麗しきは君が水茎の跡 >>水茎の跡 (筆跡、手跡の意) ※注意※ 時系列は統一されていません。一部、年齢操作しております。あらかじめ明記はしませんが、苦手な方はご注意ください。 「これで終わり、と」 思わずぽつりとつぶやいて、手に持つ筆を硯に戻す。 六年間教え続けた生徒たちの最後の答案を採点し、評価を書き込んだ。 初めて出会った頃は幼い稚拙な文字で、しかし皆のびのびと書き綴られたそれらがいつしか、少しづつ大人びていったのはいつのころからだろう。 着実に成長する彼らを前に、自分は常に教師として堂々とあることができただろうか。 ひとりひとりの答案を見返しながらふと、一枚の紙に手が止まる。 強い意志とひたむきさ、しなやかさ、優しさ、狡さ、すべてがにじむその文字を見詰めると、胸にあふれる愛しさに締め付けられた。 ひとりの教え子として、一緒に住む家族として、想いをかける相手として、この六年間ずっと隠してきた言葉を、もうすぐ告げることができる。 教え子たちが巣立っていくのはもうすぐ。 あいつが自分の元を巣立っていくのも、もうすぐ。 「失礼しまーす、土井先生いらっしゃいますか?」 廊下から、今正に考えていた相手の声がして、思わずびくりと肩を震わせて振り向く。 「入れ、きり丸」 教師の、保護者の顔で迎え入れる。 この仮面を外すのももうすぐ。 卒業まで、あと少し。 団蔵の文字が汚いのはいつものことだ。 見間違えて計算間違い…なんてことは日常茶飯事だ。それでも一年前よりは、マシだが。 「田村先輩、こちら終わりました」 「ああ左門、ご苦労だった。あとは私がやるから。帰っていいぞ」 左門はそれ以上何も言わずに佇んでいるが、私もこれ以上話す余裕もなくひたすら算盤を弾いた。 潮江先輩が卒業されてそのまま私が委員長代理として活動するこの会計委員会の初めての大きな行事、予算委員会が三日後に迫っていた。準備は万端…といいたいところだが、あの先輩方の相手をするかと思うと、入念な準備に準備を重ねるべきだ。 さらさらと筆を走らせる私の手元を見つめる左門は、なかなか部屋を出て行こうとしない。不思議に思って筆を休めると、左門の顔を見やる。 「左門?」 弾かれたように顔をあげると、今度は私の目をまっすぐに見つめてくる。何がなんだかわからない。 「さも…」 「田村先輩!」 その性格と同じく、左門はまっすぐだ。 「な、何だ」 「団蔵も最近は少し字がマシになってきました。左吉も体力がついて来たし…一年坊主はまだまだですが、僕…田村先輩の右腕になるように頑張ります!」 そう言い切ると、くるりと背を向け、どかどかと部屋を出て行った。 その背中に「迷子になるなよ」と声をかけ、私は首をかしげた。 私は、左門の決意表明に思わず口元を綻ばせる。 「いつの間にか少し大人になっちゃって」 目の前に置いて行った帳面の、左門らしい豪快で力強い文字の羅列が視界に入る。 その一つ一つを、そっと指で撫でた。 「…頼りにしてるよ」 私はひとつ伸びをして、また机に向かった。 君はいつも私を待っていてくれるが、それは何も私だけではないことも分かっている。 「利吉さん〜こんにちは、はい、入門表」 いつも抱えている帳面を私に差し出すと、私の手元をじっと見つめている。 「やっぱり出来る忍者さんは字も綺麗なんですね」 「なんだいそれ」 そうして私にへらりと微笑むのも、いつものことだ。 「山田先生、出張でいらっしゃらないんですよ」 「え、じゃあ、これを渡しておいてくれないか」 懐から取り出した文を手渡すと、早々に帰ろうとする私の袖をくい、と引っ張る感触がする。 私より少し背の低い君が私を上目使いで見つめてくる様子に、内心舌打ちする。 ひとつひとつの行動が計算かと思われるほどに心奪われ動揺しているのは、きっと私だけだ。 「利吉さんがくるとみんなが喜びます。もしお時間あるなら寄って行ってください」 恐る恐る尋ねてくる君に、弱い私を知ってのことなのか。 とらえどころのない頼りなげな視線も、常に湛えたふんわりとした笑みも、私だけに向けられるものではないけれど。 いつか私だけを見てくれることは、あるのだろうかと、柄にもなく弱気になってしまう。 「…わかったよ。顔を出して行こう。で、君はどうなの」 私の問いかけの意味が分からず首をかしげていた君は、やっと思い当たったのか満面の笑みで答える。 「勿論、嬉しいです!」 何も期待してはいけないのはわかってる。 今は、まあこれくらいで我慢しよう。 「こちらへどうぞ〜」 君の笑顔に惹きつけられながら、一緒に歩みを進めた。 「滝、まだ起きてるの?」 同室の喜八郎が、眠そうな声で話しかけてくる。 「ん、すまない、喜八郎。もうすぐ終わるから」 私の手元を照らす灯りの所為で目が覚めてしまったのか、少し頭をあげてぼんやりと私を見つめている。 「何?課題?今日の授業のならい組で一番に終わってたじゃない」 不思議そうに尋ねる喜八郎に、私は書きつけていた帳面を閉じた。 「そうじゃないんだ。…委員会の日誌」 「日誌?そんなのあったんだ」 「んー、これは…自分用」 なんとなく喜八郎にならなんでも話せる不思議。変に揶揄したりしないからだろうか。 私は問われるままに口を開く。 「もうすぐ…六年生達が卒業なされるだろう?必然的に私の委員会は私が委員長代理になる。今から…あの人のこと、記録しておきたいんだ」 喜八郎は聞いているのかいないのか、軽く目を瞑っていたが、一拍置いてからのんびりと呟く。 「…でも七松先輩のやってることなんて、走って掘って走ってじゃないの?」 「まあそうなんだが。それでもあの人は…まだまだ私の及ばないところを見てらっしゃる。」 いつもめちゃくちゃなことばかりしていそうでも、我々後輩のことはもちろん、広い視野で全体を見てらっしゃる。大事なものを、しっかりと守れる力がある。 「…滝は七松先輩が大好きなんだね」 「っな、何を言う!」 「ちゃんと見てるから、わかるんでしょ。僕には全くわかんないもん」 顔に熱が上がるのが分かる。暗い室内で良かった。こんな顔、喜八郎にだって見せたくない。 「早く寝ないと美容に悪いよ。滝は美人さんなんだから、お肌の調子が悪いと七松先輩に呆れられちゃうよ」 喜八郎はそのまま、おやすみ、と小さく零してあっという間に寝入ってしまった。 私は目の前の帳面に視線をやる。私と、委員会の後輩たち、…それに七松先輩のこれまでが詰まった、大事なもの。 先輩、先輩の卒業までに、少しでもあなたのところまで上っていきたい。 あなたが私をこれまで導き、後輩たちの先頭に立ち、過ごしてきたこの日々に終わりがあることは承知している。 最後の最後まで、あなたについて行きたい。 変に片付いた部屋を見ると、留三郎の不在が嫌でも感じられる。 委員会の活動で夜遅くまでいないのはここ一週間ずっとで、ろくに会話もないまま翌日の授業に出る、の繰り返しだった。 「今日も遅いなあ」 おやすみの一言も言い合えないなんて。 「つまんなーいっ」 寝ころんだ布団の上でごろごろと転がってみても、いつもなら「何してんだ」と少し呆れ気味にかけてくれる声も聞こえず、余計に寂しい。 そこでふと、思いついた行動をすぐさま実行してみる。 布団から勢いよく飛び起き、紙と筆を持って文机に向かう。 さらさらと書きつけた紙を見て「これでよし」と小さくつぶやくと、そのまま敷いてあげた留三郎の布団までずるずると移動し、枕元にふんわりと置いた。 気付いてくれるかな、明日何て言うかな。 ドキドキわくわくしながら、僕は布団に入った。 音もなく静かに戸を開け部屋に入ると、またゆっくりと後ろ手に閉める。 既に夢の中の伊作を起こさないように気配を消して着替えを始める。 ふと枕元に置かれた紙に気づいて、拾い上げた。 それは伊作の文字が綴られた、手紙だった。 「相変わらずきったねえ字」 綴られた文字ひとつひとつが愛しくて、緩む頬を抑えられない。 かかる前髪をかきあげて、その丸くて滑らかな伊作の額に、そっと口づける。 「おやすみ、伊作」 囁いた言葉は、暗闇に溶けて行った。 END mokuji top |