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「…だ、こ……か」
「…ん……れは、そ…」
声が聞こえる。これは誰の声だろう。温かい、優しい声。
「これ以上…はね……めだ」
「なん…しないとな」
途切れ途切れの言葉は少しずつ鮮明になっていく。この、優しい声を俺は確かに知っている。
「ここの数値下げる?」
「これ以上ここの予算減らすとうるさいのが出てくるぞ」
「でもほかに減らせるようなところはないよ」
「…くそ、仕方ねえか」
困ったような声を頭上に聞きながらそっと目を開ける。
「…………」
目の前に広がったのは黒だ。しばらくしてからそれが服だと気づいた。
「じゃあ、ここは200削減でこっち回すから。あとは、これなんだけど…いいや、また今度にするか。一応ご飯持ってくるよ?」
「悪い、今度何かするわ」
「これくらい、いいから。そっち見てやれ」
これはシアンと、ディオの声だ。だめだ、頭が回らない。それでも誰かに抱きしめられて寝ているのは分かった。
「ウィーラ、起きたなら言えってさっきも言っただろ?」
「…ディ、オ?」
ひょいっと覗き込んできた顔を確認してから呟けばディオは優しく笑うと額にキスを落とした。
「おはよーさん、よく寝てたな」
「え?....あ、」
その瞬間、寝る前の記憶が蘇る。発情期だからと抱かれたのだ。馬鹿みたいに喘ぎながら全てを委ねて。
「真っ赤」
「うる、さ....!」
熱を持った頬を両手で挟まれて顔を隠すこともできずにただ目をそらす。そして、ずらした目線の先に跡を見つけた。
「…ごめ、ん」
「ん?なにが?」
「いや、俺だよね、それ」
ディオの首筋にしっかりとついた噛み跡はどう考えても俺のものだろう。それ以外につける人なんていないのだから。
「あぁ、これね。お前噛み癖あんのな」
「…知らなかった。背中は痛くない?ごめん、俺制御できなくて」
半獣化を制御する余裕なんて欠片もなくて、相当鋭く爪を立ててしまった気がする。それが申し訳なくて目をそらした俺の頭を優しい掌が撫でていった。
「平気だよ、俺吸血鬼だし本当は今すぐにでも治せるよ?」
それでも治さないのは偶には自然治癒力も使わないと身体機能の回復が遅くなるからだ。それは実に厄介なので小さな怪我はなるべく自然に治すようにしている。
「噛み癖か」
書類をまとめながらソファに腰掛けていたシアンが呟く。その視線が未だに解かれないディオの腕に向けられていることに気付くのはディオだけだ。
「でもそれ、甘えでしょ?」
「…え?」
きょとんと首を傾げた俺にシアンは書類を封筒に入れてからこちらに近づく。抱きしめられたままの俺の頭を撫でながらシアンは教えてくれた。
「ほら、猫ってたまにお腹向けてくるでしょ?あれには服従の意と信頼の意味が込められてるんだけどね。それで撫でると噛んでくる奴いるじゃん。それだよ」
「…意味分かんねえぞ」
ディオの呆れた声に俺も頷く。それってなんだ。
「言ったでしょ、信頼してるんだって。それで噛まれたならそれは信頼してて気持ち良くて甘えたくなるんだよ。本来獣は肉食だし、ウィラなんか特に当てはまるでしょ。信頼までは行かなくても信用してくれてるみたいだからね」
「……」
要するにあれか。俺は無意識のうちにディオに甘えていたのだろうか。
「ウィラ」
黙った俺を呼んだディオに首を傾げればそっと触れるだけのキスを落とし、俺の髪を梳く。
「甘えたい?」
「さぁ?」
「さあって…お前ね」
だって本当にわからないのだ。産まれてから生きることに精一杯だったし、今は幼い双子を守り育てることにしか興味はない。だから、こうやって誰かに触れられることだって一生縁の無いことだと思っていたし、友人なんてものもいないから他人との接し方すら忘れてしまった。
「じゃあ質問変える。俺が触るの、嫌じゃない?」
「それは、嫌じゃない。分かんないけど…なんか落ち着く」
これは偽りのない事実だ。分からないけど、この男の傍は酷く落ち着く。眠れなかった俺が傍にいるだけで凄く眠ることが多くなった。それほどまでに落ちつけるのだ。それは今まではあり得ないことなのだから。
「そりゃ光栄だね」
髪を梳く手が優しくて俺はそっと耳を出した。ついでに滅多に出さない二本の尻尾を。
「...頭撫でられんの好き?」
「ん、気持ちいい」
しばらくそうされると段々と眠気がやってくる。本当にこの男の傍は眠くてしかたがない。