外伝 土塊に咲く花


「まあ、御免なさい」
 沈丁花のように赤い髪の下で、七宝によく似た灰色を帯びた青の眸が一対、申し訳なさそうに瞬きをした。門井ネリネだった。こんなに近くで見たのは初めてだ。びっくりして固まってしまったすみれに、彼女は首を傾げると、
「お怪我はなかったかしら?」
「あっ、はい! すみません、こちらこそ」
「大丈夫ならいいのよ」
 慌てふためいて頭を下げようとしたすみれを制するように笑って、それじゃあ失礼します、と会釈をした。そうして、ちらと辺りを見回し、たった今すみれが出てきた店へと入っていった。
(あの人も、こんなところで食事をするのかしら)
 すみれは少し意外に思いながら、よろけた拍子に脱げかかった草履を履き直して、質屋を目指した。金杉隊の門井ネリネといえば、橘少尉を前線に復帰させた功労者にして、上官の覚えもめでたい期待の新兵だ。同世代の花の中では、頭一つ抜けた存在として有名だった。

***

「私があなたの名前を知ったのは、その翌日。契約者が軍の処分を受けて、北明監視部隊に左遷されることになったと報告を受けたときでした」
 思い返せば今も西日の中に浮かび上がる、懐かしい記憶を語り終えて、すみれはいくらか緊張が解けたように目元を和ませた。蜂花契約の強制解除――契約関係にある蜂花のどちらか、または両名に軍規違反、または相手を著しく苦悩させる問題が発覚した際、軍が発令することのできる契約の解除命令だ。これを受けると当人同士の意思に関わらず解約と見做され、配属先の移動など、双方の接触が徹底的に断たれる。
 その命令が、すみれと契約者の間に下されたのだ。すみれに対しては軍が「花の三十日」を越えられるよう、可能な限りの医療的サポートをすることが約束された。
「弟切一等兵の告発により、契約者に調査が入った結果、彼がこれまでの行いを自白したとのことでした。なぜお分かりになったのでしょう。私が支払っていた分が、契約者のつけだと。ジナさんが証言したのですか?」
「彼女には何も訊いていませんよ、どんな客であれ客は客です。問い質しても答えて良いものか、迷わせるでしょうから」
「では、どうして?」
「簡単なことです。貴女が一人で、あれだけのつけを負うほどの酒豪には見えませんでしたので」
 年齢から見ても、と付け加えた弟切に、すみれは確かにと思い至ったように笑った。あの頃、軍の内部では年齢制限などあってないようなものだったが、それでも当時、すみれはまだ公に酒を口にする歳ではなかった。
「あなたのことは、探してみたらすぐに分かりました。どうして今までこの人を知らなかったのかと不思議なくらい、輝いて見えました」
「……そうでしたか」
「花の三十日を越えて、私は痩せこけ、しばし療養のため黎秦に配属されておりましたので、あなたは私の顔をお忘れになったかもしれません。戻った私を見ても、ただ他の新兵を見るのと同じ、凪いだ目をしておられました。けれど私の目は、そのときからずっと、あなたの輝きを追うようになっておりました」
 あの美しかった懐中時計、そのものを見るように。目を閉じれば今も瞼の裏に思い描ける青や緑を想って、すみれは膝の上で、両手をそっと握った。あの日、余ったお金で他の店のつけをすべて支払って回り、最後の店で一杯だけ、わずかに残った分から自分のためにソーダ水を買った。渇いていた喉を潤して外に出たら、ずっと谷底から見上げているように途方もなく眩しく見えていた空が、いくらか近くなった気がした。地上に戻ってきた。生きた心地というものを、久しぶりに味わった瞬間だった。
 花の三十日は苦しかったが、窓から空を見るたび、これが終われば自分はまたあの空の下で生きられるのだと思った。そこには弟切がいることを思い出すと、熱にうなされて眠れない夜にも耐えることができた。
「私は分かっていたのです。これは、憧れのような恋なのだと。叶うとか叶わないとかではなくて、ただあなたを見ていたい恋だったのです。だからあなたに美しい花が寄り添っているのを見ても、悲しい気持ちにはなりませんでした」
 それは弟切の、つい一月前まで契約者だった花を指していた。入隊から三年、ずっと共に戦ってきた存在だった。彼女も先日、花の三十日を無事に越えた。それ以上の報告は、彼女の意思により断絶されている。
「あなたのような優しい方に、花がつかないはずがありません。お似合いの二人を遠くから眺めて、私はあなたが幸せならそれだけで幸せでした」
「鞍笠さん」
「私を選んでほしいなどと、生涯言うつもりはなかったのです。けれど終戦後、風の噂に、あなたとあの方が契約を切ったとお聞きして、居ても立っても居られなくなりました」
 すみれの肩が小さく震えているのを見て、弟切は彼女を宥めようとした。だが彼女はかぶりを振って話を続けると、その薄墨色の目で弟切を見つめて、覚悟を決めたように言った。
「私と契約をしてください。そのために、私は二度目になる花の三十日を越えて、今日ここへ訪ねた次第なのです」
 弟切はその言葉に、唖然として息を呑んだ。花の三十日を越えた? つまり今、彼女には契約者がいないということか。
 言われてみれば肌も青白く、頬や手の先も窶れ気味に見える。だがそんなことを微塵も感じさせない、花茎のように伸びた背中、ぴんと張った胸、何よりその目。生きる力に溢れたその姿の原動力が、今ここにこうしている自分だと言うならば。
 それは確かに、本当の恋だ。一時の狂騒でも、ありふれた憧れでもない。身に覚えのある、恋の成せる暴挙だ。
 弟切はしばし考えて、静かに口を開いた。
「貴女がかつて契約者に傷つけられていたように、私は以前の契約者を騙していたようなものです。例え、貴女にとっては優しかったとしても」
「それは……」
「私は彼女が自らを、私の恋人であると自負していることを、気づいていながら指摘も否定もせずにいました。すべてはただ、そのほうが好都合だったから。余計な波風を立てたくなかったから。そんな理由にすぎません」
「はい」
「私がそのような人間であるということを、分かっていますか?」
 美しすぎる記憶は、時に他のすべてを霞ませてしまう。たったひとつの眩しさが、塵も、淀みも、すべてを隠すのだ。光に覆われた土塊を敢えて突きつけるように、弟切は強い語調で訊ねた。すみれは一度、唇を引き結んで言葉を探すように視線を下げると、
「理屈では分かっています」
「……では、」
「けれど儘ならないのが、人の心というものです」
 そうでしょう? と訊ねるように、困ったように微笑んで首を傾げた。
 誤っていると分かっていても、進む足を止められない。本当に? と自問しても、扉を開く手を戻せない。行き着く先が見えなくても、だからといって、引き返すことはできない。
 確かに、そういうものだった。弟切は静かに目を伏せて、少し考え、瞼を持ち上げた。
「鞍笠さん」
「はい」
「私にはかつて、国家をひとつ転覆させてもいいと思うほどに、愛した人がいました。彼女以上に私の心を曇らせるものはなく、また彼女以上に、死してなお私の生きる光となるものはありません」
 脳裏に、今もあの真っ赤な髪と、微笑みが振り返る。夢の中でも、こんなときでも、絶えず笑って「司」と囁く。それを思い出と呼ぶか、呪縛と呼ぶかは分からない。だがしかし、どちらにしても自分の一部であり、捨てられないことに変わりはない。
「彼女がここにいる限り、私は貴女を愛することはできないでしょう。それでもやはり、と、思いますか?」
 胸に手を当てて、弟切は訊ねた。そこには千歳に譲られた、一枚の写真が入っている。
「存じております」
 まっすぐに背筋を伸ばして、すみれは頷いた。
「それでも儘ならない私のため、あなたの人生の一部をいただきたいのです」
 にこりと微笑んだその顔は、紙のように白いのに、青空のように晴れやかだった。
 弟切はテーブルの下で、ぐっと手を握った。そうして意を決して立ち上がると、すみれの傍へいって、頬にこぼれた髪を耳へかけた。
「適性検査は、済んでいるので?」
「……良く言って七割だそうです。毒にもなりませんが、互いに本来の力を引き出す良薬とも言えません」
「なるほど」
「本来であれば、契約基準からは外れる数値だと。以前の契約に比べると、少し身体に不調を来しやすくなるかもしれないとのことでした」
 頬に添えられた弟切の手に、睫毛を寄せるように瞬きをして、すみれは適性検査の結果を正直に告げた。なるほど、と弟切はもう一度相槌を打つと、
「そうですか、では」
「はい」
「支え合って生きてみると、しましょう」
 くすりと笑って、驚きに息を呑んだすみれの唇に、自らの唇を重ねた。

 外では変わらず、サッカーに興じる兵士たちの歓声が響いている。
 その花が咲くのはいつも、春と呼ぶには肌寒い、名ばかりの春の頃。どうしてここに、と憐れみたくなるような、乾いた土塊の上なのだ。



【土塊に咲く花/終】


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