみたいな女がリヴァイから愛されるの!? ああ、私なら……ずっとどこにもいかない、あの子も私の事を母のように慕ってくれる。産むだけ産んで責任を放棄したあなたみたいな女より、リヴァイを愛せるわ、死がふたりを分かつまで。その誓いの通りに彼のそばにいられるのに!!」

 ――「それでは、ウミ。貴方はリヴァイ兵士長を夫として迎え、貴方は兵団で人類の為に戦う彼の妻となります。幸せな時も、困難な時も、富める時も、貧しき時も、病める時も、健やかなる時も、死がふたりを分かつまで愛し、慈しみ、その命ある限り真心を尽くす事をここに誓いますか?」
 ――「は、はいっ……誓い、ます」

 それはかつてこの壁の女神の前で誓い合った彼との結婚式で交わした約束、いや約束なんてそんな軽いものではない自分は宣約をしたのだ。した筈だ、もう二度と離れないと言う。

 何も言い返すことが出来ない、いや、もうウミが何か言葉を発する資格など、ないのだから。それならば、いっそ彼を自分から奪ってくれないだろうか。自分から彼をどうか、あなたになら託してもいいのだとウミはその言葉を受け入れた。老い先短い自分にはやはり、彼を幸せにすることなど出来なかった。
 自分はただ彼を苦しめて傷つけてその苦しさに他の誰かへ癒しを求めたくなったことがきっとあっただろう、でも。彼がそれでも自分を思ってくれて傍に居てくれた優しさに自分はすっかり甘え切っていたのだ。そして、そんな自分だからこそ、彼は失望し、そしてとうとう見切った。これでよかった、そして目の前の美しい女性と余生を生きていけば。

「構わない……。私と彼は結局他人同士、私には永遠に彼を縛る資格はない。あの人がこの先どんな人と出会い恋に落ちたとしても私には咎める資格はないの、だから。どうぞ、レイラの好きにすればいい、あなたの望むままに……すればいい」
「何よその理由……!! 人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ!! いい、もうたくさんだわ。もうあなたとは二度と関わることは無いのでしょうから。子供たちがあなたを忘れてくれて何よりよ。あなたはリヴァイだけじゃない、多くの人を裏切ったのよ」

 それなら一生自分の事は許さなくていいから。いつか、消えるからあなたの前からも、記憶からも。だから、その日まで、私を許さないで。ウミは同じく連れて行かれるアヴェリアがレイラを睨みつけている。

「オイ!! 母さんの悪口を言うな!! 自分こそ、母さんが居なくなったと思えばしめたといわんばかりにずかずかと親父の心の隙間に踏み入って来たじゃねぇか!! あわよくば俺の母親から親父を奪おうと内心、企んでたんだろ?」
「アヴェリア、止せ」
「何でこんな女を庇うんだよ!! 母さんがどんな気持ちで居るのか、知らないくせに!!」
「それでも俺の不在の際にお前たちの面倒を見てくれたのはレイラだ。言う事を聞かないで反発して勝手に家出したお前にそんな風に言う資格はねぇ」
「ッ!! 親父が!! 俺を兵団に入れてくれないからだろ!! 俺は戦士候補生になったんだよ!! 島を守るためにマーレに潜入して内側から壊してやろうって!! 親父は何してんだよ? エレンや母さんみたいに何にもしてねぇじゃねぇか!! マーレの子供にサシャまで殺されるような兵団が島を守れんのかよ!!」
「ちょっと待って、アヴェリア。君は今回の作戦に関係ないだろう? リヴァイだけを責めるのはやめてもらえないかい? それに、レイラは君たちの面倒を見てくれていたのは事実だ。リヴァイと彼女は君が思うようなそんな関係じゃないし、レイラはウミとリヴァイが夫婦であるのをしっかり理解している」

 そして彼女が責められているのを耐えれらなかったリヴァイに散々説教を受けたアヴェリアだが、まるでウミを庇うかのように怒号を放ってレイラを責める。レイラはまるで図星だと言わんばかりの表情で何も答えないが、クライスを失い、失意の中たった一人で子育てをする中で店に通いに来てくれたリヴァイの存在に彼女がどれだけ癒されているのか、ハンジが冷静に勢いで口走るアヴェリアを宥め、そして周囲もそれは理解していた。ウミが居なくなり、失意に暮れた彼を支えたのもまた彼女だったから。対してどんなだがそれをリヴァイが口を挟みレイラを庇ったのだ。

「レイラ、悪かったな。長い間エヴァの面倒を任せて……とても助かった。これからしばらくはまた、ブラウス家へ。エヴァを預けてくれ」
「いいのよリヴァイ。あなたはこの島の為に今は余力を残してもらわないと。子供達ならみんなで見るから心配しないであなたは任務に専念して。」
「俺の息子がお前に対しての失言は本当に申し訳なかった。あいつは俺達を誤解しているだけだ、この件が落ち着いたらちゃんと言って聞かせる」
「……いいの、仕方ないわ、良かれと思ってしたことだけど、確かに私も、無神経だった。ウミが帰ってきてくれたから、もう私の出番はいらないだろうから……でも、今更母親が出てきたとしても、この子はもう本当の母親の顔なんて覚えていないでしょう?」
「レイラ……」
「ハンジ、ありがとう」

 アヴェリアは母親がまだ恋しくもある多感な時期に突然面倒を見てくれるからと父親の不在の際に自分達を面倒見てくれたそんなレイラがリヴァイに対して下心から優しくしているのがあけすけと見えて余計に嫌だったのだ。だが、そうは見えてもレイラは本当に純粋にリヴァイを思っていた。
 本当は、レイラはずっとリヴァイが好きだった事をウミは噛み締めた。

 アヴェリアの腕に抱いて居る自分が島ではない世界でひっそりと産み落とし極秘で育てた彼との間に授かっていた双子の姉弟を遠巻きに見つめ、叩かれた拍子に口の端を切ったのか、鉄の味を感じそれをしっかり噛み締め、リヴァイに連れられ飛行船を後に帰還を果たすのだった。

「ウミ……。お前には聞きたいことが山ほどある。俺はすぐに獣の監視が待ってるからな、手短に済まそう、素直に話してくれることを期待している」

 これまで幾多も死線を潜り抜けてきたムードメーカーでもあったサシャが死んで仲間達は深い悲しみに暮れ誰もが言葉を閉ざした。


 ▼

 これから何が行われるのか想定が付くからこそ、お互いに沈黙に言葉を閉ざしていた。
 まさか、こんな状況でまたこの古城に戻ってくるとは思わなかった。確かにジークとエレンと自分は接触できないだろう。もうここは言葉にしなくてもいい程に思い出が濃く有りすぎる。
 自分が調査兵団に復団してすぐにやってきたこの場所を見るだけで胸が張り裂けそうなほど切なく、そして涙が無意識に視界を奪う。泣きたいのは、誰だろうか。

「入れ、」

 リヴァイが招き入れる重厚な扉の音に思わず足がすくみ、意識が遠のき、そのまま気を失いそうになる身体をリヴァイに支えられるが、その腕が「逃がさない」と、そう物語っている気がした。
 いざ彼に敵と認定されればあんなにも頼りになる島中から羨望の眼差しを浴びる完全無欠の英雄でもある彼の存在が忽ち畏怖の対象へ変わる。
 アッカーマンの血が流れる彼とミカサをマーレの戦士たちが恐怖し警戒するのも無理はない。
 巨人化出来ない生身のたった一人の男の手により「女型の巨人」そして「獣の巨人」を瞬時に戦闘不能まで追い詰めた味方でも逆らえばどうなるかわからないと思ってしまうような男なのだから。

 ――「もう、離れるな……離れたら、今度はお前の足を折るぞ」

 かつて冗談交じりに囁いたあの甘いひと時のやり取り。彼に足の一本や二本、折られても仕方のない事を自分はしたのだ。そんな男の逆鱗に触れた自分。恐らくはただじゃ済まされないだろう。どんな理由をつけても自分は彼を裏切り島を捨てマーレに渡ったのだ。
 このまま誰も来ないであろうこの場所に閉じ込められて二度と陽の光さえも浴びられない場所に隔離されて簡単に死ぬことが出来ないこの身体は今も愛する彼から凄惨な拷問を受けるのだろう。殺されない程度に。きっと間違いない。それ以上の責め苦には耐えられそうに無かった。

「オイ、どうした。そんなにビビる事、ねぇじゃねぇか……。俺達は結婚した夫婦だ、せっかくの2人きりだ。夫婦水入らずの時間と行こうじゃねぇか」

 自分の肩を抱く。強い彼の腕の逞しさに思わず「ヒッ」と、息を呑んでしまう。愛している筈なのに、この上ない恐怖を感じた。数年、見ない間にいろんなものを背負い込みすぎた彼の姿はめっきり老け込んでいるかのように、これまでの心労が伺える。それを自分が彼に与えたのだ。
 まして、罪から逃れ島を離れてマーレに潜入した際にも自分は彼へ絶望を贈りつけた。

 だが懐かしい空気に支配されるこの古城で自分はリヴァイと再会して結ばれたのだから思い出の場所でもありあの時のそれでも今に比べれば平和だった頃を思い返す。

 旧リヴァイ班と共にここで生活を共に過ごし、リヴァイとの指輪をそれでも肌身離さず身に着けていた自分が不注意で無くしたのに必死に探してくれた。
 そして敵をおびき寄せるための壁外調査で皆「女型の巨人」のアニに殺された。
 仲間を失った悲しみを胸の痛みをリヴァイと埋め合った。そしてリヴァイと結婚式をした。
 ウォール・マリア奪還作戦、シガンシナ区決戦の前夜まで彼と束の間の時間を噛み締めそしてもうここには戻らないお互いもしかしたらこれが最後かもしれないと言う互いを失うかもしれない、そんな覚悟を持ち合わせ肌を重ねたのを思い出す。

 しかし、どうして誰も居ないのだろう。自分を、彼はどうするつもりなのだろう。振りほどいて逃げようとしても、きっと彼に捕まるのは間違いない。そもそも彼から逃れようなどと考えること自体が無駄なことなのだ。

 辿り着いたのは。かつて巨人化をコントロールも出来ない、それにどうして自分が突然巨人になったのかもわからないまま混乱していたエレンを閉じ込めていた牢屋の中。あの日のエレンの面影はもう何処にも無い、今のエレンは何処へ向かうのか、それは、島の人間たちは分からない。自分達だけ自分だけがエレンの孤独へ寄り添うように、自分の孤独もエレンが寄り添ってくれた。
 リヴァイには言えないようなことをエレンは受け止めてくれた。自分達は別の場所から同じ未来を共有している。

 事情を知らない周りから見れば自分達はまるで島の悪魔そのもの。その瞬間、

「あぁぁ――っ!!」

 牢に入るなり、なんの前触れもなしにリヴァイの容赦ない蹴りが自分の膝を砕く骨の音が薄暗い地下に反響した。

「痛むか?」

 たまらず絶叫したウミ。彼なりに手加減をしてくれたのだろうかこんな自分に慈悲でも抱くのか、ジークとエレンと共謀していた自分を、その理由を話せない自分を。
 だが、幾ら自分が巨人化能力者だとしても、負傷の痛みはダイレクトに感じる。
 それにあまりにも痛めつけられたらまた自分の意志とは反して自分の中の二千年前、始祖ユミルがなったとされる「原始の巨人」が目覚めれば、また自分は自我を無くした化け物となり果てるかもしれない。

「俺も痛ぇ。なぁ、ウミ」
「うっ、ううっ……っ、」
「お前は優しいから……きっと、俺のこの気持ちを理解してくれると思っていた」
「……リ、ヴァイ」

 激痛に膝を抱えて床に蹲るウミを優しく口元に弧を描いたこんな状況だからこそ穏やかに微笑むリヴァイの武骨な手が自分のあまりの激痛に絶叫し堪え切れずに流れた涙を流し濡れている頬をそっと両手で包んだ。
 ゆっくり膝を床についてそのまましゃがみ込んで。同じ目線の先に間近でじっくりと見つめるリヴァイの玲瓏な顔にそれでも高鳴る胸が、邪魔をする。感情なんて押し殺してしまえたらどんなにいいか。捨ててしまいたいのに、先逝く自分に今更未練など不要だ。

「本当の事を話せば今なら、まだ許してやるから……俺の傍に、戻って来てくれよ」

 この世から何も残さずに姿を消してしまえば、なんて勝手で浅ましい感情。彼を思う人は自分の他にも居るのに、でも自分だけを、彼はずっと見つめていて。でも、自分は彼を愛している。尚更痛感させられてしまうだけだ。
 彼に全てを打ち明けてしまえるのなら、どれだけいいか。「そんな事するんじゃねぇ」きっと彼は悲しげに顔を歪め、そんな自分を引き留めてくれるだろうか。

 もう何もかも手遅れなのに。だが、彼に甘えること、それは許されない。
 自分は選んだのだ。島を救うために悪魔になってもいいと、ジークとエレン。一人の父親から生まれた2人のイェーガーと手を組んだのだ。
 成就される願いの柱として。
 そして古の始祖ユミル・フリッツの時代から続く悲しみの連鎖を止める。巨人化できる人間がこの世から消える未来があるとするなら、自分の存在も同じ。もう、巨人に慣れるこの忌まわしき力も、争いも、いらないのだ。何もかもを消すために。
 そうすれば、巨人科学の副産物から生まれた母親が忌み嫌った自分にも彼にも流れるアッカーマンの血も、きっと潰える、そうすれば、彼はもう戦わなくても大丈夫。

「うっ、ううっ……。考え直して……ぇっ、リヴァイ。どうか、これ以上は……もう止めた方がいい……レベリオで見たでしょう? 私は自分の意思で巨人化出来ないの……っ、もし、これ以上、今度は反対の足を折るなら、私は「原始の巨人」に意識を委ねる。そして、あなたの頭を……踏み抜く……から、」
「大丈夫だ。それは出来ねぇよ。お前は俺がお前を殺さないと分かっててそんなことが言えるんだろう? 大丈夫だ、その通りだ、だから俺はお前をここに閉じ込めて二度と、もう出さねぇ。何処にもいかねぇように両足両手切り落として、動けなくさせて殺さない程度に、巨人化しない程度に……言えよ。マーレでエレンとジークと共謀して何を企んでやがる。目的は何だ、」
「駄目、私には暴力での尋問は、無駄だよ……」

 リヴァイはウミの言葉には答えぬまま、倒れ込んだままのウミの襟を乱暴に持ち上げそのまま襟元が窄まり首が軽く絞められ、ウミは苦し気に顔を歪めたが、リヴァイはその程度では許そうとせず、思いきりウミを平手で打った。

「お前が痛みに強いのは理解している。ましてお前はもう人間じゃねぇ、痛みはあるがすぐに癒えちまう。お前は俺と同じかそれ以上の死線を潜り抜けて来た人間だからな、それに、そう簡単には口を割らねぇのは理解している。だから別の方法を試そうと、思う」
「あっ……何を、するの?」
「ちょうどいい。俺の方がお前より理解している……直接、身体に聞いてやろうかと思ってな。飛行船でのヌルいやり方じゃ物足りなかったか?」
「っ……はぁ……っ!!」
「お前は、昔からそうだからな。きっちり躾しねぇと……なぁ、ウミ」

 ググッとさらに強く首を締め付けられて。しかし意識を飛ばすにはまだ足りない力加減で締め上げるものだ。
 逃げようにも鉄格子の檻の中では自分は逃げられない。リヴァイは理解していた、彼女が巨人化すれば、自分だけじゃない、彼女だって生き埋めだ。まさに一蓮托生の二人。押し当てられたリヴァイの拳。
 それに合わせてウミの身体がカタカタと震えだし痙攣を始める手前でリヴァイは簡易的に置かれた牢のベッドへウミを突き飛ばした。鉄格子が遠ざかり無機質な空間でウミはこれから彼が何を起そうとしているのか想像して震えよりも先に涙が溢れた。
 ウミの細い手を掴んで自らの身体へ導き、新しい肌に張り付くような機能性の高い兵団服の胸元からそのまま服の中へ滑らせる。そのなまめかしい手つき。行動が意味する行為にウミはさっと顔を赤らめると、暫く迷った末に彼の複雑な構造の上着を脱がせた。
 久しぶりに見る彼の身体に否が応でも身体の中心から熱が迸る様に全身を悦びが貫き、震えた。どれだけ傷付いても、ウミの思いは変わらない、どうしても触れられた箇所から彼に離れられなくなる。
 無理だ、生涯最初で最後の初恋は彼に全部身も心も捧げているのだ。自分に唯一触れてくれたのは、そして自分が触れたのは、彼だけ。自分はもう、彼なしには生きていけないと本能が叫ぶのだ。
 心からリヴァイが好きで、好きで、求めている。例えもう自分には彼に触れる資格が無いと分っていても、色恋沙汰には永遠に縁がないと、自分は異性に触れられることも女としての悦びも知らぬままいつか他の人たちと同じ、くさい巨人の息遣いの中で死んでいくのだと思っていたから。それなのに、この人は、ああ忘れもしない。あの日の記憶が呼び覚ます。暗い日の光も遮られた世界の片隅、あの日の自分の全てだった空間で、これではまるで初めて彼に抱かれた日と同じだと。

 彼が初めて、自分を愛してくれた日と同じ目で。彼に触れられただけで自分は忽ちほだされてしまう。まるで頭の芯が熱く痺れて、膝が震えて、重量の増した彼の重みを感じてしまえばもう全身が甘く痺れたように動けなくなってしまう。抱き締め返すことが許されるのか分からなくてさまよう腕を引き寄せられて。

「あ………っ、」

 自分を見つめるまっすぐな目に、耐えきれずに逸らそうとすれば、後頭部押さえられ、間近に迫る彼の顔に息が、どう呼吸をしていたのか忘れそうだ。そのまま彼の手により自分は息もつかせぬようなキスをされたんだと気付いた。

「っ、…ぅ…ンっ…、リヴァ、イ……っ、ン、」

 このまま、いっそ彼の手の中で死ねたらどんなに幸せか。頭からつま先まで、身体の芯からじんと痺れるような感触。全身に彼の唇が舌が這いまわり優しく囁く彼の声は二人だけしか知らない、甘い秘密。破瓜の痛みに引き裂かれる苦痛に涙を流すウミを彼は余すことなく見つめ、いつも、いつだって求めあった、抱いてくれた。魂の底から求めていたかのように。まるで最初からそうだったような、彼の温もり、彼の腕の中で目覚めた朝の至福。それが堪らなく嬉しかったから。彼の腕の中で自分は経験せずに終える筈の命の中で彼に抱かれ彼に愛された記憶さえあれば残りの人生は全て余生として生きていけそうな、そんな夢のような時間だった。

 けれどもう、あの頃には二度と戻れない。もう、あの頃と今は違う。どんなに願ってもあの夢には帰れない。その証拠に、触れては離れて、つかず離れずの口付けが済むなり、リヴァイは伸しかかりウミをずっと離さない、離したくないと、強く抱き締めていた力強い腕を緩めて、そして、彼が手にしていたそれを見て絶望した。

「それは……あぅ……っ!!」

 ギリリッと骨が折れるのではと思うほどの尋常ではない力で思いきり足首を掴まれて引っ張られるように握られあまりの痛みにウミが顔をしかめた。しかし、リヴァイは無言でその足首を粉砕する勢いで握り潰したのだ。
 骨が痛む音にウミは絶望と彼への裏切りの代償へすぐさま突き落とされることになる。しかし、自分を握るその手が震えていた事を知る。彼にへし折られそうな強い力で掴まれているのに、その尋常ではない力に反して、その横顔は穏やかだった。その優しさからにじみ出る彼の狂気にも似た刃のような目に射貫かれ身動きが取れない自分をリヴァイは決して許してくれなかった。

「お前に今飲ませたのは自白剤、」

 彼の口づけに夢中で気付かなかった、いつの間に彼はそんなものを咥内に仕込んでいたのだろう。それを知り、言葉を失ったウミがふらりとベッドの上でよろめくと、有無を言わさずそのままシーツへ押し付けられる。リヴァイの深く傷付いた眼差しに、ウミは涙を浮かべた。

「オイ、そんな目をするな……。ここで本当の事を話してくれるなら……今ならまだ許してやれる。だが、もしお前がそれでも拒絶するなら、裸にひん剥いて……お前が話してくれるまでもう止めねぇ……だが、そう簡単には欲しいモノは与えねぇ。お前はこのまま一生をここで過ごすんだ、ガキにも会わせないまま俺と二人きりで一生……離さねぇ、お前がそれでも離れていくならこのままへし折る」
「っ――うぁああああぁっ……!! 痛い、痛いいいっ!!」

 叫んでも誰にもこの声は聞こえない、痛みのあまり泣き叫んでもそれでも離すことは出来ずに必死に抵抗するが、自分を見下す絶対的な存在の前に身体が彼の望むままに従う。自分を見つめるリヴァイの目は本気だ。その目を何度も見てきた自分は彼の手により痛めつけられてきた人間を幾人も知っている。
 沈黙は肯定か、次第に息苦しさと視界が熱を纏ったかのように熱く、燃えるようだ。全身がまるで炎に包まれたみたいに。同じように火あぶりにされた、かつての初代ジオラルド家の令嬢としての自分だった頃の数百年も昔の記憶が蘇る。

「お前が本当の事を話すまで、寸止めのまま焦らし続けて、正常な思考を奪って、もう何処にも行かせやしねぇ……」

 リヴァイは本気でその行為を決行した。叫んでも泣いても、痛み以上の絶対の君臨者はウミを組み敷き、そして、ウミは覆いかぶさってきたその重みの中で圧死してしまうのではないかと錯覚するような激しい苦痛の時間がどれだけ自分の決意を容赦なく破壊することを恐れ祈る様にわななく唇、大粒の涙の中で目を閉じた。
 辛いのも苦しいのも自分だけではない、彼をここまで追い込んだのは自分だ。地下街の薬をまさかここで持ち出すなんて、でもきっと、自分の願いが成就する頃にはきっと、跡形もなく消えてしまおう。きっとこれが最後、もう二度と彼の前から消える。消えてしまえばきっと彼も忘れられる、彼がこの先どうかこれ以上の苦痛を味わう事無く生きていけるように、皆、皆、救ってあげよう。

「やめて、お願いだから、そんな目で私を見ないで、初めて抱いた時みたいな目で――」
「どうして、何で……お前はいつも、そうなんだ……」

 ▼

 何時間が過ぎたのだろう、もう声も、指先ひとつだって自分は動かせなかった。自分に背中を向けて言葉なく震えるその彼の背中をどうして自分は抱き締める事もしてやれないのだろう。本当に強い男は本当の弱さを誰よりも知っている。だからこそ強く在ろうとすることくらい理解していた筈なのに。
 今すぐにこの身体を鞭打ち振り返って、抱き締めてやれたらどんなに良かっただろう。けれど、ウミにはもうそれは選べなかった。

 もう何もかもが手遅れだ。こんな形で彼と最後の抱擁が終わるなど、終わりたくはなかった……。

 伏せたままのリヴァイの悲し気な顔が、声が、涙が――。見た目よりずっと細い肩が震えていたのを忘れられない。誰よりも深く愛してくれた彼が自分を振りきるように部屋を出ていく。きっと彼は泣いている。けれど。悲しむことは無い、自分の役目はもうすぐ。それが果たされるなら、もうすぐすべてが終わる。もう涙が枯れてしまうことなど無いと思うほどに泣いた。いつか時は万物を運び去るように、彼の心の痛みを癒やして、新たな門出と共に彼の遺された人生がどうか、幸福であるように祈るから。

 最後に彼がありのままの姿で自分を必要としてくれた。それだけで充分だ。
 永遠に忘れない、彼に愛された自分で居られた日々と別離を告げた。

――「大丈夫だよ、最後は皆救われる……俺が皆救ってあげるから。そうだろ、ウミちゃん、だからもう悲しまなくていいんだよ」

2021.09.13
2022.01.25加筆修正
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