紅の幻影 | ナノ


弱い心に終止符を 2  



ダブリスのとある精肉店。

そこの店主である夫妻は雑談を交えながらも店の裏方でテキパキと肉塊を捌き、それらを商品と変えていく。
その過程で余った切れ端などは今夜のシチューにでもいれてやれば、あの単純なバカ弟子は目を輝かせて喜ぶだろう。零れ落ちそうなほど大きな金眼を爛々とさせる子どもを想像して思わず緩んだ口元を引き締めるように、イズミは手元の肉塊に鉈を振り下ろした。
 
──…タタタタタタタタッ

「………ん?」

軽快な包丁の音だけが響いていたはずの部屋に紛れ込んできた足音に、作業する手が止まる。
耳を澄ませば足音の他にガチャンガチャンと金属音も聞こえてくることから、足音の主は容易に想像できた。どこにいてもやかましい2人だ、全く。

──…ガシャンッ ガシャン!
──バンッ
「「師匠(せんせい)!!」」


扉が開いたのと聞こえてきた叫び声は、ほぼ同時。
扉の蝶番が壊れそうなほど勢いよく扉を開けたエドは、一歩後ろにいるアルと一緒に声を揃えてイズミを呼んだ。

「早すぎる!!まさかサボったんじゃないだろうね!」
「「ひぃいいいいい〜…っ」」

肉切り包丁片手に鬼の形相のイズミ。
30分ほど前にランニングに行かせた2人が予想より遥かに早く戻ってきたことに、一体どういうつもりだと、家畜の血がついたままの生臭い包丁片手に問いただす。その姿は、かつてセントラルを騒がせていた殺人鬼の比ではない。この人に逆らえる奴がいるなら、是非ともお目にかかりたいものだ。

「あ…ぁわわわわわ…」
「ちっ、違うんです!師匠!!」

圧倒的なイズミの迫力に気脅されたエドとアルは蛇に睨まれた蛙どころの騒ぎではない。全身のありとあらゆる穴から体液が漏れだしそうだ。

それでも、後ろに背負ったリトを思い出し、2人は強張った真剣な表情でイズミを見上げた。

「師匠、こいつを助けて下さい!」
「お願いします!」

そう言って二人が見せたのは、アルの背で苦悶の表情を浮かべる見慣れない少女。蒼白の肌にうっすらと脂汗を滲ませ、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。一通り彼女を頭のてっぺんからつま先まで見た後、イズミは怪訝な眼差しをエドに向けた。

「……知り合いか?」
「はい、……大事なやつなんです」
「お願いします、師匠!!リトを助けて下さい!」

いつもの強気な声ではなく切実な声のエド。その隣のアルの瞳も真剣そのものだ。この少女は2人にとってそれほど大切だということか。
だったら尚のこと、具合が悪いのなら医者に診せるべきだとイズミは思ったが、この二人が医者でなく自分の元へと連れてきたのは何か理由あってのことだろう。

イズミはリトの額に手をあてた。

「熱はないみたいだけど、どこかケガをしているのか?」
「あ、いえ…師匠……」
「その〜……」

言い難そうに口ごもるエドとアル。煮え切らない二人の態度に「何だ、はっきり言え!」と尻を叩けば、エドは一度深呼吸を置いてから、真っ直ぐとイズミを見つめ返した。

「リトは……こいつは体温を持って行かれたんです!」
「……!?」

その言葉の重さ、意味。
それはイズミもよく知っている。

イズミはもう一度リトを見た。

「…はぁ……、はぁ…っ」

歳はエドやアルとそう変わらないであろう少女。
どんな理由や経緯があったにせよ、バカな真似をして“持って行かれた”なんて、普段なら説教の一つでもくれてやりたいところだ。

しかし、よほど苦しいのか彼女は時折、呼吸の合間に小さく呻き声を上げる。触れた肌は、体温を持って行かれたという割にはほんのりと温かい。

「…師匠……」
「……はぁ、後で詳しく聞かせてもらうよ」

敵わない、と額に手を当て盛大な溜め息をついた。

泥だらけになりながらも走って自分の元へと連れてくるほど、2人にとってこの少女が大切なのだろう。
バカな愛弟子達の必死なこの眼を裏切るような事が出来ようか。

そんなイズミの言葉にエドとアルはパアァッと顔を綻ばし、同時に頭を下げた。

「あんた!」
「おう!」

イズミに呼ばれて店の方から出てきたのは、例えるなら野獣。外見はごつくとも性格はとても優しく慈悲深いイズミの旦那……シグは具合の悪そうなリトに極力負担を与えないよう丁寧に抱き上げると、二階の部屋へと運んで行った。





「──…さて、聞かせてもらおうか」

向かい合って座るイズミとエド達。机の上に並べられた人数分のコーヒー。一通りリトの容態が落ち着いたところで、イズミが訊いた。

「あの子は一体、何をした?」

最初は自分達と同じように人体錬成をしたと思った。しかし、エドが『それだけは違います』と即座に否定したのだ。だとしたら、あの子は何を犯して持って行かれたというのだ。

エドとアルは互いに顔を見合わせ頷くと、エドが先に口を開いた。

「師匠は昔、オレとアルに教えてくれましたよね?偉大な錬金術師、タイアース・アールシャナのこと…」
「あぁ、教えた。時の賢者と呼ばれた男だ」

時を司り、世界の為に術を極めんとした天才錬金術師。今なお、術者の間で語り継がれるカリスマ的存在だ。

そして、ある日突然行方不明になったことでも有名なタイアース。その理由は、実験中の事故で死んだだとか、輪廻転生を極めて神になっただとか、胡散臭い説もいくつかある。様々なタイアース伝説が挙げられる中、ある考古学者が述べた『タイアースには敵がいて、その者達に殺されてしまった』というのが今のところ最も有力な説とされている。

とはいえ、200年経った今では殆ど伝説じみている話だ。何故そんな昔の話を今さら持ち出すのか、とイズミは眉間に皺を寄せて二人を見た。

「……ぶっちゃけ、オレも昔は古い伝説だってバカにしてました」

子供の頃は大して興味を持たなかった古い伝説。でも、今は違う。真実を知ってしまったのだ。

「200年前、タイアースは確かに実在した。そしてリトはそのタイアースの子孫……時の賢者の血を引く生き残りなんです」
「なっ!そんなバカな!タイアースは子も残さず消えたと文献に…」
「確かに、この世界からは消えました!けれど生きてたんです……現世と呼ばれる、もう一つの世界で」
「……現世…?」

アルの言った聞き慣れない単語に今度は首を傾げるイズミ。
エドとアルは『もうここまできたら話すしかない』と肚を括り、自分達が知っている全てをイズミに話した。

二つの世界。
時空の歪みと番人の事。
冷酷非道な雪女の話。
雪女と謂われた少女の本当の姿。
彼女が戦う理由と、その相手。
命を賭して守る存在。
そして、辿り着いた真実。

エド達が話した事はどれも俄には信じられない事ばかりで、途中からシグは言葉を失い、イズミも追いつかぬ思考で何度も『待った』をかけながら、一つ一つ情報を整理していった。

世界だとか、時空だとか。このバカ弟子達が話すのは何とも狐に摘ままれたような突拍子もない話ばかりだ。しかし、噂に聞く雪女の話や少女の体温など、これで全て辻妻が合う。



「……そうか」

二人の話を聞き終えたイズミはカップを持ち、コーヒーを啜った。独特の苦味を持つブレンドコーヒーはすっかり冷めてしまっており、苦味だけが舌を弄ぶ。

「それで、お前達はどうしたい?」
「「え……?」」
「リト……って言ったね。あの子を包む闇は深い」
「それは……」

果てしない闇に囚われた心。戦うには大きすぎる相手。それが“世界”だというのだから、はっきり言ってレベルが違いすぎる。

それだけじゃない。

彼女に関わればエド達だけではなく、周りの人間にも危害が及ぶかもしれない。

「悪い事は言わない、あの子と縁を切れ」
「っ、師匠!」

思わずイスから立ち上がったエドだったが、下から睨み上げるイズミの迫力に負けそうになる。キッとつり上がった柳眉は有無を言わさぬ迫力を纏っていた。

「戦って勝てる相手じゃないのは、お前達が一番分かっているだろう?」
「それは……」

イズミとて、エド達が憎くてこんな事を言っているわけではない。彼らを大切に思っているからこそ、厳しい言葉になってしまうのだ。

それは二人にも分かっている。現にイズミの言っている事は何一つ間違っちゃいない。つい先日、エドも力の差を第5研究所で痛感したばかりだ。

現世でも、キメラを前に錬金術の使えない自分の無力さを痛感した。そもそも、アールシャナ家の血を継ぐリトと違い、自分はこの世界に生きるちっぽけな人間でしかない。時を渡るすべも、空間を越える秘技も持ち合わせていないのだから。

自分達が足掻いたところで、運命は何も変わらないのかもしれない。それでも……、それでも!

「……オレは誓ったんだ」
「兄さん…」

美香とリトと自分自身に誓った事。

「あいつを絶対に守る……って」

リトを傷つけるのが“世界”だと言うのなら、それすらもブチ壊す。あいつが心を閉ざしても、何度だって抉じ開けてやる。
絶対に諦めない。諦めてたまるもんか!

「兄さん、ボクだって同じ気持ちだよ」

あの日、イーストシティで、ニーナにせがまれ楽しい歌を悲し気に歌ったリトの姿が忘れられない。
違う。リトにはもっと心から笑って欲しい。だって、彼女は本当はとても優しい人だということを知っているから。空っぽの鎧にすら響いたあの歌声が全てを語っていた。

イズミを見つめる兄弟の瞳は、生半可な気持ちで決めた事ではないと煩いぐらいに訴えていた。

「……どうあっても私の言う事を聞かないつもりなんだね」 
「「はい!」」
「…………」

部屋を包む沈黙。走る緊張。
誰かの喉からゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。

「………、」
「………、」

暫く見つめあう三人。しかし、その刹那イズミの口元が弧を描いた。

「フッ……その気持ち、忘れるんじゃないよ?」
「え……?師匠…」
「ってことは……」
「エド、アル……あの子をきっちり守ってやりな」
「俺達も協力する」

夫婦揃ってニカッと笑うと、エドとアルはそれだけで涙が出そうになるほど喜んだ。立ち上がり、腰を90度に折り曲げてこれでもかと言うほど大きな声で感謝する。嗚呼、つくづく自分達は良い師匠に恵まれたものだ。

最悪、自分達の意志を伝え、それでも反対されるようだったら、二階で眠るリトを攫ってリゼンブールにでも連れていこうかと思っていたが……よかった。本当によかった。
もしそれを決行していたら、自分達は二度とこのダブリスへは来れなかっただろう。見つかったら八つ裂きにされる。冗談でも揶揄でもなく、ガチで。

教え、守り、支えてくれる。この人には一生敵わない。最強で最恐な、最高の師匠。

緊張も解れたエドとアルは安心し、笑いあった。

「「師匠!ありがとうございます!」」
「なーに、あれで諦めるような根性無しだったら五、六十発殴るところだったよ」

あっはっは、と笑うイズミ。
桁数が可笑しいのは、彼女に限って言えば何も可笑しなことではない。

「はは……」
「あはははは……」

最凶な師匠を前にして『本当に良かった』と心の底から思い、己の身が無事であった事に乾いた笑みを浮かべるエドとアルであった。










─ あと もう少し ─


眠るリトの意識の中で誰かがそう呟いた。



2010.12.18


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