THE LAST BALLAD | ナノ

#106 ラストダンス

 手にしたものは自由、あの日の戦いの果てにようやく見つめた景色は何にも代えがたいものであった。
 自分達は奪われた地平を取り戻せたのだ。多くの仲間達の犠牲の果てに手にした景色はかけがえのないもの。その筈だった。
 多くの志を共にした仲間たちはそのためにこれまで心臓を捧げ、そして死んで逝ったのだ。
 彼らの死を、捧げた心臓が無意味ではなかったのだと証明しなければならない。

 そして一度はお互いに離れる事を決め、そして途切れた絆、これからは永遠に二人で共に過ごせるのだと、お互いに信じた夢。しかし、それは束の間の幻想だったのかもしれない。
 結局、この島は世界中から全ての憎しみを集めていて、いつか攻め滅ぼされてしまうのだ。この島に眠る資源を目的に近づいて擦り寄って来た東洋のヒィズル国だけが唯一の味方だ。
 この島が後にイェレナの言う通りであればマーレは莫大な軍事力を持ってこの島に侵攻を開始する。
 マーレが所持する九つの巨人のうちの生き残ったライナーやまだ見ぬ巨人達を相手取り真っ先に兵団に所属する身である自分は率先してこの島を、この島で暮らす家族を守るために戦う事になるだろう。
 巨人と戦い、壁外を目指していた時代はとうの昔に終わったのだ。もし、この命が尽きたとしても、家族が笑顔で過ごせるのなら――。

 だが、自分がエルヴィンと交わした悲願は潰える事となる。ジークを殺すことは許されない、許されないのだ。そのやり場のない感情は何処へ行く事もなく。リヴァイの刃は振るわれないまま彼をこの島に受け入れる事になれば、自分は強靭な理性でその怒りを、殺意を抑え込むことになる。

 ジーク・イェーガーが持つ王家の血、そして「獣の巨人」の能力をこのまま根絶やしにする事は出来ない。自分達が生き残る策「地鳴らし」が本当にあるのならば、壁の中に眠る何百万の巨人達を一斉に支配し他国にその力を見せつけるのなら絶対にその存在は必要不可欠なのだ。

 しかし、ジーク・イェーガーの寿命はもう残り僅かなことを誰もが悟っている。しかし、王家の血を引きながら、ジーク・イェーガーは自らの遺伝子を残す考えは、到底思い浮かばないだろう。
 何故なら、彼は生まれた時から己が生まれた事が全ての間違いだと、エレンと同じ血を分けた父親と母親から繰り返された洗脳にも似た教育を悔いているのだから。
 そんな自らの生に絶望した男が果たして愛する人と子を成すことなど、ある筈が無い。
 しかし、「地鳴らし」を発動させるにはもう一つ、条件が存在していた。

「わぁ。見てリヴァイ。とっても素敵なダンスホールだね。こういう公の場に顔を出すのはもう二度とないと思ってたのに、それに、久しぶりだから緊張しちゃう。私、ちゃんと振舞えるかな、リヴァイはダンス踊れる? 夜会に出るなんていつ以来かなぁ。結婚式の時のお披露目会以来だね」
「(俺は、また選ぶのか。ヒストリアを子供に食わせ、そして、この島の存続の為にお前を失う未来を。ウミ……)」

 ウミを迎えたリヴァイは普段おろしていた前髪を全てオールバックに整え、首元のクラバットは蝶ネクタイに、漆黒を纏う燕尾服という兵団のロングコートではない正装姿だった。
 前髪をあげるのなど結婚式以来の彼の普段見せない綺麗な額と凛々しい顔にウミは胸の高鳴りを抑えることが出来ない。
 リヴァイは同じく白い肌に黒を基調とした胸元はタートルネックで隠されているが、その反面背中が大きく開いた艶やかなドレスに身を包んだウミをエスコートし、ウミもリヴァイから離れないようにとついていく。

 ヒストリアの孤児院から馬車に乗り込み、普段とは違う非日常。慣れない育児と店の切り盛りに多忙な日々でへとへとに疲れているウミの視界一杯には夢のような空間が広がって居る。
 大きな瞳をキラキラと輝かせ、天井から吊り下げられているシャンデリアをうっとりしたように見つめて、化粧で色づいた頬にはしゃいでいるように呼び掛けている。
 そんなウミをエスコートして歩くリヴァイは隣を歩く自分より背が低いウミの凛とした横顔を見つめて考えていた。

 自分と結婚してからいい意味でウミは変わったと思う。地下で彼女と出会った時は、年相応の少女とは思えぬ険しい顔つき、最初はまるで手負いの獣のように頑なに心を許さなかったのを覚えている。
 エルヴィンからの勧誘を受け調査兵団への道を選んだ。仲間と共に地下街から地上に上がり、それから彼女に導かれるように自分も自由の翼を背に巨人と戦い続ける道を必然的に選択した。
 共に馬に跨り駆ける中でウミが見せる笑顔と、調査兵団で果敢に巨人に切り込んでいく姿はまるで別人のように感じられた。
 そんな風に、笑う事も出来るのだと。向けられた彼女の笑みにどうしようもない愛おしさを感じた。
 調査兵団を退団した今は誰が見てもウミは穏やかで、とても幸せそうで、そして大きな愛に満たされている。
 にこにこと微笑む姿に自分は彼女を幸せにしてやれているのだろうかと疑問符を抱いたが、自分が彼女から愛を惜しみなく貰い、そして、これからは彼女を自分なりに愛して守り抜こうと決めて日々歩めるのなら自分も同じように愛そうと決めた。

 彼女を幸せにしてやれているのなら、この笑顔が消えないように自分も同じように彼女の愛に応えてお互いに歩んでいけばいい。
 しかし、積み重なる問題の前に、彼女が強制的に巻き込まれる未来は、同じだった。ウミの父親がまさか壁外から来た人間だった、しかもただのマーレ人ではなく、マーレでも重要な人物で、かつて自分達エルディア人をこの島に追いやった一族の末裔だと。
 地下で出会ったウミの父親がどうしてあんなにも気品溢れる口調は粗野でも行動や身のこなし、立ち振る舞いをしていたのか、それは育ちの良さから来るものであった。
 そんな彼女をマーレは欲している。何故なら「始祖ユミル」をこの世に蘇らせるために先祖代々ジオラルド家は研究してきた巨人科学の礎を築き今日までその技術を世にもたらしてきたのだから。巨人化のメカニズム、「始祖ユミル」の持つ能力。全てを無に帰しこの島にやって来たウミの父親。
 エルディア人の未来を憂い、そしてこの島を目指し行動した。
 それを手引きした人間がいる事をリヴァイは知らない。
 ウミの父親がただ滅び行くエルディア人の為にこの島にやって来たわけではないのだ。
 出来ることならキヨミ・アズマビトにウミを引き合わせたくはない、あの条件を彼女にだけは知られたくない。なぜなら、この島を救う事は必然的に最前線にいる自分やこの島でこれから暮らしていく子供たちを守る事に繋がるのだ。
 もし、自分がマーレ人としてマーレの要人として暮らせと、エルディア人の行いを明らかにし誤解を解く為ならウミは喜んで自らを犠牲にするだろう。それがウミの優しさでもあり、強さでもあった。
 そんなことを思い悩んでいる間にウミがさっきから話しかけているのにも上の空で見つめているのだから不思議そうに首を傾げ、自分の燕尾服の裾を引いていた。

「リヴァイ?」
「あぁ……何だ?」
「リヴァイの正装姿、結婚式以来だね。とっても似合ってて素敵だよ」
「……(もう二度と……離れない、そう誓った筈だ)」
「もう、聞いてる? 私のドレス、おかしくないかな?」
「……おかしくねぇよ」
「もぅ、相変わらず、それだけ?」

 言葉が拙い自分をそれでも彼女は受け入れてくれた。
 絶望の淵、寄り添い合うように二人は重なり合った。夫婦で招かれた夜会。ウミはそっとリヴァイの蝶ネクタイに触れると、周囲が自分達を見つめているのにも気にしないそぶりで少し曲がっていたのを丁寧に直した。
 真下を向けばウミの髪の香りを仄かに感じられる。もしこの条件を受け入れるのなら、島の存続の為に犠牲になれと言うのなら、もう二度と彼女を感じる事は出来ない。

「少し曲がっていたよ」
「あぁ、」
「ふふ、まぁ相変わらず褒め言葉や気の利いた言葉がとっさに出てこないのがリヴァイらしいんだけどもね」

 気の利いた甘い言葉も、彼女の求める愛に関しても自分は上手く伝えることが出来ない、だがそれでも「はい、出来た」とさりげない仕草で自分の蝶ネクタイのゆがみを直してくれたウミは背後から駆け寄って来た元104期生達に駆け寄り、手と手を取り合って結婚式以来の再会を喜んでいるようだった。
 しかし、元調査兵団・副団長である実父が隠していた驚愕の事実、そしてマーレからパラディ島に逃げてきた父親と同じ血を持つ彼女に向けられた周囲の目線がどんなものなのか。ウミも隠しているが、本当は知っている筈だ。
 初めてパラディ島にやってきた外国の要人との会議、取り巻く現状を、そしてその会議の結果を。皆の浮かべる表情が無理して明るいものへ変えようとしていることを。

「リヴァイ、」

 にこにこ、周囲から囲まれたその輪の中心で微笑むウミの緩やかな髪を纏めあげた髪型にその後ろ姿を見つめながらリヴァイは一人思案していた。
 手と手を取り合い、ウミの楽しそうな声が聞こえる。あなたも早くこちらに来て。と。そう手招きをするウミはかつて三年間を共に過ごした104期生達と楽しげに談笑し、そしてようやく緊張により引きつったままのウミの笑顔が今は本来の笑顔に戻っている事も。

「ウミ、お久しぶりです」
「サシャ!! 元気そうでよかった。うん、前髪の分け目も変えて正解だね、とっても似合ってる」
「ありがとうございます、ウミのお陰ですよ!!」
「いいの。どういたしまして」

 野生動物並みの食欲さえなければ整った顔立ちに十代にしては恵まれた抜群のプロポーションを持つ黙っていれば美人の部類に入るサシャが、突然休暇を利用して自分の店にやってきて「大人っぽくなるにはどうしたらいいんですか??」と言う質問を萎え気架けられた記憶がまだ新しい中、ウミに今まで無頓着だった見た目に関して教えを願ってきたのは今も記憶の中に新しい。

 前髪の分け目をセンターパーツにしてみるのはどうかと、ウミの提案を受け入れすっかり成長もあり大人びた彼女のドレス姿をウミは微笑ましくとても似合うと笑っている。

「あ、ニコロさん。こんばんは、お久しぶりです」
「あぁ、久しぶりだな……新しく取り入れたマーレ料理はどうだ?」
 サシャの新しい髪型はいかがですか?」
「んなっ!?」

 サシャが突然やってきて自分に対して大人っぽくなりたいと真摯に訴えてきたその理由を知っているかのように。ウミはその隣にいたニコロにサシャの新しい髪型はどうかと尋ねる中でニコロもまんざらでは無さそうに真っ赤な顔をしている。
 誰がどう見てもお互いがお互いを思い合っているのは見てわかる。
 そんな二人を見つめながら、リヴァイは誰に対しても親しみを持ち接するウミの事が自分はどうしようもなく、愛おしくてたまらなくなっていたと気付いたのはもう既に彼女をこの手に抱き締めた時からだった。

 今も初めて触れた温度を覚えている。膨れ上がる愛おしさから自分は彼女に言葉なく触れてしまっていた。
 だが、触れたカ所から伝わる愛おしさに制御できずに、それから幾度も彼女を自分は求めていた。まるで本能に支配されその衝動のままに動く動物のように。

 だが、やはり自分達はただの人間ではないことが分かる。見た目は世界中で暮らす民族たちと何ら変わりないのに自分達この島で暮らすエルディア人は人を捕食する巨人になれる遺伝子を持っている。古より伝わる巨人大戦で多くの民間人たちが巨人に食い殺された歴史が物語るように自分達にも同じ血がこの身体に流れているのだ。それによって自分達は永遠に引き離されることになるのだろう。
 もう二度と、会えない場所でそれぞれがお互いの未来のために、悔いなき選択を迫られているのだ。

 彼女を失う未来を乗り越えてようやく結ばれた二人。しかし、運命はそれ以上を望む。死がふたりを分かつまで、違う、もう死んでも会えない距離に引き離された二人は対極の対岸でいずれ別れたる運命を呪い続けるのだ。
 冷静さを欠いた判断しか今は出来ない、もう二度と、今の自分には答えなど出せる筈が無いと言うのに。
 何故自分は彼女とただ、一緒にこれから失われた時間もひっくるめてウミには平和に過ごして欲しいとただ、それを望んでいるのに。

 いつも、これまでもこれからも、自分は非情な選択を何度も迫られた。二つしかない選択肢をいつも間違えないように振舞うので精いっぱいだった。
 そして自分はエルヴィンを悪夢から解放することに決めた。その選択を繰り返して今がある。しかし、いざウミがその選択肢として浮上している今、リヴァイは冷静で非情な判断など、とてもじゃないが、今その答えを出せと迫られても、そう簡単には下せそうになかった。ウミを永遠に失う未来などもう二度とごめんだ。それならこの命を持って自分は果たすべき責務を果たすまでだ。彼女がこの島でいつまでもいつまでも幸せに暮らせる未来の為に。

「まぁ、あなたが、リヴァイ兵士長の……」
「初めまして、キヨミ様。はるばるパラディ島にお越しいただきありがとうございます。リヴァイ・アッカーマンの妻、ウミ・アッカーマンと申します」

 普段とは違うウミのドレス姿、リヴァイは平静を装いながらもウミと出会ったばかりのまだ少女らしさの残る面影を寝顔に探すほどは今はもう遠い昔の記憶に感じられた。
 兵団の上層部の人間やそれ以外の兵士達の前で綺麗に着飾って微笑むウミを自分の妻だと、結婚式でも披露したが、改めて紹介するのだった。
 リヴァイがあいさつする度にまるで他の人間に見せつけるかのように、美しく着飾り挨拶を交わして微笑むウミはまるでどこか違う人間のように感じられた。

「ナイル。久しぶり」
「何だ、元気そうだな。俺はてっきりもうお前と口をきいてもらえないんじゃないかと思ったよ」

 リヴァイが自分にはわからない内容の会話を上層部の人間とする中で、少し離れた場所に居る人影を見つけたウミがリヴァイから少し離れて珍しく声をかけたのはもしかしたらもう2年前の出来事になる「女型の巨人」捕獲以来の2人きりでの対話としたような気さえするナイル・ドークだった。

「仕方ないじゃない、あなたが立場上やたらと調査兵団と対立してくるから……エルヴィンに意地悪するし、……」
「俺だって好きでお前やエルヴィンをいじめたわけじゃ無いんだがな。お前は小さい頃からエルヴィンによく懐いていたからな。だが俺だってお前が子供の頃からこっちは面倒を見てきたんだぞ。いくらなんでも無視をされたり当たられるのはなかなか堪えたぞ。それに、俺の許可なくあっという間に兵団から急に居なくなって、そして突然トロスト区奪還作戦で姿を現して兵団に戻ったかと思えば辞めて、そして嫁さんになって、今じゃお前も立派な母親だ、」
「ごめんなさい、何かと事後報告が多くて……本当にあっという間に私も二人のお母さんになってたから」
「いや、構わんよ。今日は預けてきたのか? せっかくだからあのリヴァイに似てしまった二人の子供の顔を見てみたかったんだがな」
「ごめんなさい、ヒストリアの孤児院にお願いしてきたの。夜遅いし、本当は離れたくなかったんだけどね。確かにどちらもリヴァイに似てるから、でもリヴァイによく似てとってもかわいいのよ」

 にこりと微笑むウミだが、おそらく三白眼の鋭い目つきをしたリヴァイによく似ている子供など、想像して可愛いと思うのはウミだけだろう。実物を見ればいつも無表情で感情表現に乏しいリヴァイだけに子供たちが似ているのではなく、ウミにも似てる一面もあるのだが。

「ああ、お前の今の顔を見てあいつに幸せにしてもらっているのはちゃんと見てわかるからな。リヴァイとはうまくいっているみたいでエルヴィンもきっとあっちの方から喜んでいる筈だ」
「うん……そうだね。ありがとう。三児の父親として、ナイルには色々と聞きたいこともあるんだけどもね」
「お前、もしかして、」
「うん、実は――」

 リヴァイと離れたその隙を見計らったかのように、ウミとナイルの会話を引き裂くように突然ウミの視界を遮ったのは。
 退団したウミの代わりに外交も始まり奔走するリヴァイの副官として彼を実務でも実戦でも献身的に支えあわよくば普段はウミと離れて暮らす彼の心の隙間に取り入りウミから彼を奪おうと虎視眈々と若きエネルギーを燃やす若き精鋭・アリシアの歪んだ笑みだった。

「あら、すみません、」
「っ、」
「オイ、大丈夫か?」

 その拍子にアリシアが持っていた鮮やかな黄色ががったソースがウミの漆黒のドレスを盛大に汚した。アリシアはそれを狙っていたのだ。まるで背後からわざと狙ったかのようにぶつかって来たが、はたかれ見ればその動作はごく自然で、わざとらしさを感じる事もない位に鮮やかな身のこなしであった。

 俯きながらリヴァイが秘密裏に手配したドレスを汚した事にウミは背後から迫ってきたアリシアに気遣いない程ナイルと話し込んでいたこと、それでも昔の調査兵団に所属していた自分ならば、背後から迫る人の気配に気付けた筈だと。調査兵団を退団してからの確実な自分の身体の衰えを感じ、ショックを隠し切れなかった。

「あら、大変っ!大丈夫ですか? すみません、大切なドレスが……」
「いえ、お気になさらず、大丈夫です」

 ごく自然な手つきでウミの身体に触れ、ドレスを手にしたハンカチで拭おうとするその指先まで綺麗に整えられた爪。
 近づく顔からは化粧品のいい香りがする。若さも加わり、ウミよりも背が高くかつ、厳しい鍛錬で鍛えた均等の取れた体躯をドレスに包み、普段とは違う化粧で華やかなオーラを惜しみなく放つウミは周囲の人間の注目を一身に集めているようだった。
 手渡したハンカチをウミが受け取ろうとしたその時、ウミの手を突然握り締めそっと俯きがちなウミの耳元に口元を寄せて、ウミにしか聞こえないようにわざとらしい声で囁いたのだ。

「こんばんは。リヴァイ兵長の奥様……私。あなたの代わりに今リヴァイ兵長にお仕えしています。結婚式では遠巻きに見つめているだけだったので一体どんな人なのか、人類最強のリヴァイ兵長の奥様ですからそれはよっぽどの素晴らしい方なのかと思っていておりましたが……。間近で見てみると思ったよりも「普通」でとても安心しました。お子さん、あなたに似ず兵長に似で本当によかったです。そのハンカチは必要ありませんのでどうぞお使いください」
「な……」

 まるで呪いの呪文のように。その言葉はウミをその場から動けなくさせるのには十分だった。
 口早にそう囁かれ、もちろんその自覚はあったが、ショックどころか突然背後から刃物で刺されたかのような衝撃がウミを貫いた。
 自分がリヴァイと結婚したことに対しての不平不満、確かに薄々影で囁かれているだろうなと、そう思ってはいたが、まさかこうして直接言ってくる人間に遭遇するのは始めてだったから。

 ――「あなたひとりが犠牲になればこの島が救われるなら、簡単なことじゃない。私ならあなたの代わりにリヴァイ兵長を愛してあげられる。子供も含めてね、」

 ぼんやりと立ち尽くしたままのウミを横目に、何も知らないウミを嘲笑うかのような、それは歪んだ笑みを浮かべて勝ち誇ったようにヒールの踵を鳴らして去っていく自分よりもスレンダーな女。

「おい、大丈夫か?ウミ」
「うん……大丈夫……っ、」

 その時、不意にマーレの海の幸をふんだんに使った海鮮料理特有の磯の香りが仕立てられたドレスに染み付いた部分に触れた時。ウミは突然胸が焼けるようななんとも言えない不快な匂いに顔を顰め、その場に蹲るように込み上げる嗚咽に喉を抑えた。

 ぐらりと視界が傾く、しまった、気づいた時にはバランスを崩しかけた時、

「大丈夫ですか?」

 不意に、自分を支えた腕に気づいた時それはナイルではなく、ナイルより、いや、エルヴィンよりも遥かに上背のあるしかし、男性的ではないその腕の中で支えられていた。

 女性よりは低い、しかし、男性よりは高い中性的な声が耳元で響く。
 顔をあげれば自分をじっくり見つめる漆黒の闇が包み込むように。そして目線と目線がかち合った。

「こちらに来てください、せっかくあなたのために仕立てられたドレスがこのままではもったいない……」

 どうやら女性のようだ。驚きに目を見開くウミに上背のある女が駆け寄ってそしてさり気ない仕草で自分を連れ出してくれた。
 自分にとっては大きな出来事だったが、明らかに自分を狙いさり気ない仕草でぶつかってきたあの女が目立たぬように接近した為にリヴァイまでその声は届かなかったようだ。
 話し込むリヴァイは自分が今一番接近させたくなかった女がウミに接近し、そしてこの会場から連れ出してしまったことにも気付かず、話し込んでしまっていた。

 女がウミをエスコートするように連れてきたのはラバトリーだった。
 女はウミが手にしていたハンカチを洗面台で洗い流して絞ると丁寧に汚れた部分を叩き込むように洗い落として繊維にソースが染み込む前に対処してくれた。

「どうか、ご無理はなさらない方があなたのためですよ。……ウミ」

 うっとり、どこか心酔したような声調で、そっと甘く囁いたその名前はまるでいとしい人を呼ぶようにさえ感じられるし、そのまま引きずり込むような悪魔の囁きにも感じられた。
 どうしてこの目の前の中性的な妖しさを持つ女性は自分の名前を知っているのだろう、そしてこうして迫ってきたのだろう。

 ウミは思わずあの場から助けてくれた彼女から距離を取り、底知れぬ恐怖心を抱いた。

「……あなた、どうして、私の名前を……?」

 一瞬で怯えたような表情に変わってしまったウミの警戒を解くように、女は深々とウミに頭を下げた。

「初めまして。ウミ……私はイェレナと申します。エレン・イェーガーとそして、あなたに会うために……」
「え……その、どういうこと?」
「ジークから、あなた宛に手紙を預かって参りました。それでは、ウミ。また会いましょう、どうか、無理はされないように」

 漆黒のその黒目がちな瞳は何を見るのか。自分の手を握り、微笑みを浮かべて何倍も上背のある女はラバトリーから姿を消したのだった。

 そして、ウミは握り込まれるように渡されたジークからの手紙に書かれた内容を急いで見つめた。
 その手紙に書かれていた驚愕の内容は……。

 ▼

「何だ、ウミ」

 ウミがラバトリーから戻って来ると、いつの間にか音楽が流れており、誰もが音楽に身を委ねワルツを踊っているようだった。
 その音楽に導かれるように、ウミもその音楽に身を委ねリヴァイの手を引いて踊りの輪の中へ引きずり込むように手まねいた。

 もちろんこうして踊った経験などない。しかし、誘われるがままに愛する妻に促されアッカーマンとして鍛えられてきたからなのか、的確に身体はリズムを取り身ごとその輪の中に舞踏会に酔いしれる。
 ウミは言い聞かせるようにリヴァイに擦り寄るように不安をかき消して欲しいと願った。

「私、とても今、幸せなの……リヴァイと結婚できて、可愛い子供も、授かれて……どうか、このまま、時間が止まればいいのに……お願い、何も言わないで、今は……ただ、このまま音楽を聴いて、あなたと、踊っていたい……」

 リヴァイの胸に顔を埋めて、ウミは懇願した。そつなくこなしリズムを取りながらリヴァイは突然のウミの申し出を言葉なく受け止めていた。
 微かに繋いだ指が震えていたのはどうしてなのか。
 その時から既に繋いだ糸が綻びかけていたことにどうして気付かなかったのだろう。
 彼女の見せない涙の意味をリヴァイが知るのは。もっと先の未来だ。

2021.07.21
2022.01.30加筆修正
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