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序章 プロローグ
第一話 始まりの鐘
闇がいた。漆黒、暗闇――いずれの表現にも似つかわしくない洞穴のような虚。濁った水晶体は驚愕に見開かれた濃紺の瞳を頭上から眺め降ろしていた。
ゲヘナは夜風を切り真っ逆様に落下する。風圧にはためく袖を見て、彼はようやく自分が墜ちているのだと合点した。
咄嗟に、窓際から見下ろしている傀儡人形へ手を伸ばした。どんな時もあの男を信頼していた。だからきっと、この手も取ってくれようと。
しかれども、あれは突如として間者に姿を変えてしまった。うたかたの願いは無情に切り捨てられ、無表情な仮面に絶望を覚えた。
眼下に広がる闇が青年を黄泉の国へと引き込んでいく。深き渓谷は死出の旅路へいざない、ネモフィラの花々が手を来招いていた。
――十年、二十年と長きに渡るはレダン国の内乱。
それはゆっくりと、しかし着実に王子の心身を蝕んできた。
だが、だからと言って「この世に未練はないか」と問われれば語弊がある。
たった一度。最期に一度だけで良いから、彼は民衆と共に争いのない世界で目を覚ましたいと願っていた。
「兄上、木です!」
ゲヘナが絶望に埋もれかかった時だった。
どこからか青年を呼び起こす声があった。わざわざ下を見ずとも分かる。妹のオラクルだ。
亜麻色の少女は巧みに手綱を操り、猛火のごとき勢いで城門を通過した。だが、城下に響くひづめの音は一つではなかった。背後から数十人の衛兵が追い、少女へ弓をかざしているではないか。
激しい剣戟、馬のいななき、妹の掛け声――全てが、鋭敏な感覚を刺激する。
「はは……はははっ」
途端、彼の脳は明瞭になり、ことの全貌を理解した。
「カストル! 君が裏切るとはね!」
笑いが止まらなかった。全てが彼の敵だった。
「君はなんて素晴らしい忠臣だ! リリスにも見習ってもらいたいよ!」
もはや頼れるものなどない。当面あてに出来るのは妹の侍女であるリリスくらいか。しかし彼女だっていつまで忠誠を貫けるかわからない。この兄妹を助けたことで、「忠臣」リリスもまた「逆賊」として追われるだろうから。
絶望のみの世界、先の見えぬ未来。全てはあの女の腕〈かいな〉で育まれ、息づいたのだ。
勝利に満ちた銀灰色が脳裏を過ぎり、煮えたぎる怒りが湧き起こってきた。
と、不意に亜麻色の少女が身を屈めた。すると頭上を二、三本の矢が擦り抜け、城壁に当たって砕け散った。
ゲヘナは不思議な高揚感を覚え、瞳を開いた。重力と風圧に逆らい身をよじる。それから正面を地面へ向けると、両の腕を前へ。
「早く! 早く木を出して!」
だが焦躁した声色は、衛兵の怒号に掻き消されてしまった。
ゲヘナは、ちらと上を見上げた。ああ、地面はすぐそこ。一分の猶予もなく、彼は墜落してしまうだろう。
しかしゲヘナは、慌てる素振りを一切見せなかった。分かっていたのだ。愚民どもに予定されていた非業の死など、有り得ないと。
彼は穏やかな微笑を浮かべ、両の手を大きく広げた。
――ただ、それだけ。
しかし見掛けの穏やかさとは裏腹に、次に鳴り響いたのは大気を揺るがす轟音であった。
「魔科学〈ヘカテ〉だ! 気を付けろ!」
強固な大地が引き裂ける。続き、そこにはなかったはずの巨木が次々にそびえ立つ。
巨大な木々は、衛兵のみならず庭や城までも飲み込んでいった。
青年は曲がりくねった小枝へ軽やかに舞い降りた。それは一言で小枝と言っても大木の幹程あろうか。しかし本体が何十フィートもあるため、胴体より太い枝でさえ小枝と呼べるのだ。
ゲヘナは枝に降り立つと、一息ついた。そこからは蟻のように逃げ惑う衛兵達を一望できた。
大地を引き裂く大樹、逃げ惑う人間。見下ろす世界は創世記に記された光景と酷似している。
しかし彼には、奇々怪々な現象を引き起こした張本人にも関わらず、全く動じる様子は見られなかった。
軽やかに木々を伝い、折よく駆け付けた妹の愛馬に飛び乗った。
「兄上、ご無事ですか」
「平気だよ。君は」
「この通り」
「それは良かった」
一見すると社交辞令。二人は元々おしゃべりな性格ではないにせよ、殊に今夜は口数が少なかった。
だがその中にも多少なりお互いの気遣いを感じ取れ、今この時はそれだけで十分だったのだ。
少女と青年は緊迫した空気の中を駆け抜けていく。兄が妹の腰へ手を回し、それを合図に手綱が強く奮われた。
オラクルは未だ成長を続ける木々の間を掻い潜り、突風の如く突き抜ける。
すると少し進んだところで、前方に一人の衛兵が立ち往生していた。巻き込まれぬよう逃げるべきか、それとも目前の兄妹を捕らえ、命じられた任務を果たすべきか。
一瞬ちゅうちょした後、衛兵は後者に決断したらしかった。
彼は女帝より分け与えられたステレオタイプの剣を、弱々しく振りかざす。
しかし、オラクルが「はあっ」と一際大きく叫び声を上げると、栗色の駿馬は空高く跳躍し、瞬く間にその頭上を飛び越していった。
少女は馬と一体化し、他の追随を許さない。亜麻色の娘は滑らかな動作で綱を操り、内乱を憂う月夜から逃亡を図るのだ。
その姿は踊り子が舞を舞っているようにも見え、ゲヘナは一人微笑んだ。
それから二人は、ようやく人工的な森を抜けた。しかし暴れ馬の速度は緩まず、峡谷から一気に遠ざかる。
二人を戦場から引き離した栗毛は、三時間程黙々と走り続けた。
その間ゲヘナは、何を言う訳でもなく少女から漂うネモフィラの芳香に意識を寄せる。
しばらく後、彼は静かに口を開いた。
「ねぇオラクル、頬の傷はどうしたんだい」
「狩りの獲物にされました」
「……そう」
それきり、会話も途切れてしまった。
オラクルもゲヘナも、次第に遠ざかる故郷に想いを馳せていた。二人は国境へ向かっている。レダン王国の向こう、西方に位置するロザリオ山脈を越えるのだ。
麓〈ふもと〉にはいつでも逃げられるよう馬と荷物を隠してある。準備は万端――心を除いて。
月明りに輝く小川が遠くに見えて来た。せせらぎが心地よく響き、一時悲しみを緩和させてくれる。
彼らは勇気づけられて、ちゅうちょなく川を渡り切った。
隠れ家へ近付くにつれ達成感と郷愁は強まり、それらは心の中で互いに攻めぎあっていた。
「……国境です」
「ああ、分かっているよ」
手綱を握っていたオラクルが馬を止めた。地面に降り立つと土を掘り起こす。そして姫君はかねてより準備していた荷物を取り出し、兄へ手渡した。
ゲヘナは鉛のように重い心で受け取ると、彼の黒馬に器具を取り付けている妹を背に漆黒のローブを羽織った。
「さあ……僕の準備は出来た。君も、心を決める時だよ」
「とうの昔に――先帝がお隠れになった時から決まっております」
なんと逞しい少女であろうか。慣れ親しんだ故郷を捨て、もう二度と目にすることがないかもしれないと言うのに。 清廉で可愛らしかったオラクルは髪を一つにまとめ、少年と見紛うような姿をしていた。
亜麻色の幼き少女は、長い長い旅へ向けて子供と言う身分を捨てる決意をしたのだ。
絶望にも埋もれぬ金色の瞳が、ゲヘナを強く見返していた。その強き光は、この数年消えかかっていた彼の生存本能を刺激した。
ゲヘナは、こんないたいけな少女に苦渋の決断をさせた王国と時代を強く呪い、そして愛しくも思った。
――彼は守らなくてはならない。姫も、国も、全てを。
「予定通りロザリオ山脈を越える。オラクル、絶対に生き延びるんだ」
「はい。兄上も魔科学〈ヘカテ〉使い過ぎて死なないでくださいね」
「……勿論だよ」
オラクルは城を脱出してから初めての笑みを浮かべた。手綱を引いて一歩、足を踏み出す。
最初は怯えたようにためらい、それから堂々と。奥へ進めば進む程、少女には何のためらいも見て取れなくなった。
二人の姿が幽玄なる山々に溶け込み、静寂だけが取り残される。
ゲヘナは最後に一度だけ振り返った。
遠くで、神殿の鐘が鳴り響いた気がした。
続く
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