第十章 追憶


「青興を制圧して、取り調べに送られた黎秦で聞いたことなんだが。俺がH75の投与を託した看護婦は、三日後に原因不明の急病で倒れて亡くなっていた」
 カーテンを揺らして入ってくる風が、頬にひんやりと触れていった。千歳は窓の外を見やる。太陽がいつのまにか、大きく傾きかかっていた。
「つまりネリネにH75が与えられていたのは、錦成を離れて、最初の三日間だけだったというわけだ。後任に当たったのは新人の看護婦だったが、黎秦の総合病院に勤めていた経歴があったもので、ネリネのことは彼女に一任されていたらしい。部屋に食事を届けて、点滴を換えるだけの仕事だから、皆それほど気に留めてもいなかった。……この看護婦は、ネリネが亡くなる三日前、姿を消している」
 ベッドの上で、橘が拳を強く握り込んだ。包帯がぎしりと擦り切れそうに伸びるのが分かって、千歳は何も言えずに、黙って頷いた。
「通信兵は看護婦が交代したことなど知る由もなく、俺の指示通りに血液を捨て続けた。そして俺が川辺で殴られたのと同じ夜に、支部へ向かう道の途中で何者かの襲撃を受けて殺された。財布と制服の装飾品が奪われていたから、金品目的の殺害だろうと」
「本当にそうなのかしら?」
「フェイクだろう。民間の犯行に見せかけるための、形だけの窃盗だ」
 やはりそうなのか。千歳は事情も知らずに巻き込まれた二人の犠牲者を思って、痛む胸に手をやった。看護婦も、急病などではないだろう。何者かが薬を仕込んで亡き者にし、後を同じ息のかかった仲間である看護婦に継がせたのだ。
 他の看護婦が後任になれば、ネリネの元に橘の血液が届いていないことに、気づいてしまうから。
 外で何が起こっているのか知る術のないネリネは、H75も、契約者の血も得られずにゆっくりと衰弱していき、そして。
「司法解剖の結果、彼女の体内に俺の毒が一切残っていないことが発覚した。これらの証拠から、俺は彼女に血液を送らず、契約者の義務を果たさず、通達に従って供給を行うこともなく、彼女を放置して坂下で遊んでいた、という結果になった」
「少尉……」
「利用されたんだ、ネリネの始末を目論んだ誰かに。きっとネリネと俺が内通したと勘づいて、彼女を殺すついでに、俺に罪を被せたんだろう」
 ネリネの死と同時に、橘は彼女と二人でこの世に生んだ多くの秘密を抱えたまま、たった一人で、罪人になったのだ。
「供給義務の放棄は、契約者の殺害に当たる。蜂花の一級罪だ」
「ええ、そうよね。それなのに貴方がこうして立派に少尉なんてやっているのを、ずっと、軍隊なんて理不尽だって思って見ていたわ」
「そうだろうな。俺も最初は、死罪を検討されていた。それをナーシサス大尉が……、これまでの戦功を鑑みて、階級の剥奪と引き換えに命を助けるよう、上層部に掛け合ってくれたんだ」
 ああ、だから。この人は、ナーシサスの前でだけは張り詰めた糸がほんのわずか、緩んだように笑うのか。
 香綬支部に来てから今日このときまで、漠然と胸にあったいくつもの謎が解けていく。重い荷物を手放したように、橘がふっと、笑った。
「これが、俺とネリネの間にあった真実だ」
 それから、お前との間にも。掠れるような声で加えて、橘は林檎に手を伸ばした。
 沈黙に瑞々しい果肉の砕ける音が響く。千歳は黙って、その清らかで寂しい音を聞いていた。あまりにもたくさんの感情が湧き上がると、人は何も言えなくなる。言いたいことも、言わなくてはと思うことも、重く濁った水のようにこの胸を渦巻いていて。ひとつずつ、上手に取り出さないと決壊して、何もかもを眼前の人にぶつけてしまいそうになる。
 橘は、それを待ち受けていた。千歳の感情の反乱を受け止めるために、わざと目を背けていた。面と向かうと他人を畏縮させてしまう、琥珀色の眸を逸らして、千歳がどんな残酷な叱責でも口汚い詰りでも吐けるようにと。
 でも、すべてを知って、千歳の中に一番鮮やかな衝撃を残したのは。千歳が一番言いたいのは、橘が身構えている言葉のどれでもなかった。
「橘少尉、貴方って」
「なんだ」
「……ネリネのことが、好きだったのね」
 ぴく、と林檎を持った手が動く。千歳はもはや予感や疑問ではなく、揺るぎない確信を持って、そう口にしていた。橘は浅い溜息と共に、ほんの一瞬、視線を迷わせて、
「……共に生活して、共に戦場へ出て。命を分けてくれた。自らの感情よりも、彼女を必要とする俺を優先して」
「ええ」
「そんな相手を、何とも思わない人間がいるとしたら……、化け物か、すでに死んでいるかのどちらかだろう」
 心の奥の――暗く冷たく凝っていた場所に、光が当たった思いがした。千歳は橘の言葉を噛みしめるように、胸の前で両手を握り合わせて、深く頷いた。
 ずっと、この人はネリネに対して何の思いも抱いていないのだと思っていた。たまたま引き合わされた契約者、貴重ではあるが替えの効く一輪の花、そんな程度のものだったのだろうと。自分にとってかけがえのないものを、何の頓着もなく踏みにじられたと思い、橘を恨んできた。
 同じだったのだ。この人もネリネを愛して失った、同じ悲しみの被害者だったのに。
「とんでもない人ね。そういうことは、もっと早く言いなさいよ」
「ああ、そうだな」
「絶対、悪かったなんて思っていない返事だわ。こんな……、ずっと一人で抱えていたっていうの? 私、何も知らなかったから……っ」
 堪えていた涙が、千歳の瞼から堰を切って溢れた。擦っても拭っても追いつかないそれが、袖口や膝を濡らしていく。嬉しかった、ネリネが大切にされていたことが。悔しかった、自分がそれに気づこうともせず、長い間、彼女を失った悲しみを橘一人にぶつけてきたことが。
 今さら気づいたところで――数々の失態をなんと詫びればいいのだろう? 人でなしのように罵った。殺してやると息巻いて、噛みついた。
 自分の無恥が胸に突き上げてきてしゃくり上げている千歳に、橘が参ったように苦笑した。
「言っても、お前は聞けなかっただろう」
「それは……」
「別に責めているんじゃない。俺はネリネが死んだわけを誰にも言わなかった、お前が俺を恨んでいたのも当然の話だ。憎悪が復讐心となって生きる理由を生むならば、それもまた一つの償いかもしれないと、初めてお前に会ったとき思った。あのときのお前には、生きていく理由も死ぬ理由も、ネリネ以外なにもないように見えたから」
 千歳の脳裏に、久しく思い出していなかった黎秦の長屋の風景が甦った。隙間風に騒ぐ木戸の内側で、この世にネリネがいないのなら、もう死んだって構わないかと生きることを手放しそうになっていた。
 橘がやってきて、この人に復讐を遂げるまでは死ぬものかと決意が変わった。目的のためにやってきた軍で無我夢中に日々を送っているうちに、弱っていた体が力を取り戻して、戦う術が身について、友人ができた。
 死ぬのが怖いと思えるだけの理由が、たくさん、たくさんできた。今ならはっきりと分かる。この世にもうネリネがいなくても、死ぬのはとても怖いことだ。


- 38 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -