第九章 門井ネリネ・下


 通信兵の荷物は、宿営地を出るときにチェックを受ける。だから血液は確かに渡し、宿営地を出た後で、速やかに処分してもらう。代わりに看護婦は薬品庫へ忍び込み、錠剤になる前の、H75の原液を一瓶ポケットに忍ばせている。糖衣に包まれる前のH75は、水に溶かすと血液と実によく似た赤色をしているのだ。
 栄養剤を含む点滴に混ぜられたH75が、橘の血液に代わって、ネリネを生かす。
 次に会うときは、彼女の中にはもう、毒に似た清らかな薬品が満ちているばかりだ。体内を巡る血中からも、開いた目や、肌を形成する細胞からも、自分の痕跡は跡形もなく消えている。そのときこそが別れだと、
「おや、カーティス中尉。顔色が少し悪いんじゃないかね?」
「どうも、ナーシサス中尉。採血の後でして」
「ああ、そういうことか。向こうで食事が配られているよ。行って、体に栄養を補ってやりなさい」
「はい」
 橘は一人、静かな覚悟を決めていた。

 支部で過ごす一ヶ月は、一定の水量で蛇口から流れ続ける水のようであるが、戦場での一ヶ月は、バケツを引っくり返したように一瞬だ。幽安支部や黎秦本部からの援軍を新たに迎えながら、橘たちは旧王都を西へ向かって切り拓いていった。途中、往生際悪く残っていた西華の残党や、彼らが置いていったと思われる西鬼の群れを討ち果たしながら。
 そしてとうとう、国境を越え、西華の最東端に陣を敷いた。黄昏に深緑の、東黎の国旗を棚引かせて、これより二晩の休息を取り、明後日の夜明けと同時に兵を青興へ進める。
「それでは、行ってまいります」
「ああ。道中、逃げ遅れた敵兵が潜んでいるかもしれない。くれぐれも気をつけて」
 外套をはおり、馬の背に跨った橘は、シランに見送られて宿営地を後にした。ここから香綬支部までは、馬を駆けさせれば半日程度で着く。シランが特に速い馬を貸してくれたので、さらに幾分か短縮できる見込みもある。早ければ日付の変わる頃、遅くとも夜明け前には支部の門をくぐり、ネリネの元に辿り着けるだろう。
 彼女は今、どんな気持ちで自分の到着を待っているのだろうか。不安、緊張――本当は、そんなものをすべて取り払って、本当の自由の身にしてやりたかったけれど。
(でも、俺にできるのはここまでだ)
 力があっても、立場がなければ、できないことがたくさんある。軍の中における橘の地位はまだまだ若手のそれであって、今の橘には、ネリネの犯した罪を捻じ伏せるまでの権力はなかった。だから真実を、彼女ごと逃がす。そうすることでしか、ネリネを助ける道はなかった。
 せめてそれだけは、自分がしてやらなくては、と。
 手綱を引く手に力を込めて、月明かりにうねる川の傍へ差しかかったとき。
「……え」
 何かがふいに、行く手に転がってきた。暗闇の中でじりじりと火花を散らす、握り拳ほどのそれは、
「――――ッ!」
 手榴弾だ。気づいて手綱を引いたが、間に合わなかった。馬は唐突な指示に反応しきれず、困惑に嘶いて、そのまま突き進もうとした。振り落とされそうになる力を利用して、橘は鐙を強く蹴り、後方に飛び降りた。
 瞬間、何者かに首の後ろを強く叩き込まれた。
「な……っ、この!」
 爆発が一瞬、辺りを照らし出して相手の姿を見せた。フードを目深に被っていて、顔は見えない。相手もまた、一撃で仕留められなかったことに動揺したように見えた。
 橘はその隙をついて、相手を殴ろうと振りかぶった。だが、馴染みのある眩暈が視界を歪ませた。
(血清剤が……っ)
 ネリネを帰してからの一ヶ月、久しく服用していなかった血清剤を使っていたせいで、体が思うように動かなかった。想定と実際の動きにタイムラグが生まれ、拳が相手の頬を掠めて抜ける。フードが切れて、その顔が見えそうになった。だが次の瞬間、真後ろから後頭部に衝撃を受けて、目の前が真っ暗になった。
 ――照明弾なんかあったのかよ。馬を殺したら代わりがないから、どうする気かと思ったぜ。
 ――言ったろ、黙って見てろって。
 ――黙って見てたら、やられかけたくせによく言うよ。
 ずきずきと痛む頭の奥で、そんな会話が聞こえたような気がした。うるせえな、と吐き捨てた声と、横たわった耳元に響く足音を最後に、橘の意識は遠退いていった。

 目が覚めると、見たことのない天井が広がっていた。
 かすかに檜の香りが滲む、木造の建物の一部屋だ。古ぼけた畳が海のように延々と広がっていて、突き当りに立った障子戸から、朝の光が差し込んでいる。
 ……ここは?
 ぼやけた頭を動かして、細く開いた障子戸から覗く景色に目を凝らすと、枕の中でそば殻の動く軽い音が聞こえた。ずいぶん質素な煎餅布団に眠っている。橘は状況が掴めないまま起き上がろうとして、
「い……っ」
 ずきん、と痛んだ後頭部に手をやった。その瞬間、意識を失う前の出来事が、フィルムを巻き戻すように頭の中になだれ込んできた。
「失礼しますよ、と。あら、お目覚めでいらっしゃいましたか」
 反対側の障子がすらりと開いて、小柄な人影が上がりこんでくる。
「お前……!」
「おお、大きな声をお出しにならんでください。年寄りの耳は小さすぎれば聞こえず、大きすぎても聞こえませんゆえ」
 振り返って、何者だ、と怒鳴りかけ――橘は呆気に取られて言葉を失った。そこにいたのは、狡猾な鼠のような男でも、背中を丸めた屈強な大男でもない。
 白い割烹着に身を包んだ、いかにも小さな、一人の老婆だった。
「……何者だ?」
「あれまあ、覚えていらっしゃいませんか」
 予想外の人物に唖然としながらも、結局、口を噤む前に言いかけた質問と同じことを口にした。橘は動転し、この者が自分に何をしたというのか、どんな手を使っても吐かせるつもりで睨んでいる。だが老婆はそんな視線にも気づかず、はあよいしょ、と橘の近くまでやってくると、
「ここは坂下の小料理屋・しん、と申します」
「……は?」
 橘の思いもかけなかった地名を、名乗った。
 老婆は眉間に皺を寄せた橘に、仕方のない若者を見る柔らかい眼差しを向けて、
「どこの隊の将校さんだか存じませんが、その制服、騎蜂軍の方でございましょう。貴方様は昨夜、そうですねえ、確かもう日付の変わる頃にここへいらっしゃって。何でもいいから何品か作ってくれと、この婆に仰って、なので里芋と烏賊の煮たのと、もつの味噌煮と、お雑炊と……」
「待て、待ってくれ。それでどうしてこうなる?」
「それは貴方様、常連さんとお話が弾んで、大層お酒をご注文になって。それで二時ごろに、いよいよ店を閉めるってお帰りいただいたと思ったら」
「思ったら……?」
「婆は心臓が止まるかと思いましたよ。坂下の入り口のところで、仰向けになって、どおんと倒れていらっしゃったんですから」


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