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最近、頭が痛い事案がある。午前中にシノから提出された官服支給申請書を見て、私はため息をついた。これで今月3回目。私だって馬鹿ではない。毎回彼女は、『インクをこぼした』や『ナイフで切ってしまって』と、適当な理由を付けているが、そんなわけでないことくらい分かる。

シノが突如、官服を申請するようになったのは1ヶ月程前。先週には、ヴィゴから『びしょ濡れで「水も滴るいい女」とか言いながら、中庭歩いていましたよ、あのちびすけ』との報告も上がっている。十中八九いじめにあっているのだろう。

理由は、シノを無理やり財務に引き抜いたこと。どうやら、同世代の女子の妬みを買っているようだ。

本人はのらりくらりとやっているみたいだが、同室からのいじめがひどいということで、そろそろ限界ではないだろうか。

シノには官服代も馬鹿にならないと怒ったが、本当は心配でならない。

官服支給申請書の後に彼女から出され、本人の目の前で廃棄書類箱に突っ込んだ部屋移動の申請書。彼女には『まだ結果を出せていないでしょう』と言ったが、実際は、上の部屋に移動できるほどの結果は出ている。シノが学問担当で提案した『寺子屋設置企画』は今後のシンドリアの発展の基礎となるもので、文句ないほどの成果であるし、彼女の財務での仕事も、十分評価に値する。

本来なら問題なく受理できる申請を、それでも、私は却下した。今部屋を移動すると根本的な解決にならない。ここで解決しなくてはもっと根深いものになってしまうかもしれない。

シノ自身の問題だが、私がもっと波風立てないように引き抜けたらこのような事態にはなっていなかった。どうしたものだろうか。

政治問題に関する解決策はいくらでも思いつくのだが、年頃の女子のこういう複雑な部分には不得手で、先ほどからため息ばかりが出てしまう。一度本人から話を聞いた方がよいだろうか。

一向に結論が出ない悩みに、私は気持ちを切り替え、目の前の書類を片付けることに専念した。


「造幣局の局長が手強いです」

横を歩くシノを見れば、眉をひそめている。

夜遅くまで仕事をしていた彼女を、私はいつものように居住区まで送り届けていた。

聞くなら今かと思いながらも、なかなか切り出せずにいた。そもそも、聞いた方がよいことなのか、見守っていた方がよいことなのか、自分の中で答えが出せていなかったので、私は彼女のとりとめのない話に相槌を打っていた。

シノが話す内容は、今担当している紙幣導入の悩みや愚痴だった。異動してすぐは、寺子屋設置企画を話題にあげていたが、最近は貨幣導入や職場の愚痴が多くなった。寺子屋の方はほぼ後任者に任せ、こちらに本腰を入れてくれている。

無理やり引き抜いただけに、彼女がこの仕事にも真摯に取り組んでくれていることは、本当にありがたい。

『局長の眉間の皺を伸ばしたくなります』と、ぶつぶつ言う彼女に、私の頬が緩んだ。

財務に移ってきたころにあった、私に対する壁はだいぶなくなっている。対する私も、彼女には随分と言いたい放題言っている。一日の多くを同じ場所で過ごしているのだから、当然だ。

最近、シノとのやりとりを楽しく思っている自分がいる。彼女もそう思っていればよい。

自分の思いに私は少し驚いた。珍しく、随分と情が湧いてしまっている。いいことなのか、悪いことなのか。

そんなことを考えていると、いつの間にか彼女の横顔を見ていたようで、不思議そうに私を見る視線とあった。

眼をまたたかせて、『どうしました?』とこちらを心配するシノに、私の口からは自然と言葉が出ていた。

「シノ、局長の眉間以外に困っていることはありますか?」

私の問いに彼女は首を傾げ、口元に手を当てて考えている。

少しの表情の変化も逃さないように見ている私に、シノは少し悩み『そう言えば』と答えた。

「『カエル女』の渾名が定着しつつあることですかねー」

そう言う彼女の顔は、重大な悩みを隠しているような後ろめたさはなかった。口を尖らせながら、『最近カエルが可愛く見えてくるから問題なんですよね』と言っている。そんなシノに、私はばれないようほっと安堵の息をもらした。

悔しがりながらも、カエルの魅力を力説するシノに、『私はカエルに興味はありません』と返したところで、居住区の入り口に辿り着いた。

深夜で静まりかえっているそこで、彼女は笑顔で丁寧にお礼を言い、居住区の中へと歩いていった。

いじめの件に関して、私が口を出すと拗れて修復不能になる可能性がある。彼女が笑っているのなら大丈夫だろう。シノの変化に気を配りながら、動く時には動けばいい。

そう考えながら、紫獅塔近くまで戻ってきたきた時だった。

ドンっと鈍い衝撃音が聞こえると同時に、王宮が微かに揺れた。

王宮に似つかわしくないその音に私は反射的に走り出した。

たまにヤムライハが実験の失敗により魔法を暴発させる黒秤塔。シャルルカンやマスルールが暴れ破壊する銀蠍塔。どちらの方角でもない。そしてこの時間帯。あってはならない事態に私はすぐさま最悪の事態を想定した。

ヤムライハの結界は壊れていない。ならば、これは中の者が行ったこと。早急に王宮の出入りを禁止し、港を封鎖しなくては。それと同時に八人将を招集し―

足を動かしながら現状把握と緊急時の対応を頭の中で確認する。

嫌な予感がした。

それは、元来た道を違わず走ることで、さらに増していった。

音の発生源は、騒ぎとは最も無縁である居住区からだった。ざわめく人の気配が場所を教えてくれた。

何故あんなところで。王の住まう紫獅塔や、政務の要である白羊塔ならまだ分かる。居住区は王宮勤めの人間の住まいに過ぎない。何故。

誰がどういう目的でどのようにやったのか、全く見当がつかない。

そう考えているうちに、居住区からのざわめきは悲鳴や怒声へと変わっていった。

次から次へと生まれる疑問を一旦置いておき、私は走るスピードをあげた。


居住区に入るとそこは、深夜の静まりは消え失せ、混乱におちいっていた。寝ていたであろう多くの者が寝巻のまま廊下に出ている。不安そうな顔をして周りの者と手を取り合う者、あっちだと叫ぶ者、私を見つけて何が起こったのか問う者。

辛うじて恐慌状態になってはいない彼らを宥め、通してもらえるよう声を張り上げながら、私は進んでいった。思うように走れないのがもどかしい。

人を押しどけながら進む私の頬に汗が伝った。


やっとのことで辿り着いた衝撃の発生源であろう部屋。そこで私は、身体から血を流し、ありえない方向に四肢が曲がった部屋の住人たちを見つける。


その中には、先ほど笑って別れた彼女がいた。

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