6

 足に抱えた違和感と些細な痛みを反対の足に重心をかけてだましだまし歩く。しかしそれがまずかったのかもしれない。
「(……痛い)」
 奥歯を噛んで只ひたすら痛みをやり過ごす。靴の中が一体どうなっているのか、未知の痛みが恐ろしくて確認することすらまだ出来ていない。
「徹くん疲れた? 大丈夫?」
 歩みが遅くなったことに気付いたのか数歩先を歩いていた五十嵐が振り返りながら手を差し出す。しかしそれを掴むことはしなかった。
「だいじょうぶ」
「……あと少しで頂上だよ。着いたらお昼ご飯食べて、ゆっくりしようか」
「うん」
 あと少し、とはどのくらいなのだろうか。半分くらい来たという言葉を聞いたのももうずいぶんと昔のような気がする。体力はさほどすり減っていないはずなのに、これ以上歩くなと痛む両足が訴えていた。
 痛い、と伝えたら五十嵐は足を止めるのだろう。歩かないで良いよと言ってくれるのだろう。気の抜けた笑みを見せて、徹の前でしゃがんでくれるのだろう。
 だからこそ、何も言えなかった。自分のわがままで他人が我慢するのだけはどうしても耐えられない。
「徹くんのお昼ご飯は、お母さんの手作りかな?」
「……ううん。お母さんは忙しいから、自分で買ってきたよ」
 会話をしている間も休まずに進んでいた五十嵐が驚いたように足を止める。動揺とも焦りともとれるような複雑な表情でこちらを見る五十嵐に首を傾げると、眉根を寄せて黙り込んでしまった。
「……遼くん?」
「あ、いや、大丈夫……じゃ、ないよな……」
 ゆったりとした動作で徹の頭に手を置き、髪を梳くように撫でる。一連の行動の意味が分からずにもう一度名前を呼ぶと、ぎこちなく離れた手がポケットを探り、徹の手に触れた。
 手のひらに押し込まれた固い感触を握ると、五十嵐の手はすぐに離れた。手のひらを上にして押し込まれたものを確認する。半透明の白い包みに入った正方形のそれは、一粒のキャラメルだった。
「キャラメル、食べたら少しは元気になれるよ」
 もっと早くに渡せばよかったね、と眼鏡の奥の瞳をゆったりと細めたその表情は、笑っている顔なのか悲しんでいる顔なのか、よく分からなかった。
 包みを開いて茶色いキャラメルを口に入れる。噛むことなく少し口の中で転がしていると、じんわりと香ばしい甘さが口の中に広がっていった。
「あ、頂上が見えてきたよ」
 まっすぐ続く、薄暗い道の向こうに木々の切れ目が見える。その隙間から絵の具で塗りつぶしたような深い青空がわずかに見えた。
 慌ててケースからカメラを取り出してファインダー越しに世界を覗いてピントを合わせ、常にボタンに触れている右手の人差し指を軽く押し込む。
「えっ、今僕写ってなかった?」
 シャッター音で気付いたのか五十嵐が振り返って驚いたように声を上げる。
「写ってて良い」
「良くないよ〜こんな芋くさい格好で!」
 不意に撮られたことが気に入らなかったのか五十嵐はぐちぐちと不満をこぼしていたが、久々に良い写真を撮れたこともあってか抗議の声はあまり気にならなかった。
「……もう! ついでだから一気に頂上まで行くよ」
 腹立ち紛れにずんずんと進んでいく五十嵐に後れをとらないように痛む足を庇いながら付いて歩いた。
 小さかった空がだんだんと広さを増し、やがて視界いっぱいが蒼に染まる。もう一度写真に収めようかと悩んでいると、視界の外から声が響いた。
「いがやん、徹くんも! お疲れさま」
 数人で固まって楽しそうに話をしていたおじさんたちの一人がこちらに気づき大きく手を振る。それに律儀に手を振り返しながら五十嵐はおじさんたちの方へ駆け寄った。
「初めてにしてはよく頑張ったよ。途中リタイア組になると思ってたのに」
「お疲れさまです。みなさん登った後なのに元気ですね」
「まあ、僕たちは慣れてるからねえ」
 その会話の中に入って良いのかどうか分からず、五十嵐に置いて行かれたままその場に立ち尽くす。この数日で五十嵐とは仲良く慣れたのだが、ほかのクラブのメンバーとはまだ少しぎこちない態度しかとれていない。
「徹くん、お疲れさま。こっちおいで!」
「昼ご飯の時間だよ!」
 急に名前を呼ばれて視線を上げると、たくさんの笑顔がこちらへ向いていた。
「……そのまま、」
 カメラを構える。しかしその一瞬で徹の行動を不思議に思ったのか大半の笑顔が消えてしまう。
「わ……笑って!」
 羞恥心を振り払って腹の底から声を振り絞る。それでようやく理解したのか、もう一度全員がめいっぱいの笑みを作った。
 人差し指を押し込む。青い空に、眼下の緑、その中心に写るたくさんの笑顔は、友達の少なかった今まで徹では絶対に撮ることの出来なかった画だった。
「こりゃ驚いた! まるでプロの写真家だな」
 その笑顔のままわらわらと周りに寄ってくるおじさんたちにどういう反応をすればいいのか分からずに両手でカメラを握りこむ。
「これからの旅の記録は坊に頼もうか!」
「ぼう、って」
「わしらからしてみたらお前達なんか赤ん坊も同然よ」
「ちょっとそれもしかして僕も入ってます?」
 少し遅れてやってきた五十嵐が拗ねたような声を上げる。先ほどまで徹を相手していた時よりも幾分か対応が子供っぽい気がするのは、おそらく気のせいではないだろう。
「徹くん、貸してごらん」
「……え?」
「このボタンを押せばいいんだろう? 大丈夫大丈夫、ほら入って!」
 大きな手のひらで背中を押され、先ほどカメラに収めたはずの笑顔の中に押し込まれる。
「ほら、徹くんも笑って」
 五十嵐の手が徹の肩を持つ。視線を上げて先ほどまで自分が持っていたカメラのレンズを見てぎこちなくピースサインを作った数秒後にお決まりの掛け声でシャッターボタンが押された。
「どう? 撮れてる?」
 駆け足で寄ってきたおじさんからカメラを受け取って画面で画像を確認する。
 先ほど撮ったばかりの笑顔の中心に自分が立っている。それだけのことにどうしようもなく不思議な感覚を覚えた。
「撮れて、ます」
「そうか、なら良かった! 徹くんのカメラ高級そうだから撮るの緊張したよ」
 今まで自分が撮ってきたばかりで、自分がそこに映ることなどありえなかった。考えれば単純な話だったが、それでも美しい世界に自分がいるということがどうしようもない違和感だった。
「……ありがとう」
 自分はあくまで“撮る”側の人間なのだと、漠然と感じ取った。


/▽