第十章 追憶


「それは?」
 橘は彼が持っている、小さな缶を指差して訊いた。空気が一瞬、頬を裂くような緊張感を帯びた気がした。弟切はすぐに、ああ、と缶を見下ろして、
「坂下の友人が、見舞いにきてくれまして」
「こんな時間にか?」
「そういう男なのです。騒がしくするわけにもいかない時間でしたので、部屋には上げずに、外で話しておりました。紅茶だそうで」
「へえ、ずいぶんと良さそうなものだな」
「どうせしばらく戦場へは出られないのだから、これでも飲んで、休むことだけ考えたらいいと」
 赤地に金の細やかな装飾が施されたそれを、弟切はちょっと上げて見せる。そうか、と橘は答えた。弟切も頷き、深く頭を下げる。
「私の未熟が招いたことではありますが、少尉もあまり無理をなさらず、どうかそろそろお休みください」
「ああ、分かってる。分かってるから、もう謝るな」
「なぜ私が謝ろうとしたと、お分かりに?」
「そんなに頭を下げていたら、誰だって分かる」
 成程、と弟切は申し訳なさそうに苦笑した。それを見て橘も、軽く笑った。
「それじゃ」
「はい。お休みなさいませ」
 弟切は今一度、今度は浅いお辞儀をしてその場を立ち去った。廊下を歩いていく、足音のほとんどない背中を見送りながら、橘は独り首を捻った。
 ……坂下から、わざわざこんな夜に?
 薄い雲がかかったように、どうも釈然としない。普通、怪我人を見舞いたいなら日の明るいうちに訪ねるのが礼儀ではないだろうか。だが弟切は彼を「友人」と言った。親しい間柄ならば、それほど礼儀に囚われなかったとしてもおかしくはない。
 仕事が終わって、手土産を買いに行って、それから来たと考えれば妥当な時間だ。
(考えすぎか? 駄目だな、神経が立っていて冷静じゃない)
 今なにかが起こっても、自由に動くことができない。そう思うと、日頃は気にかからないような些細なことまでが気にかかる。目に映るものが何もかも疑わしく見え、何が本当で何が嘘か、考えることに疲弊する。
 千歳に秘密を打ち明けたということもあって、余計に気が張っているようだ。今夜は一旦、考えるのはやめにして休もう。そう思って、ノブを回す腕に力を入れたとき。
「……ッ、く」
 ずきりと背中を雷が駆け抜けて、橘はドアに額を押しつけた。前髪に隠れていた冷や汗が、どっと鼻梁を伝う。やはりまだ動くには無理があったようだ。弟切の前では平静を装い通したが、少し腕を上げるだけでも、連鎖して動く肩や背中に耐え難い激痛が走る。
 目の前の景色が歪んで見えた。ドアに刻まれた四角い模様の角々が滲み、交錯して、周波数の合わないラジオのようにぶれて、
「橘少尉?」
「……千歳」
「えっ、何してるのよ! まだ寝てなきゃだめじゃない」
 吐き気がする。そう思ったとき、廊下の奥から花を抱えた千歳が現れ、立ち尽くしている橘に気づいて、慌ただしく駆け寄ってきた。


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