第一章 其の花は薊


 千歳、とその唇が懐かしい声で自分を呼んだ気がした。ここまで来て彼女の手を取らないのも、往生際が悪い。迎えがいてくれるなら、いてくれるうちに案内を頼むのだって懸命だ。行きはよいよい、帰りはない。長い旅路に友がいてくれるなら、例え幻でも、孤独よりはましだと思える。
 手足に降りかかる浮遊感に、千歳が今度こそ身を任せかけたときだった。
「薊さん! あーざーみーさん!」
 バタバタと表を走る足音に、閉じかけた瞼が開いた。富さんの声だ。転がっていた柄杓が蹴飛ばされて、激しい音を立てた。いつになく慌ただしい様子で近づいてくる足音は、あっというまに千歳の部屋の前へたどり着く。
「開けるわよ!」
 言うが早いか、彼女は木戸を破らんばかりの勢いで開けた。瞬間、ああそういえば水差しのお礼を言おうと思っていたんだっけ、と妙に現実的なことを思い出す。雲の中から引き戻された千歳は、彼女の勢いに飲み込まれながら、よろよろと体を起こそうとした。富さんは興奮した様子で、
「お客さん」
「え?」
「薊さんを探してらっしゃったから、連れてきたわ。ああ起きなくてもいいわよ。具合が悪くて臥せってるって、ちゃんとお伝えしてあるから」
 入り口のほうで、誰かが靴を脱いでいる気配がする。こんな場所まで、しかもこんなときに自分を訪ねてくるような相手など、千歳にはまったく心当たりがなかった。起き上がって確かめようとしたのだが、支えにした腕の力が入らずに、布団の中へ倒れ込んでしまって顔を見られない。
「どなたですか……?」
 掠れる声で、千歳が問いかける。
「東黎軍の将校さまですって。あなたの適合者だそうよ」
 答えたのは富さんだった。安堵と喜びをいっぱいに詰めた声色が、現実から離れかけていた千歳の意識を温めて、揺り起こす。適合者。その言葉に、はっと顔を上げた。視界に白い靴下と、カーキのズボンが映って、音もなく膝をついた。
 それじゃ、と木戸を閉めて富さんが出ていく。後ろ姿を視界の端に――千歳は突如として現れた青年を、呆然と見上げた。喋ったせいか、また熱が上がったようだ。揺れる視界の中で、枕元に片膝を下ろした彼の容姿をひとつひとつ、滲みそうになる辺りの景色と切り離して捉えていく。
 金色の糸で、蜂の紋章が縫い取られた帽子。帽子と揃いのカーキ色をした、東黎国騎蜂(きほう)軍の指定軍服。近くで見たのは初めてだ。前面に並んだ八つのボタンや、肩章、飾緒がすべて目映い金色で、長らく太陽の下に出ていない目の奥がきりりと痛んだ。
 青年は髪さえ金色だった。きっちりと下を向いた金色の髪は、癖がなさすぎて作り物めいた影を彼の鼻梁に落としている。白皙の肌に、玉眼のような透明な琥珀色の目が二つ嵌まっている。
「薊千歳で間違いないか」
 その目に微笑みひとつ宿さず、黒革の手袋で千歳の頤(おとがい)を上げさせて、青年は訊ねた。瞬間、千歳の脳裏に亡き友の姿がフラッシュバックして、
「――いやっ!」
 パン、と乾いた音が響き渡った。
 腹の底にまだこんな力が残っていたのかと驚くくらい、明瞭な声が出た。肩で息をして、そろりと起き上がった千歳に、青年ははたかれた手をそのままに鋭い視線を向けた。眉間に皺を寄せて、怪訝な顔をしただけで人を震え上がらせることができそうな、感情の底が読めない眸をしていた。
 千歳は一瞬、怯みかけた。だがすぐに深く息を吸って、改めて青年を頭の先から爪の先まで眺めた。
「薊千歳で間違いないかと、訊いているんだが」
「ええ。……貴方が私の蜂――適合者だっていうの?」
「そうだ。証明書なら持参している。何か問題でも?」
 ポケットから四つ折りにした紙を取り出して、見たければ見ろというように差し出す。あっけらかんとしたその態度に、千歳はこれ以上熱など上がらないと思っていた体の底から、腸が煮えくり返るのを感じて彼を睨み上げた。
「東黎国騎蜂軍曹長、橘・F・カーティス」
「……惜しいな。今は少尉だ。なぜ俺の名前を知っている?」
 ああ、やはりそうだ。以前に聞いていた通り。この男だ、この男が。
「――門井ネリネを、覚えているでしょうね?」
 彼女を、殺したのだ。
 ネリネ。その名が発せられた瞬間、面をつけたように動かなかった橘の顔に衝撃の色が走った。間違いない、と千歳が確信を掴んだ瞬間でもあった。心当たりがないとは今さら言えない顔だ。橘はすぐに元の冷淡そうな表情を取り戻した。端正な、日溜りを知らない人形のような顔である。だがその奥に隠れている残酷な本性を、千歳は決して見逃しはしない。
 隈に囲まれた眸で睨まれて、橘は観念したように、
「ああ。忘れはしない」
 短く答えて、それ以上は話す気がないことを示すように口を引き結んだ。そうして千歳が受け取らずにいる証明書を開いて、向きを千歳のほうへ合わせ、軍からの通達を見せた。
「血液検査の結果、この通り、お前には俺の毒への適性が認められた」
「だから、何? この状況で、私が同意するとでも?」
「ネリネのことは、俺と彼女の間で起こり、過ぎたことだ。お前には関係ない」
 頭が爆発するかと思った。千歳は信じられない思いで橘を見上げ、その眸の芯には氷しか詰まっていないのだと思い、奥歯を噛みしめた。
 ネリネは千歳の、女学校時代の親友だった。千歳と違って生粋のお嬢様育ちだったが、戦争で家族を亡くし、軍が経営する孤児のための女学校に通ってきていた。同じ花で、飾らない純真さがいつも周囲を和ませる少女だった。世間知らずに見えるわりには何をさせても卒がなくて、そういうところがまた、育ちのいい娘の学びや経験の豊富さを思い起こさせた。
 女学校を出てからも同じ工場に勤め、親交があった。だが彼女は卒業から一年足らずで、適合者が見つかったと言い、従軍の道を選んだ。
 橘・F・カーティス曹長。ネリネが配属先の支部から送ってきた手紙に記されていた、彼女のパートナーの名前だ。金の髪に琥珀色の目、初対面のときには冷たい印象を与えるけれど、戦場での統率力の高さと身体能力においては一級の人――ネリネは橘をそう評していた。
 最前線で戦う人だから、いつも最良の状態でいられるように支えたいと、彼女は綴っていた。本人にだって、誠意を持って接していたはずだ。応援している旨の返事を送り、慌ただしい日々の中にあるのかもしれないが、また彼女から連絡がくるのを待った。
 しかし、千歳が次に受け取ることができたのは、東黎軍からのネリネが死んだという知らせだった。彼女が従軍して、わずか二年のことだった。


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