(リトside)
往来の真ん中で意識を失ってから、何時間、何日経ったのだろうか。私はまだ、暗闇の中から目覚める事ができないでいた。
「─……今年の査定忘れてた」
「あ!!!」
闇の中をフワフワと漂う感覚に身を任せる。そんな混沌とした意識の中、ぼんやりと朧気に聞こえてきた話し声が脳髄を甘く刺激した。
「気をつけて行っといで」
「はい!二、三日で帰って来れると思います」
バタバタと慌ただしい外の世界。いや、慌ただしいのは彼限定だ。いつも、彼はうるさい。そのうるささを、棘を含んだ言葉で呆れる態度とは裏腹に、心のどこかで享受し安堵するようになったのは一体いつのことだっただろうか。
「んじゃ、行って来ます!」
──バタンッ
扉が閉まる音と遠ざかっていく足音を聞きながら、私の意識は再び闇の中へと沈んで行った。
───……──
……───
…──
あれからどのぐらい経ったのだろうか。深い眠りから少しずつ覚醒してきた私の意識はまだ頼りない。
それでも、外から聞こえてくる音は割りと鮮明に聞き取れるようになったし、指先ぐらいは動かせるようになった。
しかし、やっぱりまだ眠い。
──…──
…──…
また暫くして、今はお昼頃。微かに時間の感覚が戻ってきた。ぼんやりとだが目も開く。前よりも鮮明に周囲の音を拾うことが出来るようになった耳から聞こえてきたのは、やけに騒がしい外の様子。
「──…はぁ!?」
この声は…彼?
「アルが!?誘拐って、どういう……えぇーっ!?」
心底驚いた様子でエドは叫ぶ。会話に耳を澄ませると、どうやらアルが誘拐されたらしい。何とも俄かに信じがたい話だ。
14歳、ましてや錬金術師のくせに誘拐されたアルにも呆れるが、あの鎧を誘拐するなんてそれも凄い。犯人は無事なのだろうか。
それにしても、目的は?お世辞にも子どもには見えない鎧を誘拐したのだから、身代金のような単純な理由ではないはず。
ベッドの上でボーッと天井を見つめながら、私は一階の喧騒に耳を傾けた。
「どこのどいつだよ、そんなもん知りたがるのは〜」
呆れと少しの苛立ちを含んだ声で言ったエドの言葉に対する返答に、微睡んでいた意識は根こそぎ、外の世界に引き上げられた。
「手の甲にウロボロスの入れ墨をした…」
───……っ!
“ウロボロス”
その単語に私の意識は一気に覚醒し、脳が急速に回転し始める。
「ウロボロス……ホムンクルス…!」
──バサッ
いてもたってもいられないとはこのことか。可能な限りの力で布団を捲り、ベッドから降りようと床に足をついた。
「あっ……」
──ドサッ
しまった。ここ最近ずっと眠っていたせいだろうか、体が思った以上に鈍りきっている。急に変動した血圧を支えるだけの能力が準備できなかった身体は、ベッドから降りる……と言うより転げ落ちてしまった。受け身をとるために下敷きになった腕がジンジンと痛む。
「……っ、」
動いて、私の体。痛みも罰も、後でまとめて受けるから。だから今だけ…、お願い。
「……やっと見つけた手がかりなんです…」
これは好機だ。ホムンクルス側からの意図的な接触ではなく、こちらから見つけたホムンクルス。絶対に逃がさない。気怠い体に残った力を振り絞り、半ば雪崩れ込むようにしてドアノブを回した。
一つ一つの動作に息が切れる。壁に手をつき、バランスを保持することで何とか立って歩くことが出来た。情けない、雪女ともあろうものが。自身の不甲斐なさに自嘲の笑みを一つ零すと、私は再び歩き始めた。
近づくにつれ鮮明になる話し声。一人はよく知るエドの声で、もう一人は聞き慣れない女性の声だ。
「……師匠、オレそいつの所に行ってきます」
「一人でか!?」
「自分達の問題だから、オレ一人で」
どうやらエドは一人でアルを誘拐したホムンクルスの所に行くつもりらしい。無茶だ、バカだ、ありえない、身の程を知るべきです……と一通り心の中で毒づいておく。
エドが師匠と呼ぶ女性も同じ考えらしく、危険すぎると怒鳴っているが、エドはへらへらと笑うばかり。
その笑みが意味するものは、よく知っている。相手に心配をかけさせたくない……自分は平気だから、と宥めるための笑みだ。
「あー、はいはい。勝手に行きなさい!」
女性の方もそれを理解しているのか、最後には結局根負けした。いや、ダメですよ。もっと粘って下さい。
「…晩ごはんまでには帰ってきなさいよ」
「…あ、はいっ!」
「っ、待ってください……っ!!!」
「「ッ?!」」
目を見開かせ、同時に振り向いた二人。4つの眼から放たれる視線が痛いくらいに突き刺さる。エドにいたっては元々大きな瞳がこぼれ落ちそうだ。落としても知りませんよ?
「待って……エド…」
一歩、また一歩と踏み出す足が鉛のように重たい。可笑しいぐらい呼吸も乱れる。嗚呼、私の身体はとっくに壊れ始めているのだと嫌でも思い知らされた。
それでもなんとか壁に手をつき、倒れそうになる体を支えながら私は階段を降りていく。
「……リト、目が覚めたのか」
階段の中程まで降りると、私を見上げるエドと目があった。何て情けない顔をしているんですか全く。私はコクンと頷いてから、疑問文を確信を持って投げかけた。
「…ウロボロスの入れ墨……行くのでしょう?」
「お前…聞いてたのか…!」
「仕方ないじゃないですか、あなた達の話し声が大きいんですよ。おちおち寝てもいられない。……ホムンクルスの居場所、私も行きます…」
私がそう言うと、エドは見る見るうちに表情を険しいものへと変えた。
「だっ、ダメに決まってんだろ!そんな体でムチャだ!!」
「私の体です……どうしようと私の勝手で…ぁっ」
「危ねぇ!」
最後の一段を踏み外し、倒れそうになった私の体を支えるエド。最近、こんなのばっかりだ。情けなさに追い討ちがかかった。
「……リト…」
私を映す金色の瞳が何とも言えない色を浮かべていた。
きっとエドは本心で私の事を心配してくれている。そんな事、もうずっと前から気づいている。あなたのその優しさも、無条件な甘さも知っているからこそ、私はあなたの手を払いのける。
──パシッ
「っつ……、リト…」
「気安く触らないで下さい」
優しさなんて与えないで。心なんて教えないで。
エドの制止を振り切り、勝手口から出て行こうとした私の前に今度はエドの師匠だという女性が立ちはだかった。腕を組み、仁王立ちで私を見下ろす。
「どこへ行く気だい?」
「……どいて下さい」
「まだ本調子じゃないんだろう?部屋に戻りなさい」
「………、」
話しても無駄だということはこの2、3言で理解した。時間も惜しいので無視を決め込み、その横を通り抜ける。
──ガシ…
「ぇ……?」
それをみすみす逃してくれるような性格ではなかったようだ。すれ違った瞬間右腕を掴まれ、体がフワリと軽くなった。あ、気持ち悪……───
──ドカッ
「っあ…!!」
一瞬の早業。対処する暇なんて皆無。投げ飛ばされた私の体は宙を舞い、いとも簡単に床に押さえつけられてしまった。
「……っ」
「師匠!」
「安心しな。手加減はしてある」
エドの師匠の言う通り、彼女は平然とした涼しい顔で、一応もがいてみるがビクともしない。これで加減していると言うのだから恐ろしい。
弱りきった今の私じゃ抵抗するだけ無駄だというのがよく分った。
「はぁっ…はぁ……、」
本当に情けない。これだけで100メートルを全力疾走したみたいに苦しくなるのだから。
「ほれ見たことか!病人は大人しく寝てなさい!」
「え…ちょ、きゃあ……!」
これは病気ではない。そう反論しようとする前に、首根っこを子猫よろしく鷲掴みにされ持ち上げられる。そして、そのままズルズルと廊下を引き摺られながら、階段すらものぼらされる。もう一度言う、引き摺られながらだ。
「ゥラアアア!!」
「ぅ…ぁああっ!」
──ドサッ
最終的に私は元の部屋へと戻された……と言うか、そのままベッドに放り投げられた。背後では勢いよくドアの閉まる音。それに気づいてドアへ走るも、もう遅い。
「っ……、開けて下さい!!」
「ダメだ」
──ドンドンッ
──ガチャ ガチャッ
内側からドアを叩いても、ノブを回して押してみても、外側から鍵を掛けられているため全く意味が無い。
「開けて…行かせて下さい!…っ、お願い…行かせて…っ」
ドアを叩きすぎて赤くなった手が痛む。喉の奥から絞り出した声は床へと落ちていった。
こうしている間にもエドは一人でホムンクルスの元へと向かう。こんな事をしてる時間なんて無いのに。
私は数歩下がってドア全体を見た。普通の木製のドア。このぐらいなら簡単に開ける方法がある。
「……開けてくれないのなら、壊しますよ?」
「壊したら直すだけだ」
「……っ」
間髪入れずにピシャリと返ってきた言葉。
そうだった、この人はエドとアルの師匠だった。先程見せた体術に加え、恐らく錬金術も相当なやり手なのだろう。そんな人間の前でドアを何枚壊そうが、焼け石に水なのは火を見るよりも明らか。
万策尽きた私は落胆し、小さな溜め息を溢しながら視線を落とした。それと同時に、冷静になって今の自分の姿を見てみる。
「………っ!」
思わず頬に熱が集中し、その場にばっとしゃがみ込む。この部屋に鏡があれば、きっと茹で蛸のように顔を赤くした自分が映っているのだろう。
今の私は少し丈の長い黒の無地Tシャツ一枚。静止状態で臀部がギリギリ隠れるぐらいの丈だ。いつものコートも高校の制服も見当たらない。
「あの……!」
私は再度ドアを叩いて叫ぶ。
「服を返して下さい!!」
「……服を返したら、それを着て逃げる気だろう?」
「うっ……」
女の勘は鋭い。しかし、こちらとて負けるわけにはいかない。だって、あの服は……─────
「せめて制服だけは…っ!」
「……ん?」
「コートはまだしも……、制服だけは返して下さい!」
扉に手をついたまま、床に座り込んで乞う。
「あの制服は現世の……私に普通の暮らしを与えてくれるものなんです…」
「………」
とっても大切な制服は血に染まっていない。軍人でも雪女でもない、皆と同じ“高校生”の私でいられる唯一の衣装。現世では当たり前の格好すぎて皆はダサいとか、面倒だとか言うけれど、私にとってはどんな素敵なドレスより価値のある特別な服だ。
「お願い……します…っ」
現世との繋がりを奪わないで…と、声を震わせて力なく言えば次第に足音が遠ざかり、一分も経たない内に戻ってきた。
──ガチャ
「これかい?制服ってのは?」
数cmほど開いたドアからカッターシャツとスカートを渡された。
「いいかい?一階にはあたしがいる。逃げようなんてバカな真似はするんじゃないよ?」
「ぁ……ありが…」
──バタンッ
それだけ言うとまた直ぐにドアを閉められた。ご丁寧に錬金術で鍵まで掛けられる始末。 試しにドアノブに手をかけても、今度はピクリとも動かなかった。
「……拉致、監禁……?」
ハハッ、と苦笑が漏れた。女子高生を拉致監禁、おまけに服も返さないなんて、現世じゃ夕方のニュースで放送されるだろう。
時計も何もない部屋は不気味なほどシーンと静まり返っていた。
「…………よし」
結果は上々……とまではいかないが、まぁ、とりあえずは上手くいった。及第点だ。
私は受け取った制服のスカートのポケットに手を入れ、中の物を机に並べた。
携帯電話、賢者の石、そして時空の鍵。
いつもなら時空の鍵はコートの胸ポケットに入れておくのだが、先日のエンヴィーの件があっただけに何となく気が引けた。だから少々スカートが重くなってしまうものの、携帯と一緒にスカートのポケットに入れておいたのだ。
結果的に制服を取り戻す尤もらしい理由もあったわけで万々歳。我ながら演技力は大したものだと思う。
制服も勿論大切だが、現世との繋がりはそんな簡単なものじゃない。
私はスマホの電源を入れた。これだって現世との繋がりを示すものの一つだ。メモリー内は大切なもので溢れかえっているし、待ち受けだってお気に入りの…。
「……あれ?」
表示されたディスプレイ。いつもはMarchで撮ったプリクラが待受画面に設定されているのに、いつの間にか別の画像に変わっていた。
この前、現世に帰った時に美香が変えたのだろうか。だとしたら、とても彼女らしいイタズラだ。したり顔でピースする親友の姿が目に浮かんで、思わず顔が綻ぶ。
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