「あなたは誰?」

違和感が生じたのはこっからだったか。
いいや、最初からだったのかもしれない。

彼女は
昨日と同じように首を傾けて。
昨日と同じように言葉を吐き出した。

昨日会ったばかりではないか。

「……もう忘れたのか?」
「何を?」

……駄目だこれは。


持っていた記録書に筆を走らせる。


「ふざけているならやめた方がいい。あんた、自分の立場を分かっているのか?」
「私は、捕虜?」
「御名答。今日は俺の問いに答えてもらおうか」

視線を彼女に向ける。

「名前は」
「わからない」

その言葉に睦月は筆を止めて彼女を見た。
女は嘘をついている素振りも見せず、きょとんと目を開いている。


「もう1度問おう、あんたの名前は?」
「だから、わからないのよ」


檻越しの会話。

目を真ん丸にした彼女は口をパクパクと動かして睦月に言葉を伝えていく。

「私、人間という生き物に関することを一切覚えられないみたい」


そんな馬鹿な話があるか。
1日経ったら忘れてしまう。
忘れたことはわかるんだけど、【何】を忘れたのかまではわからないという。


手術による脳機能障害か。
薬や注射による副作用か。
わからないが記憶障害を起こしているらしい。


「そんなんじゃあ友人を忘れちまうだろ」
「いいの。友人なんてたぶんいなかったから」

「はぁ?わかりもしないのに……」
「私、ずっと1人で過ごしてた気がするの」


……対人記憶障害のため彼女の証言はいまいち信用に値するものではないが。
睦月はつらつらと単語を書き連ねていく。


困ったな、記録書に書く名称がない。



「好きなものは」
「そうね、花が好きかもしれない」

曖昧だな、自分のことも覚えられないなら仕方がないが。
偶然思いついたものを声に出しただけであろうと睦月は考えながら、ふと思いついた花を口にする。

「アイリス」
「アイリス?」

まっさらな紙に4文字をでかでかと書いて持っていたテープでそれを牢の内側に見えるように張り付けた。


「今日からあんたのことはそう呼ぼう。何、あだ名みたいなもんさ」

外人かよ、という感じだが。
ふっと思いついた響きのいい単語に睦月は首を揺らして満足する。


「そう、素敵ね」
「見ればあんたもこれが自分の名前だって思えるだろう」

上に「名前」と大きく付け足しておく。


「ありがとう」


彼女は控えめに、
綺麗に睦月へと笑いかけた。



名前


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