第十章 追憶


 予想もしていなかったことを言われて、キャビネットを閉める手が止まった。え、と間の抜けた声を上げたのが、自分でも分かった。
 橘はベッドから頭だけ上げて、開けてみるように促した。今まで贈り物を用意されるような穏やかな間柄ではなかったし、何より紙が、点々と染みや黄ばみを持っていて、どう見ても最近包んだものではない。
 千歳はまったく予想がつかないまま、黙々と包みを開けた。古びているが、妙にきっちりと包まれた紙の中から、聞き覚えのある音を立てて手のひらに転がり出てきたのは、
 ――……これ。
 黒い蝶の形をした、ネリネの髪留めだった。
 二度と見るとは思わなかったそれに、胸が大きく震えた。驚きで言葉も出なくなっている千歳に、橘は思い出を振り返る口調で明かした。
 ナーシサスに埋葬を頼んだ際、彼がこれを外しておいてくれたこと。自分の元に持ち帰ることで、ネリネの遺体を確かに引き受けた証としてくれたこと。以来、このキャビネットの二段目に、ずっと眠っていたこと。
 千歳は申し出が本当に嬉しかったが、形見はもらえないと断った。だが橘は首を横に振って、いいんだと頑なに言った。
 ずっと、いつか番の蝶をとまらせた花に出会ったら、渡そうと決めていたのだと。ネリネは恋人と同じで、親友の名前を決して言わなかった。だから手がかりは「赤い蝶」という情報しかないが、香綬でも余所の支部でも、花繚軍の女性に出会うと必ず髪を見た。
 香綬に来る日、木戸を出てきた千歳の髪に留まっている蝶を見て、ああ本当にネリネの言っていた少女だ、と確信がいったという。以来、いつになるかは分からないが、千歳の手に返すつもりで持ち続けていたと。
 そうまで言われてはもう、遠慮のできるふりなどしていられるはずもなく。とっくに話の途中から握りしめていた髪留めを、千歳は有り難く譲り受けた。これを買いに行った日の記憶は、今も鮮やかに思い出せる。赤と黒の蝶をそれぞれの髪に留めて、
 ――ねえ見て、千歳。
 ――なに?
 ――私の髪にあなたが、あなたの髪に私がいるみたい。
 鏡を指してそう言ったネリネに、何だか気恥ずかしくなって、大袈裟ね、なんて笑ったのだ。本当は大袈裟でもなんでもなくて、最初からそのつもりで、二色しかない髪留めを選んで「私、赤が好き」と言っていた。自分が遠回りにしてしまうことを、何のてらいもなく言える彼女の素直さが、心から好きだったし少し羨ましかった。
 ナーシサスにもらった写真と一緒に、これからはこの蝶も、連れていくことにする。千歳はうん、と頷いて袷の内側に髪留めを戻した。それから、そうだ、と思い立って兵舎に向けかけていた足をラウンジに向けた。
「花を飾るには、花瓶が必要よね」
 絶対、あの部屋にそんなものはなさそうだ。殺風景な橘の部屋を思い出して、一人納得した。ラウンジでウイスキーの空き瓶でも貰っていこう。あそこには毎晩、たくさんの兵士がお酒を楽しみに来ているから、適当なテーブルに声をかければ手に入ると思うのだ。

 一方その頃、橘はベッドに起き上がって、枕に背中を凭れさせたまま窓の下を見ていた。支部の正面は防犯のため外灯が並んでいるが、少し奥まった兵舎の周りには、明かりと呼べるものはほとんどない。その中で二つの人影が、先刻からずっと話し込んでいる。
 蜂の能力が高いゆえか、元々そういう体質だったのか、橘は結構、夜目が効くほうだった。さすがに昼と同じ視界を得ているわけではないが、ある程度見知ったものであれば、暗闇の中でも十分に見分けられる。
 だから、一目見て人影の片方が弟切であることにも気づいた。
(もう一人は、知らないな。どこかの下士官か?)
 新兵は常に増え続けている。自分の隊の外の者までは、それほど把握していない。弟切の友人だろうか。そう思いながらも目を離せずに、橘はじっと、聞こえない会話に耳を欹てるかのように二人を睨んだ。
 暗闇の中で、弟切の折っていないほうの手が、何かの身振りに合わせてひるがえる。日常の動作でも、戦術でもそうなのだが、彼は静から突然に動きを生む。無駄な予備動作が一切なく、まさしく流れるようだ。気づいたときには剣が振るわれていた。手合わせをすると、そんな錯覚に陥ることが何度もある。
 優れた蜂だ。そのわりに、自己主張が少なく寡黙な彼は人目につきにくい。気がついたらいたり、また気がついたらいなくなっていたり。
 ――ああいう奴には、造作もないことじゃないのか。夜に紛れて、通信兵を一人始末するくらい……
 誰の目にもつかず宿営地を出て、任務を果たすことくらい。そこまで考えて、橘ははたと我に返り、かぶりを振った。弟切は部下だ。忠実に命令をこなし、多少の無茶な作戦にも実力をもってついてきてくれる彼を、今さら疑うなど。疑心暗鬼にも程がある。きっと少し、神経が過敏になっているのだ。
(今日、俺が話したことで、千歳も真実を知った。これからは、あいつが狙われる可能性も考えて動かないとな)
 どこで誰が何を聞いて、何を考えているか分からない。千歳にネリネの話をしたことで、彼女との関係は確実に良くなり、自分が長らく抱えてきた孤独感も消えたが、同時に今後は千歳の身辺にも注意を働かせなければならないだろう。
 ようやく彼女が、この世に生きる価値を見出してきたのだ。暗闇に蠢く影にみすみす狩り取られることのないよう、今度こそ選択を違わずに、守り抜かなくては。
 窓の下の二人の影が、別れて動き出した。橘はそれをしばし見つめた後で、少し考えてから、布団を押しのけた。
「……っ、つ」
 立ち上がろうとすると、背中に痛みが走る。だがどうやら、部屋の外に出るくらいはできそうだ。点滴が外れて飲み薬になったおかげで、手も自由が利く。ベッドに手をついて足を下ろし、慎重にドアへ向かった。
 疑心暗鬼は、胸の内で飼い続けても意味がない。晴らすためにも、あるいは黒と確信をつけるためにも、必要なのは確かめることだ。
「弟切」
 廊下を歩いてきた人影に、声をかける。
「……橘少尉?」
 下を向いて、何か考え事でもするような顔で歩いていた彼は、呼ばれて初めて橘の存在に気づいたようだった。驚いた表情で目を見開いて、足を止めた。その右手に、何か赤い缶が握られている。
「どうなさったのですか。まだ絶対安静では?」
 部屋のドアに凭れるようにして暗がりの中に立っている橘を見て、弟切は困惑を精一杯押し隠した様子で言った。絶対安静、の声が震えたのは、原因を作ったのが自分だという自責の念からだろう。
 橘は痛みなどまったく感じさせない、いっそ穏やかな表情で、
「そうなんだが、どうしても少し歩きたくなってな」
「ああ……、そうでしたか」
「お前こそ、こんな時間にどこへ行っていたんだ? 怪我人なのは同じだろう?」
 あまり動き回ると、治りが遅くなるぞ。世間話のような口調で、そう諭す。ええ、と弟切が素直に答えた。どこへ行っていたのか――質問に対する返答はない。


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