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「っ、はぁ....は、ぁ」
飛び起きた先に見えるのはディオの部屋だ。心臓が驚くほど早く脈打っている。ひんやりとした感覚に体が震え、同時に一気に訪れた吐き気に思わず体を丸める。
「…っ、」
堪え切れないそれに隣で眠るディオを起こさないように部屋を出る。そのままトイレに向かうと、喉元に溜まっていた異物を吐き出す。
「…は、げほっ、ぅぐ、ぇ、」
いつぶりだろうか、こんなふうに吐くのは。昔は毎日のように吐いていたからこの苦しい感覚にももう慣れてきている。
しばらくそこで吐いてから洗面所で口をゆすぎ手を洗う。このままベッドに戻る気には慣れなくて俺はそのままリビングへ向かった。明かりを付ける気にもなれずソファーに座り込む。微かに震える体には気付かないふりをして窓の外に見える月を見上げた。
満月はもう過ぎた。それでも月は狼族の力を左右する代物であり、それは王家である俺も含まれる。ただ違うのは新月に近づくにつれて弱るはずの力が、王家の人間のみ左右されない。満月には強くなるが元の力に戻った後弱くなることはないのだ。ほかの狼とは根本的に違う。あいつらはそんなこと知る由もないだろうけれど。
今の夢だってもう見慣れている。毎日あんな夢を見れば誰だって眠る気なんてなくなるだろう。確か、寝なかった一番の原因はこれだった筈なのに。
「…何してんだか」
気を許しすぎた。だから眠りに落ちて夢まで見てしまった。思い出したくもない、消え去ってしまいたい過去の夢。
「…風邪引くよ」
「ッ!!!」
耳元で唐突に囁かれ常に袖口に隠し持ち歩いているナイフが宙を掻く。
「っぶね!ちょ、ウィーラ」
寸前でそれを避けた男はナイフを構え睨みつける俺を見て苦笑する。
「また随分ピリピリしてんなぁ」
言いながらそっと安心させるように頭を撫でた掌に俺はようやくそれが誰か理解した。暗闇で隠されてはいたがそれでもこの声も手のひらも暖かさも、これはすべてディオなのだろう。
「…なんで、いる?」
「そりゃ隣であれだけ魘されてたら起きるよ。どうしようかなーって思ってたら起きて出ていくし…と思ってたら戻って来ないし」
「…ごめん」
起こしてしまったことに謝ればソファーの背後にいた男は俺の隣に回る。そのまま隣に座ると俺の体をギュッと抱きしめた。
「…震えてんな」
「別に」
「不機嫌」
「そりゃな」
あんな夢見たら誰だってイラつくに決まってる。子供とはいえそれでも何も抵抗できなかったのだ。成すがままだった自分が嫌で仕方ない。
「こっち向け」
ぐっと顎を持ち上げられ至近距離で目が合う。しばらくディオは俺の顔を見ると眉を顰めた。
「流石に顔色悪いな。吐いたろ」
「…少しだけ」
「嘘言え。少しでそこまで疲れた顔はしねえよ」
苦笑した男はそっと俺の背を撫でると落ち着かせるようにキスを落とす。その度に強ばる体に気付きながらも俺はあえて何も言わず身を預けた。
今はこれが一番いい落ち着かせかただろう。それは理解している。俺一人だったら今頃膝を抱え込んで塞いでいただろうから。一人じゃないだけありがたい。
「怖いか?」
「さぁ」
どちらとも言えないのが今の現状だ。手を伸ばされれば怯えるだろうが、同時に安堵している。不思議な感覚に身を任せるほかできることなどなかった。
「ったく、素直じゃねえな。こういう時くらい甘えろ」
苦笑した声と同時にぐっと腕に力が入り苦しいほどに強く抱きしめられる。肩口に頭を乗せて身を任せれば、ディオはしぱらくそのまま俺を抱きしめ続けた。
「…兄ちゃんだったんだ」
「うん?」
少しばかり体が落ち着きを見せた頃、唐突に話した俺にディオは首を傾げる。
「あの人は監禁される前まで、俺の面倒を見てくれた。優しくて、強くて…でも、兄ちゃんは先祖返りじゃなかった」
俺たち三人のように真っ白な毛、紅い目ではなく、普通の灰色の毛並みをした狼だった。
「…兄ちゃんが王様だったんだ。本当なら」
俺が生まれたことによってそれはあっけなく崩れてしまった。俺がいたせいで兄ちゃんが肩身の狭い思いをしていたのを知っている。それでも優しかったから。名前を呼んで抱き上げてくれたから。
「…すごく好きだった。撫でてくれた手が、抱きしめてくれた腕が、名前を呼んでくれる声が」
でも、それでも俺は兄ちゃんにとって邪魔者でしかなかった。分かってた。優しいのも偽りだって。分かっていたのに。
「…俺を唯一ちゃんと見てくれた。だから、憎まれててもいいって思った」
「…好きなんだな」
「うん、好き、だった…」
目頭が熱くなるのは何故か。これはきっと後悔だ。俺がちゃんとしていなかったから。何時までたっても甘えていたから。もっと考えて上手く行動すれば良かったのに、どうしても大好きな兄の傍に居たかったから。
「…監禁されたとき聞いた。兄ちゃんも俺を攫うのに協力したんだって、お前は裏切られたんだって」
そう言い聞かされて、否定しながらも仕方ないと思う自分がいた。仕方ないことなのだ。兄ちゃんの居場所を奪ったのは俺だから。いつかは罰が来るって分かっていた。
「逃げ出さなかったのは、それが俺の道だと思ったから」
そうやって痛みを受け入れてそれでも抵抗して、何度も嬲られて。数年して、先祖返りの双子が生まれたことを聞いた。
「それがあの子達だよ。…俺と同じ目になる前に助けなきゃって思った。俺が二人の分まで苦しめばいいだけだって」
でも弱りきった体では動くこともままならなくて、結局第二王家であったアハトたちに助けられた。ボロボロの俺を見て安心させるようにしながら、双子が殺される前に助けてくれた。
「…動けるようになってからすぐに戦争止めて、隠れた」
戦争でみんな死んだ。王家の人間で生きているのは俺たちだけで。
「兄ちゃんが生きててくれたらいいのに」
裏切りなんて別に構わない。双子に手を出さないなら俺が喜んでその痛みを引き受けよう。王の座が欲しいなら簡単に捨ててやる。
「…売られたかもしれないのに?」
「いいんだって。俺にとって兄は一人だ。ただ、真意を問いたいだけ。嫌いならそれでも構わない」
ただ、会いたい…。
そう伝えた言葉がやけに震えていてそんな自分を馬鹿馬鹿しく思う。会ってくれるわけがない。殺したいくらい憎んでいるはずなのだから。そうでなければあんな地獄に突き落とすわけがない。