第一章 其の花は薊


 蜂が一匹、斃(たお)れている。
「お前、どこの隊の所属だ」
 うつ伏せた体の背中に縫い取られた金の蜂章(ほうしょう)が、暗闇の中でわずかに上下しているのを認めて、手袋を外した手でごろりと仰向かせた。濁った眼に、白い月が映る。逆光が浮かび上がらせた自分に呼びかける影に、若い蜂は一瞬、その目を見開いた。紅く濡れた唇が、細く、嗄れた息を吐く。
「――――」
 声はかすれて、足音一つでも鳴れば消されてしまいそうだった。でも、身を屈めた男も彼の後ろに付き従う者たちも、皆一様に息をひそめていたので問題はなかった。ア、と喉の奥で血のせり上がる声がして、月を背にした男がもう一歩、体を屈める。
「花の名は」
 周囲に物音はなかったが、今度の問いに答えた声を拾えたのは、問いかけた男一人であった。若者は懐かしむような眼差しで、自らの花の名を答え、事切れた。
 首が重たげに撓り、まだ温かな体が脱力する。身を屈めていた男は、琥珀色の目を静かに伏せて、その亡骸を地面に横たえると、
「支部へ運べ。丁重にな」
「はっ」
 後ろに控えていた者たちが、素早く集まり、黙祷を捧げる。そうして慣れた、無駄のない動作で一人が脚を、一人が肩を持ち、明かりを持つ者を左右につけて遺体を運んでいった。角灯の中で揺れる蝋燭の火が、暗闇を規則正しい速度で遠ざかっていく。やがて人の輪郭が闇に溶けても、まだ光だけは仄かに動いている様は、夏の盛りに見た灯篭流しの光景を彷彿させた。
「橘少尉」
 ベルトに挟んでいた革の手袋を嵌め、ポケットから煙草を一本咥えかけたとき、人群れをかき分けて少年が現れ、彼を呼んだ。通信兵だ。軽装備に角灯を腰へ吊り下げて、手に電報と思しき紙を握っている。
「本部から連絡が入っています」
 橘が手を差し出すと、少年は肩を上下させながら電報を手渡して、
「少尉の毒に適合する花が見つかったと。至急、黎秦(れいしん)へ戻られるようにとの連絡です」
 煙草を挟んでいた橘の指が、ぴくりと動いた。風が折りたたまれていた電報を開かせ、月明かりの下に短い指令が浮かび上がる。
 氷柱のようにまっすぐ下りた、金色の髪の間から目を動かして、橘は電報を片手で折り直し、ダブルカフスの奥に押し込んだ。カーキ色の厚い上着と黒い手袋の間で、白皙の手首が月を照り返す。
「分かった」
 短く答えて、橘は煙草に火を点けた。紫煙に混じって白い呼気が、冷えた夜の中を漂い昇っていく。彼の歩く後に、軍刀を下げた一群が続いた。革のブーツを踏み鳴らして、いくらかの血の匂いと共に、無言で夜風を切って進む。
 黎秦はここより冷えるだろうと、橘は思った。あそこは東の海から入る風が山間で冷やされ、木枯らしとなって吹き下ろす。きっともう薄い雪が舞っていることだろう。一年以上、花を持たずに過ごしてきた今の体には、寒さが只人のごとくひしひしと染み入る。
 寒さと水を防げる、オーバーコートが必要だ。箪笥の奥を思い返しながら、灰を振るい落とした。じきに師走もやってくる。そうなればこの香綬(こうじゅ)にも、雪が降るだろう。


 その蜂の毒は、花にとっては蜜となる。
 ひゅう、と木枯らしの吹き抜ける音が漆喰の割れた壁のむこうを走っていった。遅れてガタガタと、木戸が煽られて騒ぐ。所々に板を継ぎ足して古い木と新しい木の色がとりどりになっている木戸は、木枯らしのたびに昼夜を問わず鳴るし、防寒性もあってないようなものだった。ひとつ屋根の下に十軒余りが箱詰めされた、あばら家のような長屋だ。カランカランと外で柄杓の転がっていく音がする。お隣の富さんが打ち水に使う柄杓を、相も変わらず出しっぱなしにしているのだ。
「は……、くしゅんっ」
 擦れた畳の上に煎餅布団をきちっと敷いて、それ以外はろくなものが見当たらない部屋で、千歳は一人くしゃみをした。鼻の奥がじいんと痛む。冷えた空気を思いっきり吸い込んだせいだ。薄い羽毛布団を肩で巻き込むように被り直して、はあ、と吐息で自分の指先を温めた。
 ――東黎(とうれい)国の帝都・黎秦というけれど、郊外は寂れたものだ。
 大通りの一本裏が、得体の知れない小さな店で犇めき合うのと同じ。華やかなものの陰には、その煌めきからこぼれたものが行き場を求めて吹き溜まりを作る。わずかな空間に身を寄せ合って、風に吹かれては押し合いへし合いしながら、自分の隙間を見つけて息づくのだ。
 この長屋も、そんな裏空間の典型だ。ぼろぼろの天井を眺めていると、段々とここに横たわって震えている自分を俯瞰しているような思いがしてきて、体が浮いたように軽くなり、天井の高さを越えて天に向かっていく心地がした。寒さが薄れ、見えない布でくるまれたかのような、妙な安心感が手足に纏わりつく。
 カランと、外で柄杓が割れんばかりの音を立てて転がった。
 千歳はかぶりを振り、意識を切り替えた。いけない。朦朧として、妄想から軽い幻覚を見そうになっていた気がする。こうも熱が高いと、考え事と現実の境目はひどく曖昧だ。加えてそれが、霜月の上旬からもう一カ月続いている。そろそろ、体力も限界を迎えようとしているのだろう。
 ここまでなのかしら。
 千歳は薄く、隈の濃くなった目を開いて、枕元に手を伸ばした。富さんの置いてくれた水差しと、茶色の瓶がひとつ転がっている。水差しの水が眠る前より嵩を増している気がした。もしかしたら、眠っているあいだに入れ換えてくれたのかもしれない。
 後でお礼を、とぐらつく頭で思いながら、瓶を開ける。手が滑って、畳に褐色の錠剤が散らばった。
「ああ……」
 千歳は一瞬、心の底から愕然とした表情を浮かべた。だが、すぐに上体を起こして、片腕で這うようにして薬をかき集めた。東黎軍製特別支給薬、H75――Hは花のH、数字は改良を重ねた回数だ。貴重なそれを、片手で握れるだけ口に放り込んで、水で流し込む。
 後先のことを考えて、今死んだら意味がない。それにどのみち、もう意味を成さない薬だ。瓶の蓋を閉める気力もなく、枕の上に頭を仰向かせて、千歳は水で冷えた喉を冷やし続けようとするかのように大きく息を吸った。吐く息は熱く、清涼な水の心地よさはあっというまに消えてしまう。
 生まれたときから薬を飲み続けて、早ければ十六で効力がなくなると言われながら、用量を増やしたり回数を増やしたりと、ごまかしごまかし二十一年。春先に変な風邪を引いたかと思ったら、それが最終通告だった。体調が回復する兆しはなく、外に出られなくなり、歩けなくなり、みるみるうちに弱り果てて今に至る。
 長い息をひとつ吐き、千歳は静かな瞬きを繰り返した。そうして薬が効くのを待ってみたが、秒針の音がいくらコチコチと鳴っていっても、容体は一向に変わらなかった。大量に服用すれば、少しは効果があるかもしれないと心のどこかで期待していたが、無駄だったようだ。寝返りを打つ力もなく目を閉じる。すると途端に頭が少し軽くなって、銅鑼を打つような頭痛が遠ざかっていく感覚がした。眠りに就こうとしているのか意識が消え入りそうになっているのか、自分でも区別がつかない。
 死という灰色の不定形なイメージが、現実の形と足音を持って差し迫ってきているのを感じる。千歳は朦朧とした頭で、これが今際の際というものなんだわと確信した。脳裏に淡い、春の緑の着物を着た女の子が現れて、真っ赤な癖毛を靡かせて笑う。
 ――ネリネ。あの子も最期は一人だったんだろうな……


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