紅の幻影 | ナノ


光と闇に生きる者 5  



「これが例の医者夫婦に関する資料だ」

そう言ってイリーガルが差し出したのは数枚の書類と一枚の写真。リトはそれを受けとると、まずは書類の方に目を通した。
内容は彼らが行っている慈善活動についての記述が主で、これといって仕事に役立ちそうなことは書いていない。もちろん、リトもそんなものは端から期待しておらず、ザッと読み流していく。

任務遂行にあたって彼女が必要とする情報は二つ。

「……ロックベル…この二人を殺せばいいのですね?」

ターゲットの顔と名前。リトは手元の写真を見ながら言った。
写真は恐らく特務の密偵による隠し撮りだろう。写っているのは、設備もロクに整っていない診療所で懸命にイシュヴァール人を助けようとするアメストリス人の夫婦。
ふと、両親の姿がリトの頭を過った。

「……───、」

──クシャ
そんなもの今は思い出すべきじゃない。リトは邪念を振り払い、持っていた写真を握り潰した。

「…では、早急に片付けてきます」

顔を上げたリトの瞳に光はなく、淀んだ紅は冷たい色をしていた。
今まで通り軍の傀儡で……いや、冷酷な雪女でいればいい。さっさと殺して終わりにしましょう。

「待ちたまえ、リト・アールシャナ少佐」

踵を返しカンダ地区へ向かおうとした彼女を意外なことにイリーガルが呼び止めた。彼はリトの体、主に腹部に目をやりながら言う。

「この任務は明日でもいい。エンヴィーにやられた傷がまだふさがっていないのだろう?」
「……っ」

一見してリトの体をいたわるような口振り。しかし、正確には自分の人形の状態を考慮しただけのこと。そこに優しさなんてものは微塵も含まれていない。

「賢者の石を使って完全に治癒すればよかったものを…」
「(この男も、腐ってる…)」

エンヴィー達ホムンクルスの存在を知りながら、それに恭順する愚か者。リトはズキリとした腹部の痛みをこらえ、澄ました顔を向けた。

「あんな物に躰を弄られるぐらいなら、腹に風穴開いているほうがマシです。それでは通常の任務に戻りますので、失礼します」

慇懃無礼な態度と不機嫌なオーラを隠すこともせず一礼すると、リトは元々課せられていた今日のノルマをこなすべく、戦場へと姿を消した。



イリーガルから次のターゲットについて知らされたその日の夕方。リトは単身、カンダ地区へと来ていた。
服装はいつもの黒いコートの上から砂避けのフード付きマントを羽織り、目元だけを覗かせている状態。俯きがちに周囲を警戒し、気配を殺してイシュヴァール人に紛れながら例の場所を目指す。

「………、」

イリーガルは明日でいいと言っていたが、面倒事は早く済ませておきたい。
それに、エンヴィーから受けた傷のせいで任務に支障をきたすなど……、

「(……不愉快です)」

彼に負けたようで、かなり悔しい。

リトはフツフツと沸き上がる怒りを抑えながら道中、イシュヴァール人に道を尋ねつつターゲットの居場所を探した。

「この辺にイシュヴァール人でも診てくれる、アメストリス人のお医者さんがいるって聞いたんですけど…」

マントで肌を隠し、紅い眼だけを覗かせて弱々しい子供のフリをする。そうすれば皆が騙され親切に道を教えてくれた。ちょろいな…と、道案内してくれる同族の愚かさに溜息がこぼれる。

 特務の心得、基本中の基本
『利用できるものは利用する』

罪人の証である紅い瞳も、幼い容姿も、今のリトにとってこの上なく好都合。おかげでターゲットのいる診療所に易々と到着することができた。

「ここに、いるのですね…」

リトが診療所の入り口前に立った時、まず一番最初に気づいたのは金髪碧眼の男性。

「おや?どうしたんだい?」

どこかケガをしたのか?と何も喋らないリトに優しく尋ねてきた。

「(ターゲット…一人目、)」

リトは記憶にある写真と目の前の人物を見比べ、ターゲットの一致を確認する。
次いで、診療所の奥で負傷したイシュヴァール人の老婆に包帯を巻いているアメストリス人女性を見つけると、こちらもターゲットの情報と一致。

「……アメストリス人の医師、ロックベルですね?」
「あ…、あぁ、そうだけど君は?」

リトは男の問に答えることなく、目深に被っていたフードを脱いだ。

──バサッ
「なっ……!」
「……!?」

フードの下から現れたのは、誰がどう見てもイシュヴァール人でないことが分かる透けるように白い肌。銀髪は灼熱の大地とは対極の、ブリザード吹き荒れる氷の大地を連想させた。

「どうしてアメストリス人の子供がこんなところに…」
「勘違いしないで下さい私は日本人です。そして……」

“国家錬金術師です”
リトが言ったその一言にロックベル夫妻だけでなく、診療所にいた十数人のイシュヴァール人までもが驚きざわめいた。

「こんな子供が軍の狗だって!?」
「あぁ!おそろしい!」
「わしらを殺しに来たのか!!」
「ふざけるな……殺られる前に殺っちまえ!」
「そっ、そうだ!!殺せ!軍の狗がぁあッ!」

血の気の多いイシュヴァール人の若者が側に転がっていた木の棒を掴み、リトめがけて降り下ろす。

──ブン!
しかし、鳴ったのは風を切る音のみ。

「少し黙ってて下さい」
──ドカッ
「がはっ…」

リトは難なくそれをかわすと男の持つ棒を左足で踏み押さえ、そのまま体重移動の力を利用し、男に強烈な蹴りをくらわせた。
苦痛に呻く男を冷たい目で見下ろすリト。それまで診療所を飛び交っていた野次は消え失せ、変わりに冷たい空気が場を支配した。

──ズキッ
「(……っ)」

蹴ったときの反動で、完治していないリトの腹部に痛みが走る。それでもポーカーフェイスを崩すことなく冷淡な口調で、この場にいる全員に聞こえるように話し出した。

「今は命令あってここに来たわけではありません…」

受けた任務では、一応殺すのは明日の予定。

「ですが、あまりうるさいと……殺しますよ?」

冷気と殺気の混じった言葉。妙な動きをすれば、その瞬間に首と胴体がサヨナラしそうだ。迂闊な行動はできない。
沈黙する診療所内は息苦しく、いつもにも増して蒸し暑い。なのに頬を伝うこの汗は暑さからくるものではない、冷や汗。

「だっ……だったら何のために来たんだよ!!」

一人の勇気あるイシュヴァールの少年が、声を張り上げてリトに聞いた。
無知で無謀、そんな子供故の勇気も…

──スッ
「…ひっ!」

雪女の凍てつく視線を浴びては、それだけで息が止まりそうなほど体が強張った。

一方のリトは先程ああ言ってしまった手前、少年の事など気にもせず、ここに来た尤もらしい理由を考えていた。

「(殺しに来た……は、言えないですね。えっと……あ、そうだ…)」

ピコン…と、人知れずリトの頭上に浮かんだ電球が意味するは閃き。これなら大丈夫だろうと、リトはロックベル夫妻の方に向き直った。

「ウィリアム・ロックベル、そしてサラ・ロックベル。あなた達に興味を持ったから……です」
「私達に……?」
「ええ、アメストリス人でありながら戦場でイシュヴァール人を治療する医師がいると上官から聞いたので、どんな酔狂な人物か一度見ておきたかったのですよ」

まあ、嘘はついていませんよね、とリトは心の中で呟き、クロルヘキシジンと手書きのラベルが貼ってある薬品瓶を手に取って殺気を緩めた。
それだけで部屋の空気がだいぶ変わった気がする。ピンと張り詰めていた感じがとけ、窓から入る砂埃が混じった生温い風ですら今は心地好い。

「(…っ、この少女は一体何者なんだ…?)」

少し冷静に働くようになった頭で考えてみれば、自分達の目の前にいる少女にはかなり疑問に思うところがある。
ニホンなんて国は知らないし。国家錬金術師なんてものに、こんな幼い少女がどうして?
それに加えて、あれだけの殺気と洗練された無駄のない動き、そして何より敵地に一人でやってくる度胸。いや、自信と言うべきだろうか。何にせよ普通の軍人には真似できないことだ。
これが、国家錬金術師……人間兵器?

「……っ、君は人を殺したことがあるのか?」

ウィリアムはリトの様子を窺いながら、刺激しないよう慎重に尋ねた。

「人を…殺したこと……?」

リトは一瞬キョトンとしたが、すぐに何を言っているんだと言わんばかりに呆れ、手に持っていた薬品瓶を机の上へ戻す。
そしてそのまま右手をロックベル夫妻の方へと翳した。

「……?」
「あなたには見えますか?この手についた返り血が……」
「……っ!」

向けられたのは真っ白な小さな手。
だが、冷ややかな声で言う少女の手は、目には見えない血でべっとりと汚れているのだろう。齢は恐らく10そこそこの少女、一体この少女に何があったというのだ。やるせない憤りが乾いた笑いとなって零れ落ちる。

「………ははっ…驚いたな、リゼンブールには君と同じ年頃の娘がいるっていうのに…」
「そうですか……リゼンブールに娘が…」

リゼンブールという土地は確か東部の田舎にあったはず。リトはこの夫婦に子供がいることを知り、自分の中で反応する何かを感じ取った。

「……私が初めて人の死を見たのは父親でした」

リトの全てが変わった、あの日。

「そして、初めて浴びた返り血は……母のものでした」

今でも夢に見る、最悪の悪夢。

「……殺したのか?」
「まさか。二人とも私の目の前で殺されただけですよ」


「お父さん…お母さん……っ、いやあああああぁ!!」
──クスクス


忘れもしない、まるで昨日の事のように覚えている。両親への愛情も、あの男への憎しみも。
そして自分は誓ったんだ。

「私は両親を殺した男を殺すためにこの世界に来たんです。そのためなら……人殺しにだって雪女にだってなりましょう」

それが、私の選んだ道。

「……あなた達にも娘がいるというなら、よく考えることですね」

私と同じ道に堕としたいなら別ですが、そう言ってリトは棚に置いてあった一冊の医学書を手にとった。

「これ、まだ読んだことがないのでお借りしてもいいですか?」
「あ、ああ……」
「ありがとうございます。明日、返しにきますね」

淡白にお礼を言うと、リトは何事もなかったかのようにフードを被り、ウィリアム達に背を向けた。

「あっ、ちょっと待って!」
「……何か?」

去ろうとしたリトの腕をとり、引き留めたのはサラ。リトの冷たい視線など構うことなく青く澄んだ目でリトを診る。

「あなた、どこかケガをしているんじゃないの?」
「…え?」

どこ?腕?胸?お腹?
サラは服の上からリトの体をペタペタと触診した。その顔つきは完全に医師のもの。腐った軍医たちとは全く違う、本物の医師の顔だった。

「…っぃ」
「あ、やっぱりお腹?ちょっと見せて」
「やっ、やめて下さい!」

──パシッ
リトはサラの手を払いのけ、ここに来て初めて声を荒げた。

「…っ、あなたには関係ありません」
「あら、ここは診療所で、あなたはケガ人なのに?」

親が子を諭すように話すサラはさすが母と言うべきだろうか。
その横で妻の行動にやや驚きはしたものの、やれやれと言った風に苦笑するウィリアム。妻を制するどころか、処置台の上にガーゼや水などを用意し始めている。

先ほどの手書きラベルの薬品瓶にしたってそうだが、決して満足とは言えないこの診療所。しかし、この夫婦は戦場にいるどの医者よりも医師らしい。

「っ、帰ります……」

血生臭い戦場で唯一、すがり付きたくなるような光さす場所。凍ったはずの心の奥深くに触れられたような気がして…────

リトは認めたくない自分の心に小さく舌打ちをすると、サラによって中途半端に脱がされたマントを羽織り直した。

「……人の心配よりも自分達の心配をして下さい。私は明日も来ますから」
「本を返しにだろ?」
「いいえ、…───」

言うだけ言うと、リトは来たときと同じように目深にフードを被り、今度こそ帰っていった。




「───……ぷはっ、」
「あー、びっくりした!」
「あれが国家錬金術師かぁ、おっかね〜」
「でも、何もせずに帰ってくれてよかったわ」

リトのいなくなった診療所内には暫く人々の安堵の声でざわめいていたものの、結果として死者はおらず、次第にいつもと変わらない雰囲気へと戻った。

しかし、ウィリアムはリトが去った後も、入り口の外をずっと見つめたまま動かない。

「………、」

血に染まった少女と、彼女の最後の言葉が気になってしょうがない。そんな彼と同じ気持ちなのか、ウィリアムの隣に寄り添うようにして立つサラもリトの歩いて行った方をじっと見つめていた。

「あなた……あの子、もしかして忠告してくれたのかしら」
「ああ、たぶんな……」


遠くの空で砂嵐が吹き荒れている。
この内乱はますます激しさを増すだろう。


「本を返しにだろ?」
「いいえ、……次は紅氷の錬金術師として…」


冷たい瞳の雪女。
なぜ、そんなにも泣きそうなんだ……。

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