第十章 追憶


「それに、この話をするには、俺のほうにも時間が必要だった。お前が西華の手の者ではないと……、ネリネの監視者であり、今度は俺を始末しにきた者ではないと、確信を得るまでの時間が」
「あ……」
「信頼に時間がかかったのはお互い様だ。これで、ようやくだな」
 当然のようにあっさりと、橘は千歳を疑っていたことを打ち明けた。貴方を始末する人間なら、私などより強い人が抜擢されているはずじゃない――と、千歳は思ったが、それもまたお互い様だ。橘からすれば、自分にネリネを殺す理由なんてないと何度も言いかけただろうし、熟達した武人は弱いそぶりも上手にこなす。彼にとっては今もまだ、周りに現れる人のすべては、敵か味方か安易に判断ができないものなのだ。
「ずっと……ひどいことばかり言ってごめんなさい。本当は私たち、一番近くにいたのに」
 伝えたい言葉の数十分の一をどうにか絞り出せば、橘は充分だというように軽く頷いた。燃え盛る坂下から帰ってきて無力を嘆いた夜に、嵐のように荒れ狂う心が落ち着くまで傍にいてくれた、あのときと同じ沈黙の温かさがそこにあった。
 橘は千歳がいくらか、冷静さを取り戻したのを見計らって、
「いつか、まとまった休みが取れたら幽安へ行かないか」
「幽安へ?」
「ネリネの墓がある。俺も一度しか行けていないんだが」
 思いがけない提案に、千歳の目がこぼれ落ちんばかりに丸くなった。それが悪い驚きではないと察した橘は、先を続けた。
「俺がネリネの死んだわけを言えなかったのは、彼女に協力していたことを伏せる目的も勿論あったが、何より彼女が諜報員として葬られるのを見たくなかったからだった」
「……蜂花に仇をなした者は、生前の功績、階級に関わらず、亡骸の火葬を許さず海へ棄てるものとする。軍の掟ね」
「そうだ。真実を話したら、彼女は海に投げ出されると思った。それも、これまでの罪をすべて被せられた上で」
「どういうこと?」
「彼女を操っていた者が、この軍の中に必ずいる。ネリネが諜報員だったことが明るみに出れば、そいつは必ずネリネ一人を悪に仕立て上げて、隠れ蓑にして、自分を逃げ切らせるだろう。どこに潜んでいるかは分からないんだ。もしかしたら――俺を審問している奴こそが張本人なのかもしれない。そう思ったら、誰に打ち明けることも無理だと悟って」
 当時の取り調べを思い出したように、橘の視線が一瞬、揺らいだ。
「性格の不一致が疎ましく、彼女とは元々上手くいっていなかった。戦線の緊張感からストレスが溜まっていて、会うのが億劫だった。まさかこの程度で死ぬとは思わなかった」
「……っ」
「と、理由をでっち上げた。その上で、今は反省している、せめて彼女を葬ることで償いをしたいと頼み込み、身寄りのないネリネの亡骸を引き取らせてもらった」
 一切の感情を殺した冷たい口調に、千歳はそれが当時の再現だと分かっていながらも背筋がぞっとした。断花と、いかにも惨いあだ名がついたのも納得できる。
 軍はどのみち、ネリネのことは合同墓に埋葬するしかないと思っていたので、亡骸の処遇についてはそれほど厳しく問われなかった。橘は実家のある幽安の近くに墓地を手配し、拘留中の身で動けない自分に代わって、ナーシサスに彼女の埋葬を頼んだ。
「挨拶に行けたのは、半年以上が過ぎてからだ。恋人を探し出して、連れていけたら良かったんだが、あまり派手に探し回るわけにもいかなくて、結局一人で行った。大尉に任せたもので本名は伝えられなくて、墓碑も門井ネリネの名で刻まれているんだ。そんな、本当に小さな墓なんだが」
「それでも、嬉しいわ。お墓なんてどこにもないと思っていたの」
 いつか、彼女に花を供えることができる。紅茶やお菓子や、女学生の頃、好きだけれど高価でなかなか手に入らなかったものを、やっと分かち合える。千歳は自分がまた新たに、生きる理由を見つけていることに気づいて、泣きながら笑いを漏らした。もう自分は、生きていくことに疑問を持てなくなっているのだ。
 冷たい風が、濡れた頬をさらっていく。腕を持ち上げようとした橘を制して、千歳は彼の上に手を伸ばし、窓を閉めた。
「後悔はいつも先に立たない」
 さらりと流れた千歳の髪の、影の下で、橘が呟く。
「誰のものでもない自由な体で恋人に返してやりたいなどという、情に流された俺のエゴイズムが、彼女を殺した」
「橘少尉」
「本当に彼女を想うなら、心ではなく、命を守ることだけを考えればよかったんだ。心を守るのは、俺ではなくて恋人の役目だったのだから。そんなことも分からずに……、できることはすべてしてやりたいなどと、驕っていた」
 そんなことはない、と千歳はかぶりを振った。でも橘の言うことが、必ずしも間違っているとは言い切れないことも、残酷な真実ながら心の奥では分かっていた。
 大切に想う人に、何か一つでも多く、自分が与えられるものをあげたい。それはごく自然な感情で――ネリネの監視者は、橘のそれを目敏く見破って、利用したのだ。
「だから決めていたんだ。もう余計な情に振り回されることのないよう、守るべき相手にこそ距離を取っておくべきだと。深入りせず、何を考えているのか、何を想っているのかなんて知らず、最低限の交流だけが成り立っていればいいと……そう思って、やってきたんだが」
 はたと、見下ろす千歳の視線に、橘の視線が重なった。
「……思いの外、手がかかる花と出会って、そうも言っていられなかった。何度お前が今どうしているかと、戦闘中に目を凝らして確認したことか」
 復讐さえ遂げられるならどうなってもいい、という態度で戦場に出ていった自分を、橘がどんなに肝を冷やして見守っていたか、今となっては痛いほど分かる。恨みを一手に引き受けてまで、生きさせようとしていた想い人の忘れ形見が、下手糞な魔術を片手に出陣しているのを見て、さぞ心臓に悪い毎日を送っていただろう。
 後悔は先に立たない。まったくもってその通りだ。千歳は片手で顔を覆って、首を垂れた。
「本当にね。ずいぶんと心労をかけさせたと思うわ。返す言葉も……」
「おい、ただの嫌味だ。急に汐らしくなられると困る」
「私にだって、過去を恥じることくらいあるのよ。それと、汐らしくなることもある。……何よ、その顔は」
 まじまじと、珍妙な生き物でも見るような視線を向けられて、千歳はふいと顔を背けた。今までこんなふうに話す機会がなかったというだけで、自分は別段、橘が思っているようなじゃじゃ馬というわけではない。……多分。
 そりゃあ、ネリネに比べればお嬢様らしさもないし、お茶やお花はいつも点数が悪くて、弓道だの乗馬だのが好きだったけれど――考えているうちに自信がなくなってきて、あれ、と首を捻った。もしかしたら本当に、汐らしさのない女なんじゃないかしら。
 気づかなくても良かったことに気づいてしまった千歳を見て、橘が「あー」とフォローの言葉を探して口を開いた。その声がふいに掠れて、伸ばしかけた手が眉間の中心を押さえる。


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