THE LAST BALLAD | ナノ

#102 優しい笑み咲く庭

 あの夢のような婚礼の日を終えて。季節はまた巡り行くうららかな昼下がり、微睡む春の風が心地いい季節になった。春の日差しを受けて微笑む小さな彼女の背中が今日はなぜかいつもよりも落ち着いて居るように見えた。

「検査の結果ですが、今後に差し支える後遺症や異常が無く、何よりです。今後も定期的に検診を受けてくださいね」
「本当ですか? よかったです……」
「はい、ですが、前回の出産の際、医者が来る前にまさか自分の手で取り上げてしまうなんて。私たちがすぐに駆け付けたから間に合いましたが、医療の知識があっても資格のない方が、まして今まで脳に大きな疾患を抱えていた人がそんな無理をするなんて……言語道断ですよ」
「それは……本当にすみません。病院に駆け付ける前に産気づいてしまったもので」
「これ以上の無理は、したら駄目ですからね。あの方が直々にこちらに来て「俺の妻をくれぐれもよろしく頼む」と。深々と頭を下げられてお願いされた時の事を今も覚えています。いいですね、あなたはもう一人の人間ではないのですから。悲しむ家族がいると言う事を、くれぐれもお忘れなく」
「はい、もちろん、です」
「約束ですよ、経過が順調だとしても。もうこれ以上無理はされないでください」

 最後の診察を受け、問題がないと言う事で今回で長年通い続けたこの病院、そして信頼できる女医ともしばらくは顔を合わせることは無くなると思うと、どこか寂しささえも抱いた。
 しかし、女医はむしろこうして互いの顔を見ずに済み事がいいのだと、微笑みながら命を守り抜いた小さな手を握り締め約束をした。

「それで……今後の経過もぜひ旦那様ともご相談の上でお越しくださいね」
「そ、それは……」

 すっかり通い慣れた病院の診察もこれが最後。親切な女医は相当無理をした筈の傷ついた自分の身体を毎月丁寧に診てくれた。そして、今日の最後の診察で身体には何の異常も見られないこと、後に影響をもたらす悪い後遺症もない事、そして、望むならば、もう一人、と彼女の心の奥底の願望を見抜いたかのように優しく微笑んでいた。

「兵士を辞めたとしても、戦う術を失ったとしても、ウミさん、あなたはこれからも戦い続ける事が出来ます。子を産み育てるのも、立派な務めですよ」

 その女医の言葉の意味を知るからこそ、ウミは思わず黙り込み頬を赤らめた。一度は捨てた筈の、しかし、いろんな偶然が巡り巡ってまたこの指には彼との揃いの指輪が煌めいてプラチナの輝きを放っていた。
 二度と諦めていた生まれ変わりでもしない限りは叶わない願いのかけらは今はこうして自分の腕の中に居る。

「早く、帰らなきゃ」

 今もリフレインしている、朝に妹のような存在の少女に託して離れたばかりの小さな命が自分を求めて泣いているのではないか、そんな気がして。
 見慣れた街へ馬車に揺られ、帰路につくと、かつて巨人により攻め滅ぼされた地区に再建した自分の家でもあり、そして今の自分の拠り所でもあるこの場所は自分が大金をはたいて再構築した大切な空間だ。

「ウミ。お帰り」
「ミカサ、ごめんね、遅くなって……あっ、」

 静かに、その意味を込めて短い黒髪に赤いマフラーがトレードマークの少女からすっかり成熟した美しい女性へと成長したミカサはそっと人差し指を立てたが、それよりも先に勢い余ってドアを大きく開けてしまい、大きな音を立ててしまい、その音と、聞き慣れた声が自分の「母」と認識しつつあるのか、閉ざされていたふさふさの長い睫毛が開かれてしまった。

「起きてしまった」

 大きなダークグレイの瞳とかち合い、その瞬間、その愛らしい無垢な目が弓のように細められて、そしてまだまだ頼りない小さな声で泣き出してしまったのだ。

「ああぁ……ごめ〜ん、ミカサ……お〜よしよし……泣かないで〜」
「……やっぱりこの子はウミじゃないと駄目」
「あっ、違うの、そんなことないのよ。ごめんねミカサ、せっかくの非番なのに子守を押し付けてしまって」
「いい。あなたの役に立てるのなら私は構わない。だけど、この子はずっと見ているとウミよりもリヴァイ兵士長によく似ているせいかもしれない、まるで兵士長と話をしているみたいに感じた」
「ミカサ……」
「あの人の遺伝子の方が強い……私は認めない」

 彼の名前を呼ぶ時、ミカサは少しだけ表情に陰りが帯びる。
 元々審議所での出会いが最悪だったのだ。エレンをパフォーマンスとはいえ容赦なく蹴りまくった彼をミカサは今も恨んでいる。
 きっと何年、時が流れても彼女の中には「しかるべき報い」は消えない。自分と彼が結ばれてこうして家族となってからも、多忙な彼に代わり104期のメンバーやヒストリアやクライス亡き後彼の子供を女手一つで産み育てているレイラが家族のように今回のようにどうしても子供を置いて出かけなければならない時も率先して面倒を見てくれていたのだ。

「ねぇ、ミカサ……その、ミカサはまだ、リヴァイへのしかるべき報いを考えているの?」
「もちろん、それとこれと話は別。例えウミと結婚して子供が生まれても私の気持ちは変わらない」

 彼女にも、自分にも、そして彼にも。自分達がかつて旧王政に対してクーデターを起こした時、自分達は同じ血が流れるこの壁の秘密を知る事で王に反旗を翻した一族の末裔として自分達の祖先は迫害され。絶滅しかけたアッカーマン家の一族の末裔であることが判明してから認識が変わった。
 希少な血が流れる自分達アッカーマン家の血を絶やさない為にその子孫の存続を自分達は課せられていた。
 同じ血が流れる、戦いに生きる種族。そして運命を共にする同族であると知ってもミカサは前よりは幾らか彼に対しても従順になったように見えたが相変わらず二人の仲はそんなによろしくはない。

 無理もない、ミカサの命でもある大切なエレンをボコったのもあるが、そのほかに彼は幼少時から親や故郷を奪われた自分達を見捨てることなく、むしろ中央憲兵の「犬」として、元調査兵団分隊長の誇りまでも捨て自分達を年の離れた姉のように接し、面倒を見てくれた自分達の大事な支えであったウミを自分達からこうもあっさり奪っていったのだ。

「私は、まだ認めていない」

 複雑な思いがあるのだろう。ウミと彼が結ばれ結婚した事で、尚更ミカサは彼の存在を痛烈に意識している。
 戦いが終わり、彼女が伸ばした髪を切ったのもアクシデントもあるが、より自分を彼の存在に近づけるために意識しての事だろう。
 彼女が伸ばした髪を切るたびに、この先に待つ戦いがどれだけ過酷な物か、「次の敵は世界」巨人と戦っていた過去の自分達がまるで遠い昔のように感じる。
 激化する戦い、その激しさをウミにも予感させるようだった。

「でも、この子に罪はない」
「ありがとう、ミカサ」

 大切で、そして憧れでもあった女性の背をとっくに追い越してもミカサはウミを慕ってくれて、しょっちゅう任務や非番の合間にトロスト区からはるばるここ、シガンシナ区まで来てくれた。
 ウミは自宅を再建したが、ミカサ達はもうこの家を再建することは無いのだろう。
 そんなウミがごく自然な成り行きで彼との間に宿した最初の命。

 彼との間に命を授かり、この腕に抱いた愛らしい命、しかしこの命は一度目ではない。
 自分の身体では二度と子供を授かることは無いと、そう言われていた。諦めていた。かつて調査兵団の分隊長として駆けていた頃、同年代の女兵士と比較して自分は女性としての当たり前に成長過程で備わる子供を宿し産むために欠かせない器官が平均の女性と比べて発達や成長が極めて遅れていることに気が付いた。

 しかし、だからと言って兵士である以上、兵士を辞めるなど、自らこの翼を折ることなど不可能。不規則な生活をどうにかしようと、考えた事も、改善する気もなかった。
 だからこそ自らの人生を諦め、これ以上彼と家族になる事も未来さえも描けないなら、と、突然彼の前から姿を消したのだ。
 自ら彼との別離を望んだのもあったが、今自分は13年の命と引き換えにこうして今も生きながらえ、念願だった彼との間に再び命を授かる事が出来、そして多くの兵士達が散っていったこの故郷の地に再び居住を構え、亡き母を弔い店を開いて暮らしている。

「よ〜し、寝た寝た。いい子、いい子、おりこうさん……次のご飯の時間までまだ大丈夫だから、そろそろお店の開店の準備を始めないとね」
「私も手伝おう」
「あぁっ、いいのミカサ、大丈夫。この子も泣き止んで今ちょうどねんねしてくれたし、あなたは明日からまた訓練漬けの日々でしょう? 食事を済ませてから早めにトロスト区に戻りなさい」
「けど、」
「今日はあの人が来てくれるから……それに、彼も来てくれる。ここで待って居たいの」

 ウミが嬉しそうに頬を染めて、そして歌うような唇から零れたあの人、その言葉に感じた思いをミカサもきっと口にしなくても伝わり、そして心が知っている。

「そう……」
「うん、」

 彼女はにっこり微笑むと、その幸せな笑みの向こう側にある彼を思っての笑顔なのだと感じていた。
 人を愛することの意味を、彼女は教えてくれる。愛とは、とても尊いものなのだとミカサはエレンに対する感情を家族へ思いとそう、錯覚していたが、ウミの子供を預かっている間、もしこの子供が自分と彼との間に生まれた子供だったら、と、そう考えている間に、寄りかかる幸せがそこに存在していることを感じた。もし、彼といつか自分との間に子供が宿る、それも決して悪くはないと言う事。

「ねぇ、ウミ、子供って、本当に、その仕組みで本当なら、出来るの?」
「えっ、ミカサ!?」
「私もそうやって生まれてきたのなら、それを知りたい」

 黒目がちのミカサの純粋な眼差しに真顔でそう、問いかけられ、ウミは思わず抱いて居た娘をうっかり落としかけそうになったが、彼女も自分達が結婚した事で何か心境の変化でもあったのだろうか。兵士として生きるために伸びた髪を今度は最も自覚切り落とした彼女の心の底はよく見えなくても、幼い頃から言葉数が少なくても自分の背後を突いてきた彼女がすっかりこんなにも美しい女性へと成長を遂げ、ゆくゆくは自分と同じように心から愛する人と結ばれてほしいと願いウミは彼女の手を取り微笑むのだった。

「こんにちは〜」
「あっ、来た来た、こんにちは! 今日もよろしくお願いします」
「勿論ですよ、ウミさん。むしろ、こちらこそよろしくお願いします」

 その時、二人の会話を裂くように突如として階下の居住区の下に構えた彼女の店があるドアのベルが鳴りそして開かれた。階段を駆け上がり居住区に顔を見せた2人の前に姿を見せたのは上背のある、細身の、快活そうな青年。

「(あの男……)」

 まるで大きな犬のように駆け寄る姿、無邪気で人懐っこい笑顔、ミカサはウミがこの店もだいぶ人が来るようになり、男手が欲しいと言う事で雇ったと話す青年の姿を見てもし自分が一発蹴りでも見舞えば骨の一本どころか二本、折れるどころか砕けるのではないかと錯覚する程に細身の彼がやたら馴れ馴れしく雇い主でもあるウミに絡むのが正直好ましく無かった。
 お互い結婚して信頼しあっている仲であの男はこの男に対して何とも思わないだろうか。下手したらこの男の方がウミと過ごす時間が長いかもしれないのに。

 ▼

 まだシガンシナ区の整備が終わりかけの頃はなかなかここに戻る人間はそう多くはなかった。しかし、ウミはそれでも店の経営を続け、気付けば数年が経過し、調査兵団が次々と新しい兵器や、マーレから亡命してきたイェレナ達からもたらされた技術で飛躍的に壁内のこれまで止まっていた文明は急速に発展していた。

 ウミがシガンシナ区で構えたこの店も、リヴァイと彼女が結婚したとの号外が出回ればあっと言う間にあの「人類最強」の妻が経営する店と言うこと、そしてその妻も元調査兵団の精鋭と言うこと、ストヘス区での中央憲兵とウミとの戦闘を見ていた人物もおり、瞬く間に店は繁盛しあっという間に忙しくなり、子育てと仕事の両立も厳しくなってきたころにウミは新しく人員を雇った。

「いらっしゃいませ〜」

 明るく、若々しく愛想も良く力仕事も出来る男性の手が欲しかった。しかし、クーデターの際に自分達の罪の潔白を投げかける際に協力してくれたのが縁で調査兵団お抱えの新聞社となったストヘス区・ベルク新聞社へ求人を依頼し募集をかけてもやってくるのは既婚者となり自分の最愛の夫でもある「人類最強」に彼が自分の伴侶でも構わない、何ならお近づきになりたいと擦り寄るような魂胆見え見えの人間ばかりで。
 うんざりして生まれたての子供を見ながらの仕事にふらふらになっていたそんな時、チラシを見てたまたまやってきたのは将来自分の店を持ちたいからと経験と積みたいと志願した好青年だった。

 彼は物覚えも良く、臨機応変に柔軟に対応が出来る器用な性格と持ち前のその人を寄せ付ける人懐っこい笑みで店の新しい顔となっていた。
 色んな呑み込みも早く、彼はあっという間に子育てに追われるウミに欠かせない人物として店を一緒に守ってくれるようになったのだ。

「ごめんね、そろそろ子ども寝かしつけて来るから、お店の方よろしくお願いね」
「ウミさん、」

 今日も店は大繁盛。最近では彼目当てにやってくる女性のお客様も増えた様な気がする。時計と睨めっこしながら時々店を抜け出し二階で寝ている大事な彼との間に授かった赤ん坊の様子を見に行く日々の中、今日も彼に店を任せて二階へ行こうとした時、彼がこっそりウミに耳打ちしてきた。

「これ、後で食べて下さい、ほら、今日はウミさんにとって、大事な日ですから」

 そして、突如呼び止めてきた彼がこそこそ内緒話をするように。身長差があるのでどうしても屈まないと目線が絡まないのだ。そして、ウミにさりげない手つきで手渡してきたのは今までは滅多に食べられなかった高級品・生クリームや果物をふんだんに使った彩の豊かなケーキだった。

「わぁ……ありがとう、すごい、美味しそう……!!」
「いえいえ、いつもお世話になっていますので」

 そんなことは無い、むしろ彼の世話になっているのはこちらの方なのに。普通なら子育てと並行して店を経営するなど産後間もないボロボロの身体には酷だと言うのに、それでもウミは店を続けようと模索する中で助けてくれる彼に感謝してもしきれないのに。彼は店主であるウミの誕生日が今日だと覚えていたのだ。

「改めて。お誕生日おめでとうございます、オーナー」
「うん。ありがとう、大事に食べるね」

 いつも誕生日には104期のメンバーから、そして昔は合同で誕生日会を開いていた自分と数日違いで誕生日になる30日生まれのエレン。そしてアルミン・ミカサの三人から。
 そして前のように頻繁に会えなくなってしまった公務で多忙なヒストリアや14代目団長として忙しいハンジも欠かさずに贈り物を届けてくれた。
 驚いたことにイェレナはわざわざ多忙な合間を縫って大きな花束を抱えてお祝いに駆け付けてくれた。
 誰もが今日の自分の生まれた日をどんなに忙しくても、きちんと覚えてくれてそしてお祝いのメッセージをくれる。
 だからこそ、ウミは信じて疑わなかった。期待に震える胸、あの逞しい腕に抱き締められたときに感じる多福感。
 共に将来を、未来を誓い合い、そして結ばれた。彼と築き上げてきた今がある。きっと彼は来てくれる。と、そう信じて疑わなかった。

 用意してくれた誕生日ケーキ。そして今日もまた多くの客が飲食を楽しんだ店を閉店した後もウミはそう信じてすやすやと眠る、自分が想像を絶する痛みの中で命懸けで産み落とした子供を腕に抱いてゆらゆら揺れていた。
 しかし、そんなウミの抱いた淡い期待は無情にも打ち砕かれ、待てども待てども彼は一向に姿を見せる気配の無いまま、空は白く染まり、そしてまた同じように夜明けを迎えたのだった。

「お〜よしよし、泣かないで……ママはここだよ」

 そしてまた始まる子育てと仕事に追われる日常がやってくる。確かに時折合間を見て誰か知ら様子を見に会いに来てくれるが何よりも、誰よりも来て欲しい相手程、なかなかこちらまで顔を見せてくれないことに対してウミは言葉にしないようにしていた。
 だが、せめて、昨日の誕生日だけは、来て欲しかったと、心から思わずにはいられなかった。
 彼も兵士長として多忙な身で、それにこれからは港が出来た事で外交も盛んになる中で彼の存在は調査兵団。いや、この壁内人類にとっての英雄である彼が必要な存在であることは言われなくても重々承知の上。
 きっと任務か何かで忙しくて来れなかったのだろう、そう言い聞かせていつも我慢していた。だけど、昨日だけは。喧騒に追われる自分の中で昨日はいつもの日常で終わってしまうのが悲しかった。

「(私、何の為に……彼と家族になったんだろう……これじゃあ……)」

 これでは一人でほとんど過ごしていたあの頃を何も変わらない。変わったのは左手の薬指にきらめく指輪の存在、だけじゃないか。
 俯くウミに腕の中の赤子にもその不安がダイレクトに伝わったのか赤子はお腹いっぱいでおしめも変えたのになかなか泣き止んでくれない。この時間ならいつもぐっすり寝てくれるのに。

「もぅ……何で泣き止まないの……ミルクもおしめも足りてるはずなのに……」

 真っ赤な顔で泣きじゃくる赤子を少し乱暴にトントンと叩きながら寝かしつける自分の顔が今どれだけ歪んでいるのか、ウミはだんだんとこの離れ離れの生活に嫌気を感じていた。

「(分かる、分かっているよ。あなたが調査兵団にとって必要不可欠な存在だって事も、だけど、じゃあ……。私とこの子はどうでもいいの……?)」

 仕事と私、どっちが大事なの?
 だなんて、よくある陳腐な台詞を彼にぶつけた所できっと彼は呆れたようにあの目つきを鋭いものにしてしまうに決まっている。彼にぶつけたい本音が脳内を駆け巡ると、ウミの頬を熱いものが伝い落ちた。

「っ……お願い、泣かないで……」

 まるでこの世界に自分とこの子だけが投げ出された気分になる。もしいつか本当に曽於遠くないその未来が来たら?自分はこの子を食べさせて行けるだけのキャパがあるのだろうか。今でさえ泣き止まなくて内心苛立ちと不安を抱え尚更それが悪循環となり泣かせてしまっている現状で。

 彼は兵士長。自分達家族もひっくるめてこの島の国防を常に考え、新兵器の開発や実験で彼はたびたび長期にわたり帰ってこられなくなる。
 常に死と隣り合わせの危険な最前線にいる。これからは巨人だけではなくこの島を狙う国々との戦争が待っているのだ。もう巨人との戦いの時代は終わりを迎え、ミカサでさえも髪をさらに短くしたことでこれからはもっと激化する戦いが待っている事を薄々と肌で感じているのに。

 不安に震える背中、流れる涙を止めようとしても一度堰を切ってしまい溢れ出す涙を拭う余裕もない。涙が次から次へと溢れて泣き出す始末のウミ、ぐすぐすと赤子の鳴き声に合わせて声を押し殺して泣き崩れるのだった。

 ▼

「……あ……?」

 一方で、将来を誓い合い、二度と泣かせないと誓ったウミが一人懸命に生まれた子供を抱いて誕生日だと言うのにその事も忘れて来てくれないと、一人で子供を育てている錯覚と不安で泣いている事もつゆ知らず、いつの間にか器用に狭い椅子の上でふんぞり返って束の間の微睡みの中に居た人類最強と呼ばれ恐れられている男が不機嫌そうな声を発して目を覚ます。

「クソ、いつの間にか寝ちまったみてぇだな」

 まだ中途半端に中央憲兵の対人立体機動装置からヒントを得て開発した新兵立体機動装置の詳細もまだ目を通していないのに。
 片付けても片付けても大量の書類の山に追われ、日々の鍛錬で酷使している身体は疲弊していた。

「あれ、リヴァイ、兵長?」
「あ?」
「え??? あれ……リヴァイ……え? 何で??」
「あ? ここは俺の部屋だ、居たら悪いのか」

 ひとまず風呂にさえ入っていない状況で。この穢い身体でもさっさと寝不足と共に洗おうかと部屋と出れば、偶然廊下を歩いていた寝間着姿のハンジと、そんな彼女を起こしに来たのか今では亡きモブリットの代わりを立派に勤める程になったジャンが部屋から出て来た自分をびっくりしたような顔で見つめていた。


「ええっ!! やだ、ちょっとリヴァイ!?」
「何だよ、朝っぱらからうるせぇな。ジャン、てめぇもそのマヌケ面は何だ」
「いや、うるさいじゃないよ、あんた、昨日行かなかったの?」
「あ? どこにだよ」
「何って……も、もしかして……!!!」

 寝起きのハンジも自分の顔を見るなり、抱いて居た眠気などどこかへ吹っ飛んだとでも言わんばかりに飛び上がり、酷く真っ青な顔で自分を見ているではないか。
 疑問を抱くリヴァイにハンジは怒ったような声調で叫ぶ。

「ちょっと、もう、あんた!! 昨日が一体何の日かまさか忘れたわけじゃ無いだろうねぇえええっ!?」
「あ? てめぇ何だいきなりあんた呼ばわりしやがって」

 そして、リヴァイはハンジに提示された暦を見せつけられ、そして、ぐるっと囲まれた大きな丸。囲まれたその「27」という数字にようやく自分が重大な過ちを犯していた事に、気付くのだった。

「リヴァイ……私も君につい頼ってしまって、ウミも子供産まれて店も切り盛りして大変なのに申し訳ないと思って非番にしてたんだけどまさか居眠りとはね、ウミの楽しみは君とアヴェリアと家族の時間を過ごすことなのに。ほとんど家に戻ってないんでしょ? 確かにあの子は純粋だし君の事が今も大好きだけどね、でもね、女は放置したらどうなるか、ウミだってわからないよ? 最近ウミが人手が足りないからと雇ったあのいけ好かない好青年にこのままじゃ寝取られちゃうよ? いや、人妻が理不尽に若い独身男性に組み敷かれるシーンとかオカズに見てみたいけどさ」
「てめぇのズリネタに俺の嫁を使うんじゃねぇよ巻き込むな、それにあいつが俺以外の男と寝る訳ねぇだろうが」
「いやぁ、君がそんな調子だと分らないよ、まさか誕生日をすっぽかすとは……釣った魚に餌をやらないなんて……女は寂しさから浮気に走るんだよ。本当にどうなっても知らないからね……」

 連日の睡眠不足や疲労がたまって居眠りをこいていたなんて、口が裂けても言えない。ハンジに朝っぱらから思いきり蹴られる勢いで今日明日非番にするからさっさと贈り物でも買って謝りに行け!!と怒鳴られ、リヴァイは昨日の格好のまま急ぎ馬車に乗りシガンシナ区まで急ぐのだった。

 ▼

 トロスト区からウォール・マリアの東に突出したシガンシナ区までの道のりは思った以上に時間がかかるものだ。立体機動を使うわけにもいかないし、馬車を乗り継いでそれでようやくと言ったところだ。運航している蒸気船に乗りようやく何度も訪れてたあの時の決戦の舞台からすっかり平穏を取り戻し活気あふれるシガンシナ区。彼女の生まれ故郷に辿りついた。

 彼女が自らデザインした看板が見える。ドアノブにはcloseの札、慌てて購入した花束を手にらしくないと笑われても構わない。愛する女の誕生日を忘れるなど言語道断。まして、自分は数カ月前に迎えた誕生日の際は彼女にありったけの愛を貰ったと言うのに。

 恐る恐る扉を開けると、店のカウンターでウミがあの線の細い男に抱かれていたのだ。閉店後で朝日だけの射しこむ暗い店内のその一角、絡み合う二人の男女のシルエットが生々しく浮かび上がり、リヴァイは思わず持っていた花束を落とした。

 ウミはこちらに背を向けた状態で、彼女の滑らかな背中から腰のラインまでが見えていた。自分だけしか知らない筈の彼女の身体。何度も口づけ何度も抱いた曲線が惜しげもなくさらされている。そのまま腕の中で揺さぶられて普段纏めている彼女の髪はその男の手により下ろされ、緩やかに広がってまるで絨毯のようにその男に絡みついていた。

「好きだ……ウミさん、」
「駄目っ、そんな、そんなの……私には、心に決めた人が……子供だっているの」
「いつも傍にいない男が大事なの? 俺なら、絶対あなたみたいないい女性、二度と離さない、もし抱けるのなら一生繋がったままでどこにもいかせたりしないのに、あの男は馬鹿だ、俺なら、君を誰よりも幸せにするし、子育てだって喜んで協力するのに、ウミ……」

 求めるように、差し伸べた腕を迷わず自分以外の男の首に絡めて、うっとりとした恍惚の表情で彼に抱かれ、ウミは涙交じりの眼差しを快楽に染め、柔らかな唇からは歌うような甘い声を発していた。ウミの声が鋭さを増す、激しく揺れながら――キスをする二人の光景にリヴァイは鈍器で頭をぶん殴られたような衝撃が走る。ウミは自分だけしか知らない声で、自分だけが見てきた細身だった身体は産後肉付きが増してそれが何とも言えない色かを醸し出してた肢体を惜しげもなくその男に晒し、そして、何度重ねて、そして口づけていた肌を、自分以外の自分が蹴っ飛ばせば折れてしまいそうなひょろひょろの男に晒している姿をまざまざと見せつけられた男はただその場に茫然と立ち尽くして、ただ、ただ、その許されざる情事を覗き見ていたのだった。

「リヴァイ兵士長、着きましたよ!!」
「は――……」

 その時、突如聞こえた声にリヴァイは伏せていた瞳を思いきり見開いた。まるで自分が心の底から今殺したいと、ただ一心にその思いだけで鍛錬へ突き動かすあの「獣の巨人」と再会した時のように。心臓がやけにうるさく鳴り響く。そして、湧き上がる怒りと絶望の中であれは自分の夢が見せたもうそうだったと気付きようやく安堵した。生唾を飲み込み、リヴァイは馬車に揺られながら思い切り肩を撫で下ろした。

「(あれは束の間の夢か、夢でよかった……)」と、

 そもそも、リヴァイは頭を抱えた。全てはハンジが悪い。嫌な妄想をけしかけ、そして自分にその妄想を抱かせたのだから……。ウミが自分以外の男に抱かれて喜ぶ彼女の顔など一生見たくも無いし、想像もしたくないのに、まるで自分が望んだような残像。駄目だと拒みながらそれでも自分が与えた快楽だけを享受するように招き、そして互いに開いたのだ。あの未熟な身体がどんどん女に代わるさまをこの目で見てきた。自分以外の男に心を許す隙も与えない程に自分だけしか見れないように。だが、あの思い出したくもない映像が頭から離れない。今回はハンジのせいで見せられた嫌な夢で済んだが、この嫌な感情は紛れもなく本物だった。
 彼女が他の男に抱かれる、嫌悪感しかない。その悪夢がいつ正夢になるとも限らない……純粋に、リヴァイは嫌だ、そう感じて、そして不安と焦燥感に押し潰されそうになる。

「(あの子は、俺のだ、俺だけの女だ、)」

 離れてこうしてそれぞれの道を歩んでいるが心ではいつも繋がっている。この指輪が何よりの証。だが、時々それでも不安になることがある。

「(俺はたとえ相討ちとなってもエルヴィンとの約束を果たす……獣の巨人を殺す。その目的に生きる俺と、子供を産み育て、平穏な暮らしをするウミに俺よりもあの男の方がまだ……あいつに相応しいんじゃないのか……ロクにここに帰っても来れない俺よりも)」

 リヴァイは不安を抱いたまま馬車から降り、急ぎウミの待つ家へ向かった。家に駆けこむなり、いつもと変わらぬ笑顔で迎えてくれたウミに安堵するが、しかし、いつもと違うような気もして。柔らかな雰囲気を纏うウミへリヴァイは謝罪を込めてそっと彼女をイメージして選んだ花束を「柄にもない」と、恥ずかしそうに笑われながらも喜んでくれたその手に差し出した。

 ▼

「そんなに謝らないで。誕生日なんて毎年必ず来るものでしょう? 仕方ないよ、お仕事だったんだもん。リヴァイ、忙しいし、仕方ないよ」

 仕方ない、仕方ない、そう言いつつも、立体機動装置のブレードよりは小さくても殺傷能力の高い肉切り包丁を握り締めた彼女の顔つき、纏う空気にはどこか恐ろしいものがある。いつも微笑みを絶やさないウミ、しかし、今はその笑顔がたまらなく恐ろしく見えるのは何故、なのか。

「オイ、何だそれは、」
「これは……羊の腸にひき肉やスパイスを練り込んだものだよ。ぶっとくておいしそうだよ……ねっ」

 おもむろに彼女が取り出したのは何やら太くて長い見るからにグロテスクだが、これを焼いたりゆでると酒に合う美味いつまみになるらしい。それを切り離すようにダァン、ダァン!! と勢いよくまな板の上に転がし、そして粉々にみじん切りにされていく太い羊の腸詰めの肉はまるで……本当に人類最強なのは彼女なのかもしれない。

「どうしたの?」
「痛そう……だな」
「ん? あぁ、大丈夫よ、一瞬で切って見せるから」
「そうか」

 彼女は自分に対して決して不満を口にしたり、態度には見せないが、だがきっと内心色んな感情が渦巻いているだろう。
 本当は何もかも自分にぶつけたいのにそれでも自分を気遣って敢えて口にしないのだ。そして背中に負ぶっている小さな命の為にも、此処で自分と不毛な争いはしたくないと堪えているそのもやもやを料理にぶつけているのだと思って、リヴァイはそんなウミの言葉にできない思いを普段戦闘で発揮するそのいついかなる時も冷静に判断し、そして時には仲間を見捨てる事も厭わない決断力を持つ男の洞察力で察して、そして何も言わずに料理をするウミと背後にオブられすやすやと眠る赤子ごと背後から抱き締めた。

「ウミ……俺が悪かった、許してくれ……」
「……っ、」
「愛してる……俺にはお前しかいねぇ……」

 そっと彼が抱き締めたウミの肩は、微かに震えていた。寂しい、つらい、そんな感情を兵士でもある自分には決して口にしないが、その眼差しがどれだけ自分と会えない日々、孤独の中で仕事もして、家の事もして、それでも家族である自分は頻繁には帰って来れない現実。
 この世界を守るために兵士として自分が果たさなければならない責任は重い、家族も守りたい、しかし、その家族を守るためにはまずこの島を守らねばならない。
 孤独の育児がどれだけ、ウミにとって寂しいのかリヴァイにはわかった。そんなウミの不安を子供はダイレクトに感じて余計にグズグズが酷いとミカサから恨みがましく言われた。
 いつも寂しい思いをさせている自分、これからはもっと頻繁に休みを利用して彼女と子供との時間を作ろうと改めて決め、そして二人は再会を噛み締めるように抱き合い、当たり前のように口唇を重ねた。

「リヴァイ……あなたの思いはちゃんとわかっているから」
「ならその腸詰を力任せに切り落とすのはやめろ、見てるだけで不安になるだろうが……それに、さっきからそこにおいてあるその食いモンの切れ端はなんだ」
「お店を手伝ってくれてる子がわざわざ用意してくれたの。少しあるから一緒に食べる?」
「あのガリガリの優男か……(要らねぇ)」
「どうしたの?リヴァイ、」
「あの男が……いなくても店出来るだろ」
「え!?」

 つい、咄嗟に。疲れていたのもあるが、リヴァイが口をついたのはその言葉だった。
 ハンジがあんなことを言うから、頭の中ではよからぬ不安が巡っていた。それとも先程の妄想が五日現実になるんじゃないかと不安になっているのかもしれない、離れているからこそ、リヴァイの胸中にも不安な気持ちが常に付きまとっている状態である。

「それは無理だよ……あの子もシガンシナ区で巨人の襲撃に巻き込まれて家族を失った子なの。後々はお店を出したいとかで、お金が必要なんだって、それにここでなら料理の下積みも一緒にできるって事で何でも引き受けてくれてるの、孤児院で赤ちゃんの面倒も見てきたからこの子のお世話もしてくれる……それに、リヴァイが思うようなことは何もないよ、」
「違う、そうじゃねぇ、お前は何もわかってねぇ」
「何が?」

 ウミは、自分があの男と何か起きるのではないかと警戒していると思って心配しないでと言っているのだろうが、ウミがあの男に対して先ほど自分が見た妄想のようなやましい気持ちが無いと言え、それよりもあの男が彼女をどうにかするんじゃないかと言う不安の方が大きいと思ってそう言ったのだが。

「もしその時点で何か起きたなら、即刻クビにしてる、一発ぶちのめしてからね。それにあの男の子なら……問題ないのよ」
「あ? どういう意味だ??」
「きゃあっ!! り、リヴァイ兵長!? ほ、本物の……人類最強」

 荒々しく唇に噛みついてくるように口づけてきたリヴァイのキスを受け止めながら仲睦まじく抱き合う2人の前に例の青年が姿を見せる。

 抱き合う2人がこれから今にもこの場で再会とこれまでの色んなものを隔てて抱き合おうとしても逃げたり立ち去る事もなく。明らかにリヴァイを見ている。
 何やら様子がおかしい。鋭い眼光で睨みつけてくる自分を前にしても彼は決して怯えたり逃げたりしない。
 そもそも、リヴァイが警戒するよりもウミに興味を持ち近づく男などこの島には存在しない。
 二人の結婚式により結ばれた事はこの島の人間なら周知の事実だ。
 人類最強の妻である彼女を奪おうとする人間などいないだろうし、彼はこの壁の英雄として羨望の眼差しを一心に受けて、だが、そのお世辞にも近づきがたい風貌で周囲からは恐れられているのもまた事実だ。だと言うのにも拘らず青年は嬉しそうに自分達の元へ駆け寄ってきたのだ。
 子犬みたいに、瞳をキラキラさせながら。そして青年は嬉しそうにリヴァイの両手取り、微笑んだのだ。

「あの、俺、リヴァイ兵長の大ファンなんです……もちろんこんなにも素敵な奥さんに可愛い子供がいらっしゃるのは分かってるんですが、その、トロスト区に帰還した時壁上やストヘス区での戦いの時にストヘスサカバで見かけた時も、あなたの強さと逞しさと、間近で見ると本当にきれいな顔、ですね……」
「オイ、やたら顔を近づけて来るんじゃねぇよ」
「あっ、す、すみません……つい、好きな人を前にしたら嬉しくて!!」

 その言葉にはかつて地下で暮らしていた時に何度か耳にしたことがあった。笑いをこらえて微笑むウミ。
 リヴァイは全てを察する、その目に見つめられた経験が今回で初めての経験ではないからだ。

「てめぇ、まさか……」
「ハイ、俺、隠してたんですが、女性じゃなくて、本当は、男性が好きなんです、特に……リヴァイ兵長のような強い男性が……それで、その話を奥さんに打ち明けたら喜んで雇ってくださって……」

 うっとりした目で。明らかにその目は今まで浴びてきた目線と同じだ。
 そういう意味だと理解した時には、リヴァイは男性を雇うなんて何か起きたらどうすんだと、自分と朝まで夫婦喧嘩となり、その光景を見かねたハンジが喧嘩両成敗だと乗り込んで来た時も頑なに自分と青年に過ちが起きる訳など決して無い、絶対大丈夫。だと、豪語するようにそう言い張ったウミの言葉の本当の意味を、知るのだった。

2021.03.27
2021.06.17加筆修正
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