第八章 門井ネリネ・上


「ねえ橘さん、勝負しましょう」
「何を?」
「先に一匹、取ったほうの勝ちよ。勝ったら負けたほうに、なんでも一つ、訊きたいことを訊けるっていうのはどうですか?」
 ほらあそこ。綿菓子の纏いついていた割り箸を飴のように口へ入れたまま、悪戯っぽい目で指を差す。彼女が示した先には、子供たちで賑わう金魚屋台がひとつ、安い電飾をいっぱいに巻いて煌々と建っていた。

 朝がきたら水槽と餌を買ってきて、入れ替えが済んだらネリネの部屋へ移そう。
 そう話していた金魚は、朝がきてみれば丸瓶の水面に横たわって死んでいた。祭りの生き物の命は短い。それは誰しもが子供の時分に学ぶ暗黙の了解であるが、それにしたって住処と餌くらい与えさせてくれて、一週間や一カ月は生きていたっていいものを。
「あとでどこか、野良猫に見つからない場所に埋めてあげるからね」
 ガラス瓶のなだらかな肩を指で撫でて、ネリネは安心させるようにそっと語りかけた。昨夜は彼女のポイにお前が飛び乗ったせいで、物心ついたばかりの頃の幼い初恋の話など語らされる羽目になって散々だったのにと、そんな数時間前の恨みさえ今となっては少し懐かしい。
 久しぶりに飼った生き物は、なんの構えもない場所にやってきて、なんの構えもないうちに死んでいった。悲しむに至るだけの、なんの思い出も残さずに、だ。無であることの寂しさが、見開いたままの魚の目から、漠然と押し寄せてくる。
「橘さん」
 ネリネの手が、そんな言いようのない感情を汲み取ったように橘の腕を撫でた。
「西華では、小さな生き物の死は悪いことではない。その生き物は天の使いで、あなたの命を守るために身代わりとしてやってきたのだ、と言います」
 橘は思わず、眉をひそめて、
「ここは東黎だ」
「ええ、そうですわね」
 ネリネはその反応を見越していたように、穏やかな表情で受け流した。にこりと微笑みかけられて、橘のほうがたじろぐ。先刻までは漠然と虚しいだけだった浮いた魚の腹が、ふいに何か、薄ら寒くて気味の悪いものに思えて足を退いた。
 橘の手は無意識に、ふだん刀を下げている左の腰へ向かっていた。
「ネリネ」
「はい」
「お前、何か……俺に隠していることがあるんじゃないか?」
 ネリネは答えない。
「昨夜も、本当は俺を勝たせたかったんだろう。勝って、俺がお前に――何を訊くのを期待している?」
 問いかけながら、橘は自分の言葉が確信に変わっていくのを感じた。彼女は最初からそのつもりで、勝負を持ちかけたのだ。ところが橘は子供の頃、血清剤のせいでいつも体調が悪く、夏祭りなど行ったことがなかった。当然、金魚すくいも初めての経験だった。おろおろしている間にポイは切れ、結局、勝負は無難な秘密を打ち明けるだけの遊びに終わった。
 敵を前にして刀を握るように拳を握り込んだ橘を見て、青灰の眸が、ふっと寂しげに揺れる。
「言ったら、あなたは何者として私を罰しますか?」
「え?」
「契約者として、東黎の軍人として? ……はたまた、私を監視する者として、だったりして」
 ネリネの言葉に、橘は息を呑んだ。彼女は笑顔を崩さない。まるで窓の外から、天井から、床下から、今も誰かが見ていると信じて演技を続ける女優のように、微笑みを張りつけたまま、声だけをひそめて言った。
「分かっているんです、きっとあなたは紛れもない東黎の人」
「ああ」
「でも、私にはその確信がない。だから怖くて、言えなくて――……お願いです。もしあなたが私の監視者ならば、今から背中を向けますから、そこにある刀で一思いに斬り捨ててください」
「そんなこと……っ」
「違うのならば、秘密を暴いて。……私を、捕らえてください」
 呆然とする橘に、まるで普段、それではと立ち去るときのように軽やかな会釈を残して、金魚の入った瓶を手に、彼女は出ていった。


「その、数日後の話だ。俺が第三資料室から、大量の血液サンプルをどこかへ持ち出そうとしたネリネを取り押さえたのは」
 包帯から指先だけ覗かせた手で林檎をひとかけ取って、橘は懐かしい記憶の苦さを呑み込むように、それを口へ入れた。さり、と瑞々しい音が静まり返った部屋に響く。千歳は自分が剥いた林檎に手を伸ばすのも忘れて、愕然とした表情で橘を見つめていた。
「ネリネは……、西華の人だったってことなの?」
「端的に言うとそういうことだ。西華の人間というか、西華から送り込まれた諜報員だな」
「諜報……」
「まあ、こっちもケイみたいなのを送り込んでいる。やってることはお互い様だ」
「それは、そうだけど」
「門井ネリネ、本当の名前はネリネ・ファンブレー。出身は西華国東部・蝋蝉(ろうせん)。七年前の東黎と南輝との競り合いに紛れて、東黎に侵入。一家全員が死んだ門井家の娘を偽って、孤児院へ入り込み、将来的に軍の支部に潜り込むため、女学校へ進学したそうだ」
 こぼれた果汁を舌先で舐め取って、橘は淡々と語った。
 ネリネの両親は若い頃から過激な言動の目立つ思想家で、蜂花軍を抜けた元軍人でありながら、反東黎を掲げて大帝争いに疑問を投げかける活動を続けてきた。その結果、とうとう軍から指名手配を受け、三年間の投獄がされている。釈放後、彼らは監視の目を掻い潜り、西華への亡命に成功した。一年後、彼らは西華で赤子をもうけた。
 その子供こそが、ネリネ・ファンブレー。母親譲りの真っ赤な髪と、父親譲りの知的な青灰の眸をした一人娘である。
「亡命した二人の後ろ盾になっていたのは、西華の皇帝だった。それで一人娘を、将来あなたのお役に立てましょうということで、幼い頃から諜報員にするために育てたんだ。東黎訛りを仕込んで、父親が契約者になって、母親が花として魔術を基礎から叩き込んでな。東黎はいかに残虐で非道な国かという教育を、物心つく前から徹底的に行った」
「そんなの、洗脳だわ」
「そうだ。だがネリネにとっては、それが家であり、日常だったんだ」
 想像して、千歳は思わずかぶりを振った。どんな暮らしなのか、思い描いても想像が及ばなかった。
 戦争は多かれ少なかれ、洗脳の戦いだ。恨みのない相手と殺し合うことはできないから、自らを護るために敵を恨む。だが無垢な子供に意図した敵愾心を植えつけることは、戦争を次世代まで長引かせる要因に他ならない。何より、我が子に嘘を教えることへの抵抗はないのだろうか。千歳は実の両親を覚えていないが、自分を育ててくれた施設員はそんなことをしなかった、と思い出して目の奥を熱くさせた。
 実際には、嘘の教育こそ施していなくても、「蜂花は軍に入るために生まれた」と教育することも軍に絶対服従させる一つの洗脳ではあるのだが。橘はあえて、今は千歳をこれ以上戸惑わせないよう、そこには触れずに話を続けた。
「ネリネは香綬支部の情報を盗み出して、指定の場所に届ける仕事を行っていた。指令書が、気づくとポケットに入っているんだそうだ。誰が入れているのか、いつ入れられたのかも分からない」
「その人が、ネリネを監視していた人なの?」
「それも分からない。内通者は一人とは限らないだろう?」


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