「リオンに恋した」
「持ってきたよ!」
肘で何とか扉を開きながら、私は抱えている牛乳パックやプリン、ビスケット、そして小魚の入った袋を床に置いた。それに真っ先に反応したのはフィーデスではなく、一匹の黒猫。
「わ、海ちゃん、ばっちりじゃんか!リオンも喜んでるし!」
「これで大丈夫だったかな?」
「大丈夫大丈夫!ほら、早くミルクあげようよ!さっきからお腹空いてたみたいでさ」
フィーデスの言うとおりらしい、黒猫──私達がリオンと名付けた小さな子猫は不満そうな鳴き声を上げる。そうだね、と呟いてから、私は中指と薬指に挟んで持ってきた皿に牛乳を注ぐと、リオンに差し出した。
「はい、ミルクだよ」
「にゃあー」
「おいしい?」
我慢の限界だったようだ、リオンは皿に飛びつくとミルクを舐め始める。その愛くるしい様子に私もフィーデスもとろんとした目をした。
「可愛いなあ」
「やっぱり拾ってきて良かったね!」
「一人じゃ可哀想だしね」
事の発端は、私とフィーデスでマリアンのおつかいに行ったときに、人通りの少ない通りで子猫を見かけたことだ。普通の子猫でも可愛らしいのに、その子猫は何とまあ、黒い体毛に紫色の目をした可愛らしい猫だったのだ。更に、私達に懐いてしまったらしく、私達の足に顔を何度も擦り付けてきたのである。
子猫を置いて帰ることは、私達に愛を示したリオン・マグナスを一人にすることと同じように思えたんだ。
それで、ヒューゴには勿論、人間のリオンにも秘密で屋敷に子猫のリオンを連れ帰ったのである。とりあえずお腹が空いていたみたいだったから、人参とピーマンは避けたおいしいものを持ってきたら成功だったみたい。子猫のリオンは満足そうな鳴き声を上げると丸まってみせた。
「海ちゃん」
「うん?」
「この可愛らしさ、耐えられないね!」
「可愛いよね!でも、エミ──じゃなくて、リオンにばれちゃったら怒られるよね?」
「んー、一番それが問題だよね」
リオンの背を撫でてやりながら私も小さく唸る。ここまで愛着が湧いてしまったんだもの、叱られて捨ててこいだなんて言われたら絶対辛いに違いない。
「フィーデスちゃん。この部屋にヒューゴもリオンも、マリアンも絶対入れないようにしなきゃ」
「だね」
「二人で頑張ってリオンを守り抜こうね!」
ね、リオン。小さく呼びかければ、リオンは小さく欠伸をしてみせる。その様子があまりに可愛くて、私達は疲れも忘れてリオンに魅入っていた。
それが二日、続いた。最近、海とフィーデスの様子がおかしい。
朝食に殆ど手をつけず、世界の終わりを迎えるような絶望的な表情で並んで座っている二人を、僕は遠くを見るふりをして観察していた。海もフィーデスも大好物を残しているし、唯一空けた皿はパンプキンスープの入っていたものだけだ。僕が機会を見計らってデザートのプリンを盗っても何の反応もしないし、人参とピーマンを彼女達の皿に入れても同様である。
奇妙な点はそれだけではない。
夜中に小腹が空き廊下に出てみれば、海とフィーデスの部屋の電気が点いている。台所から戻ってきても消えていることはない。声がするかといえばそうでもなく、人間らしからぬ奇妙な声が時々聞こえるだけだ。
最後に一番の重症だと思われることを、一つ。
「エミリオ……昼間は人間なの……?」
死んだ目で言い放った海の言葉である。
全くもって意味不明だし不愉快だ。客員剣士として何か不服な点があるのなら僕に言えば済む話だし、僕が人間に見えなくなるくらいにまで病む必要だって無いはずである。書類処理中にも海とフィーデスのことが気にかかったせいで、書類が修正液だらけになってしまった。
実に、不愉快だった。
『だからって、可愛い女の子達の部屋を覗く十六歳が何処にいます!?』
「此処にいるだろう」
『坊ちゃん!意味分かってます!?そういうの変態って言うんですよ、ヘンタイ!』
「僕は変態じゃない。それに、変態なら上を行くソーディアンがいるだろう」
『坊ちゃんの馬鹿!今はあいつは関係ないでしょ!?』
海とフィーデスの部屋に入ろうとすれば怒鳴り始めたソーディアン、シャルティエ。今に始まったことではないがこいつは本当に煩い。
僕は小さく溜め息を吐くと、短く叫声を上げるシャルを余所に言葉を続ける。
「あいつらが妙な薬でもやっているせいでおかしくなっているのだとしたらどうする?僕は王にもヒューゴにも何と説明すればいい?」
『まあ……確かに、海もフィーデスも様子が変ですもんね。仕事は今あまり多く入っていない筈だし、仕事で病むとは思えません』
「そういうことだ。変態なことを考えるのはシャルと“あいつ”だけだからな」
とどめを刺すが如く冷たい声で言い放てばコアクリスタルが光らなくなる。どういった事情か聞いている場合ではない、僕は右手をノブに掛けたまま左手でノックをした。予想通り、一回目のノックで反応してくれなかった。ノックなどしている場合ではないかもしれないが、一度だけのノックで無許可で入るほど僕は野蛮じゃない。もう一度ノックをすると、今度は声を掛けた。
「海!フィーデス!いるなら返事をしろ!」
「エミ──きゃっ!」
「大丈夫!?リオン、まだ入って来ちゃ駄目だからね!」
「どうしよう!?」
「此処に……」
僕に聞こえぬよう話しているのだろうが丸分かりだ。額に手を当て呆れながらも、僕はあれだけ病んでいた海とフィーデスの声が至って普通なことに驚いた。
やはり薬なのか?今隠している途中なのか?
確証もない上に海もフィーデスも女である。僕が男であるばかりに余計な勘違いをされては困るのだ。仕方なく二人の許可を待てば、騒々しい物音が何度も繰り返された後に漸く部屋に招待された。
見事なまでに片付いたカーペットの上。机。それらも奇妙だが、本棚には幾つもの傷。空気を食む獣の臭い。床に零れ乾いた液体の跡。
そして、顔色が良くないくせに笑みを貼り付けている二人の客員剣士達。
「……単刀直入に聞くぞ」
「な、なあに?」
「お前ら、僕に何か隠しているだろう」
「あー……」
「二人とも元々この世界にいるわけではないから教えてやるが、麻薬は客員剣士といえども終身刑に値する。隠そうとしても無駄だぞ」
「ま、麻薬!?」
酷く驚いた顔をしたのは海だ。やはり何か隠しているらしい。僕は海の前に立つと、すっと目を細めてみせる。
「やはり麻薬か」
「ち、違うに決まってるじゃない!リオンのバカ!」
「ならどうして異様に反応を示した?麻薬でないなら何を隠している?そこまでお前等を病ませているのは何だ?」
「……」
「いい。答えないのなら僕自身が探してやる」
麻薬より危ないものを隠し持っているのだろうか。僕は正義感に駆られて、というよりは、二人に対する刑罰や体の状態の方が心配だったのだ。如何にも怪しい段ボール箱の塔を崩し、ひっくり返してあったゴミ箱を再びひっくり返せば、咄嗟に何か黒いものが飛び出した。
「わ、リオン!出て来ちゃ駄目だよー!」
「……」
「海ちゃん!」
「あっ……」
「……そうか。この猫の名前はリオンというのだな?」
麻薬かと心配した。言いたくても言えないような辛いことを抱えているのだと思った。結局僕は僕と同じ名前の猫に踊らされたわけだ。フィーデスが腕に抱いている黒猫がこの部屋に来た成り行きを聞いたが、部屋に入る前の覚悟が覚悟だっただけに脱力感が大きすぎた。
この二人は黒猫の“リオン”が可愛いばかりに毎晩観察し、遊び、夜更かしをした挙げ句食欲まで失ったのだ。全てを知った上で海の奇妙な発言を考えれば意味が分かる。ここ数日、リオンという固有名詞は僕でなくこの憎たらしい子猫を指していたわけだ。
ああ、真実が分かったというのに。薬ではなかったことに安心するべきなのにやはり襲い来るのは不快感だ。僕が拳を震わせながら二人に一喝しようとした。
刹那。
「リオン!おらんのか!」
「うっわヒューゴ!」
「驚いている場合ではないだろう!早く何処かに隠せ、早く!」
ヒューゴに猫を無断で飼っていることなど知られたら、海もフィーデスもどうなるか分からない。早速慌てて転ぶ海と子猫はフィーデスに任せ、僕は颯爽と部屋を出るとヒューゴに声を掛ける。
「ヒューゴ様!リオンは此処におります!」
「リオン。貴様、動物など飼っておらんだろうな」
「そのようなことはございません。が、何かあったのですか?」
「うむ。廊下の床に妙に掠り傷のようなものが増えたのだ」
あの馬鹿猫。
僕は内心舌打ちをすると廊下の床に目を落とす。海とフィーデスの本棚についていた傷と同じだ。高級な木材に走っているのは幾つもの薄黄色の線。僕でないならあの馬鹿二人が叱られるのは当然の成り行きだ。僕は慌てて言葉を付け足した。
「そういえば、書斎の窓からよく猫が侵入してくるとメイド達に聞きました。もしかするとそれではないかと」
「本当か?」
「はい。窓を開けば目の前に塀があるでしょう?あの一帯は猫の巣窟だとマリアンが言っておりました」
「そうか。分かった」
何とかうまく納得させられたらしい。暴れ狂う心臓を深呼吸で落ち着かせながら僕は海とフィーデスの部屋に戻った。
ああ、寿命が三年は縮まった。
二人は丁度窓から子猫を逃がそうとして、決意と躊躇いを繰り返しているらしい。寿命が縮まったお返しに、僕は先程言い損ねた言葉を二人の背に掛ける。
「さっさと逃がしたらどうだ?」
「ん、でも可哀想だし……」
「ほう。貴様等は“人間のリオン”がそんなに嫌か」
「!」
僕の嘲りを浮かべた言葉に、二人同時に顔を赤らめる。それと同時に海の手から馬鹿猫がひらりと逃げていった。
「あ……リオンのせいで逃げちゃったじゃない!」
「僕は悪くないからな。そうと分かったら、さっさと睡眠を取って他人に迷惑を掛けないようにしたらどうだ?」
「……」
マントを翻し、僕は押し黙ったままの二人の部屋を出る。どうもこの二人が手を組むと、いつも僕が被害に遭うような気がするのは気のせいか。
『黒猫に嫉妬してたくせに……坊ちゃんの変態!』
シャルの声が届くより早く、僕は冷蔵庫からプリンを取り出す。あいつらからプリンが貰えなくなるのは惜しいが、仕方がないだろう。
Fin.
快く了承して頂き、わがままを言ってローバーアイテムしてきました。エレたんありがとう。
この二人本当に可愛くて癒されるよ〜
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